Ventus  159










「おはよう」
耳の後ろから響いた声に目蓋を動かした。
糸で縫いつけられたように重い。

もう一度、少し低い声で呼びかけられた。
体が重くていうことを聞かないが意識は人語を理解できるまで覚醒している。

「今寝るな。眠れなくなるぞ」
体を揺さ振られた。
拘束されるように体に繋がっていたチューブが最近になって外れ、それから扱いが荒くなっている気がする。

「忙しいんじゃないのか」
腕の上に頭を乗せて窓向きの体から寝返りを打った。
シーツから顔を引き剥がそうとするが腕に力が入らないので、これが精一杯だ。

外が薄明るい。
今は朝だろうか夕方だろうか。
時間を見るにしても頭を浮かせて捻らなくては、頭の先に置かれたテーブルまで視界が届かない。

「暇ではないけど」
眠らないから、このままの姿勢で許せと言葉にするのは億劫だったので、顔の下に腕を敷きながら壁を眺めて聞いていた。

「引越しと言っても斜め移動だしな」
「そうか、特別寮に入るんだったな」
クレイは目を閉じた。
しばらく寮に戻っていない。
懐かしい円い園庭。
その周りを環状に巡るアーケードとそれから伸びる放射状の廊下。
上から見たらクモみたいで。
響いた声をかき消すように目を強く閉じた。

廊下に沿って、上からみたらアーチ状に内に丸まった背の高い六層構造が二棟仲良く並ぶ。
男子寮と女子寮だ。
その奥に八層でひとつ抜き出た棟に食堂と特別寮が収まっている。

「居心地はどうだ」
「悪くない。今度遊びに来いよ」
「入口で止められるだろう」
「大丈夫だろ」
フロアで性別分けされているが、部外者のレヴィでも入れたので問題ないと楽観的だ。

カイン・ゲルフは軍への配属が決まっている。
卒業前に引き抜かれた「特別」な者たちは軍が指定したプログラムを受けながら学校に通う。
タイムスケジュールも授業とは異なるため、また身体管理の観点からも、指定の居住区を与えられる。
それが特別寮だった。

「食事は」
「変わらない。けど栄養管理は細かいみたいだ」
「面倒なことだな」
そんな特別寮も仮住まいだ。
一年後のことか、いつかはまだ知らされていないが軍での仕事が始まれば寮を出て、軍の施設に入ることになる。
クレイは力の戻ってきた腕でシーツを突き離し、ベッドの上に座った。
立つ、歩く、話すといった基本的な動作は徐々に回復してきてはいるが、疲労回復に時間がかかるのは基礎体力が落ち込んでしまっている。
筋力自体が衰えているので、元の体に戻すには時間がかかる。
医師は、そうは言いながらもまだ若いから大丈夫だと笑って彼女を励ました。

「ずいぶんと疲れてるな。今日は何をした?」
「マレーラとリシアンサスが昼間に来て、散歩した」
「今日は天気も良かったし、気持ちよかっただろう」
クレイを見舞った後、病院の回りをひと巡りしたことがある。
病院の院長か誰かはしらないが、いい趣味をしている。
庭園のことについてカインは何の知識もなかったが、病棟からも美しい木々が眺められ、また庭はゆっくりと時間をかけて歩けるように設計してあった。
ところどころに配置されたベンチも庭に調和していた。
以前から思っていたが、敷地内に点在する庭はただ木々を植えているだけではなく、一種植物園ともいえるくらい綺麗に整えられていた。
寮前に広がる円い庭は、中央に根を張る巨木を中心に芝生が美しい。
環状の訓練施設の環の中には庭がありクレイやカインもよく立ち寄っていた。
セラ・エルファトーンのお気に入りの場所でもあった。

こちらが口を閉ざすと、クレイから話を始めることはない。
根気強く、カインは質問をし昼間の散歩と庭の風景を引き出した。
授業の空き時間を合わせて二人でやってきた午前、彼女たちはクレイに挨拶程度の話をした後クレイを外に連れ出した。
クレイを間に挟み、彼女の歩調に合わせて三人が庭を歩く。
学校のことは口にしなかった。
何気ない話だったので、内容はあまり覚えていない。
ぽつりぽつりと会話が繋がり、時折沈黙。
マレーラとリシアンサスの二人が会話を投げ合い、その玉がたまにクレイに投げられる。

「ちゃんと食べてるか」
「それなりに」
青白い顔を眺めながら、妹を気遣うように顔を覗き込む。
伸びた髪が肩にかかるのを煩わしそうに払って、ベッドの端に足を下ろして腰かけた。

「出されたものは」
「美味いのか、ここの食事は」
「下の食堂は美味いらしいから、美味いんじゃないのか」
マレーラとリシアンサスが話していた。
時間があれば昼食を下で食べて帰ることもあるらしい。
許可が貰えたら下で一緒に食べましょうね、とリシアンサスが微笑んだ。

「確かに、食堂のは美味いな。この学校って庭にしろ食事にしろ妙に凝っているところがあったり、かといって授業とか規律とかはストイックだし。偏ってるよな」
それにはクレイも同意だ。
セラも同じことを口にしていた。

セラは。
セラなら。
セラが。

自分の見るもの、触れるものすべてにセラ・エルファトーンが染みわたっている。
こんなに深く食い込んでいる。
体全体で会いたいと叫んでいる。
細胞の一つ一つが恋しいと泣いている。
涙を一粒流したら、収まりがつかなくなる。
呻きながら奥歯を噛みしめた。

