Ventus  160










呼吸のリズムを乱さないように。
鈍い脚は意識して上に上げて。
調子は掴めてきた気がする。
それでもまだ体は地面に吸いつけられるように重く、息は簡単に上がってしまう。
感覚に体が追い付いて行かない。

焦る気持ちは分かるけれど、一度に詰め過ぎないように。
検査を終えた医者の声が耳の奥に響いた。

体は時間をかけて練り上げていくものだから。
そう言っていたのはマレーラ・ピースグレイだった。
いつも親友のリシアンサス・フェレタと一緒に顔を出してくれていたが、その日は一人だった。
彼女は戦場を知らない。
惨状を見ていない。
それでも大切な友人を失った痛みは大きく、身を置いている世界がひとつだけでないことを知った。
前と同じように、とは彼女は口にしなかった。
戻れるはずがないことが分かっているからだ。
それでも、ベッドの上にいるクレイの手を握り、待っているからと祈るように口にした。

病院の外周を五周巡り、裏庭に戻ってきて速度を落としていった。
木々が生い茂り、小路が隙間を縫うように走っている庭。
何気ない林だったが、よく整えられている。
木漏れ日は柔らかく小路に降り注ぎ、仰げば緑のトンネルだ。
体は上気しているが、徐々に冷えてくる。
額から流れる汗が外気に冷やされ、季節の移り変わりを感じた。
時間が流れることをこれ程まで哀しいと感じたことはない。
時々襲う不安と切なさがすべてひとつの点から噴き出しているのは分かっている。
クレイは足を止める。
手のひらを上腕に滑らせて首を垂らした。
身を堅くして腕を抱え込んで、凌いでいくしかない。
震える唇を噛み締め目蓋を伏せて、ゆっくりと息を吸い込んだ。
大丈夫。
大丈夫だ。

熱くなった目蓋を再び持ち上げて、人気のない小路を歩いていく。
白壁の病院が見えた。
校舎からも訓練施設からも遠く木々に埋もれるようにひっそりと建つ病院だった。
外来での患者はおらず、表玄関も静かなものだった。
裏庭はなおのこと落ち着いていた。
温かければ散歩をする患者や見舞いを見かけることもある。
肌寒い季節になったからか、やはりここにも人がいない。
少し前ならばベンチは盛況だった。
今は患者衣の上にコートを羽織った中年男性が一人、本を開いていた。
クレイは裏庭からの建物に入る扉に向かった。

「あら。もういいの?」
入って横から声が飛び込んできた。
作業着に身を包んだ中年女性がクレイの側に立っている。
ちょうど彼女を探そうとしていたところだったので手間が省けた。

清掃員の彼女は、出てきたばかりの用具室に姿を消すと、預かっていたクレイの荷物を持って現れた。
中身は着替えだ。

「そこを使ってもいいですか」
「ええ構わないわ。せっかくだしその後お茶に誘いたいところだけど、休憩時間は終わったところなのよね」
人の良さそうな丸い顔に手を当てて、用具室の扉を開いてくれた。
狭くてごめんなさいね、と申し訳なさそうに言ってくれたが無理を頼んでいるのはクレイの方だ。
手早く着替えを済ませて湿った服を袋に詰めた。

「ありがとう」
「またいつでもいらっしゃいね」
入院中に顔なじみになった彼女は清掃用具を鳴らしながら軽やかに立ち去っていった。
学校付属のトレーニングルームや寮の近くでも走れる場所はいくらでもある。
設備も整っていて、わざわざ検査のついでに外周を走らなくとも体力作りはできるはずだった。
ただクレイは今、あまり人に会いたくない。
時折浮き上がってくるセラへの想いに潰れそうになる。
いつだって崩れそうなぎりぎりのところで立っている。
不安定な姿を曝したくはない。
触れられれば崩れそうだった。

洗面所で顔を洗い、袋を提げて裏庭に出た。
ベンチで本を読んでいた男の姿は消えている。
部屋に帰ったのか検査の時間だったのか。

庭を見回せるベンチに腰を下ろした。
日当たりも良く、気候のいい季節にはここが一番賑わっている。
疲れの残る脚を伸ばして、背中をベンチの背に沿わせた。
こうして時間を好きに使える庭が学校の敷地内には多くある。
拘束とは逆の発想。
しかも単に気の休まる場所を与えてやったというスペースではなく、手入れも愛情も行き届いている。
セラはそういった木々に囲まれた場所で過ごす時間が何より好きだった。
生き生きとした草花の中に座るのが好きだった。
時よ止まれ、痛みが進まぬように。
ふと過ったのはクレイの言葉でもセラの言葉でもない。
いや、セラの口を介して伝えられたジェイ・スティンの歌だったか。
その時は聞き流していた言葉が沁みていく。


芝を踏み分ける音にクレイは視線を持ち上げた。
忘れていた瞬きを数度繰り返す。

「クレイ・カーティナーさん、ですね」
声を掛けることに躊躇うような、しかし声の芯ははっきりとしていた。
確信を含んだ柔らかい声にクレイは顔を向けた。

「そう、です」
喉に引っ掛かる言葉。
声を聞いて、目を合わせて、予感が頭の端でスパークする。
緊張が筋肉を固めていった。

「退院したと聞いて」
「ああ、今は授業も受けている」
「寮に行ってみたの。そうしたら今日は病院にいるんじゃないか、と教えてくれた人がいたの」
クレイの行動を知っているのはマレーラかリシアンサスぐらいだ。
「今日は検査で」
動悸が骨の中で鳴り響く。

「あなたが目覚めているときに、どうしても会いたくて来てしまったわ」
悲しみを含んだ微笑み、頬の形、口の形。

「あなたは」
手が冷たくなっていく。
震える指を強く組み合わせて押さえつけた。

「セラの母です」
言葉が紡げない。
歯が鳴らないよう噛み締める。
ああ。
頭が白くなる。
何を彼女に言えばいい。
何ができるというのだろう。

「私を恨んで下さい」
やっとの思いでその言葉だけを捻りだした。
組み合わせた両手を祈るように胸に押し付けて体を屈めた。

「セラを死なせてしまった」
死ぬべきではなかったのに。
死ぬはずではなかったのに。
死んではならなかったのに。
彼女の前ではどんな謝罪の言葉も、口にすることすら罪悪だ。

「恨んだわ。憎んで、泣いた。気が狂うかと思うほど。恨みで世界が壊せそうになるほど。でもそれは」
母は顔を伏せたクレイの頭に手を当てた。

「あなたじゃない」
その言葉と声には偽りはなかった。

でも、事実は。
守れなかった。
守りたかった。
手が届かなかった。
祈りも、願いも、想いも、希望も。
指先をすり抜けて行った。

「ディグダを恨んだ。あの子を戦場に向かわせた人たちを恨んだ。今でも、憎んでいるわ。きっとそれは消えることはない」
当然だ。
それでも彼女はこの地を踏んだ。
なぜ?

「ここにはあの子が大好きだったものがあるから」
クレイの髪を撫でるわけでも慰めるわけでもなく、ただ手のひらを乗せている。

「私は何も許せない。自分も。これは罪だ」
同じ場所にいた。
同じ時の中にいた。
すぐ近くにいたのに守れなかった。
力が足りなかった。
弱かった。
守るために強くなろうと決めたのに。
セラを守りたかったのに。

「私の罪だ」
「そう、きっと。あなたの言葉で自分に刻んだ罪は消えない。ならばせめて、私の言葉で私だけはあなたを許しましょう」
顔を上げなさい。
涙で崩れた顔をクレイは上げた。
濡れた頬をセラの母が撫でる。

「あの子が遺したのは痛みばかりじゃないわ。セラがあなたの中に何を遺したのか。刻み込んだものは何だったのか。あなたはそれをこれからの人生で探さなくてはならない」
真摯な母の目、その奥にセラを見た。

「セラはあなたとともに生き続ける。それがあなたができる償いなの」
流れ込んでくる彼女の声を何度も噛みしめた。
消えないよう、心に沁みつけた。

これは誓いだ。
誠実で、静謐で、厳かな誓いだ。
答えなど、決まっている。
それこそが、クレイ・カーティナーの贖罪。

「はい」
私はセラと共にある。
これからも、ずっと。












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