「我慢するならしていい。でもセラを忘れようなんて、死んでも考えるな」
カインが肩を、クレイの肩にぶつけた。
彼女の存在がクレイを形成した。

「それは、俺が許さない」
クレイの意識が深く沈んでいるときに口にした言葉を繰り返して言った。




夜風が冷たくなってきた。
再び目を開けたとき、頭のすぐそばでカーテンが揺れていた。 横
顔に影が覆いかぶさる。
ベッドが小さく揺れる。
何だ。
瞬きをしながら、身構えた。
滑りのいい窓の締まる音がした。
肌寒い風は音共にぴたりと止まる。

「起きてるの?」
聞き覚えのある幼く高い声が顔の真上から下りてきた。

「今起きた」
影が遠のき、ベッドが再び軋む。

「今眠ると夜眠れなくなるわ。私もお昼寝したとき夜がなかなか眠れなくて困るもの」
眠るつもりはなかったとクレイは思ったが、つまらない言い訳のように聞こえそうなので黙ったままでいた。
カインと話が終わるとすることもないので横になった。
夕食にはまだ時間がある。
テレビを流してもおもしろいと思えない。
時計が乗っているキャビネットの横に丸椅子が置いてある。
その上にはクレア・バートンが置いて行った制服が広げられることもなく放置されていた。
この患者衣を脱ぐ日はいつになるのか。
しばらく新しい制服に腕を通すこともない。
部屋を眺めているうちに眠ってしまったらしい。

「今日は来客の多い日だ」
「そう?」
今度はすっきりと目が覚めた。
体が粘質なシーツに囚われていた先程の目覚めと違う。
減った分の体力が少し戻ったようだ。

「夕食を持ってきてくれたみたいなの。でもマア、眠っていたから」
腹が減っているのかよく分からない。
胃袋はまだ寝ぼけているらしい。

「また持ってきてくれるのですって。呼んでみましょうか?」
小さな手の上にいつのまにかナースコールが乗っている。

「食事は」
「うーん。ここで食べて行こうかな」
「今日はひとりで」
「待合室にひとりいるの」
クレイが時計を見る。
夜の八時を過ぎている。

「まだ下の食堂は開いていたか」
「ここで、食べたいな」
腰かけているベッドの上で体を縦に揺らした。

「夕食、あと二人分用意してくれないかしら」
「それは、どうだろう」
食事のケータリングをしてくれるのかクレイは知らない。
そもそもこれまで病院というものに世話になったのはほとんどない。
彼女にとって医者がいる場所は小さな診療所というイメージだった。
それが歩きまわれるようになって、この病院の広さに驚いた。
聞いてくる、と少女は軽やかにベッドから飛び上がった。
裾の長い服の下から小さな平たい靴が覗く。

「陽花」
扉に張り付いた少女の名を呼んだ。
大きな目がクレイを振り返る。

「カインに会ったそうだな」
陽花(ヤンファ)は溶けそうな瞳でクレイを真っ直ぐに見つめた。

「だって会ってみたかったんだもの」
彼女が普通の少女だったならば、問題はない。
問題は彼女の生い立ちにある。
戦場で拾われた彼女には生きる自由を与えられた。
と同時に、彼女は行動を制限された。
世の光に当ててはならない、そうしてこれまで過ごしてきた。

「老が何度かここに来たのよ」
「それは、知らない」
クレイは老(ラオ)と呼ばれている人物に会ったことがない。
陽花を保護した後、後見としている大人らしい。
詳細を陽花は口にしようとしないし、陽花が身を置いている屋敷でも主のことを掘り返すのは良くない空気が流れていた。

その老は、陽花がカインに会うことを承知したのだろうか。
クレイの意識が戻ってから、陽花は度々病室を訪れていたがいずれも深夜、人目を避けて面会時間外のことだった。
陽花がカインのことを知っていた。
セラの口から洩れたのだろうか。
いろいろと推測し、思い付きを練り合わせたが、絡まるばかりですっきりしない。

「マアも老に会えるわ」
「そうか」
会ったところでどうもできない。
挨拶をするか? その後は。

「だって家族なんだもの」
家族?
怪訝そうな顔をクレイはしただろう。
だが陽花は怯むことなく、体をクレイに向けて言いきった。

「家族だもの。私とマア、老、それにセラ」
クレイは脳内で探る。
家族の定義とは。
しかし言葉や表現の枠型を陽花は容易く乗り越える。

「マアにとってセラは掛けがえのない家族だった。私も家族になりたい」
「それは」
どこからが家族でどこからが家族でないのか。
セラを家族だとするならば、それ以外のものとは。

陽花は扉を出て行った。
少し広くなったような病室。
白い電灯が寒々しく室内を照らし出していた。

「カインに聞けば分かるのか」
レヴィ・ゲルフという家族がいる。
セラと同じくらい情を注げる存在が現れるのだろうか。
大切だと思えたときが家族になれる瞬間なのだろうか。
問いかけても誰も答えない。
自問しても答えは浮かび上がって来ない。

弱ってしまった足先を見た。
何もかもが変わってしまった。
いや、これからは一歩踏み出すごとに違う足場ができていく。
触れるものすべてが新しいものになるのだろう。
先が見えないとはこういうことを言うのだと実感している。

セラがいなかった頃に戻った訳ではない。
出会う前は一人だった。
去った後も一人になった。
だが、違う。
何もかもが、世界すべてが。
何て冷たく、何て寂しい。
クレイは両腕を抱き寄せて身を固くした。
これからずっとこの冷たい道を歩いていくのかと思うとぞっとした。

陽花が女性を伴って戻ってきた。
看護師ではないらしいその女性は、陽花に似た裾と袖の長い異国風の衣装から屋敷の人間だと考えるまでもなく判った。
陽花の護衛件保護者として同行した。
流れるような動きでクレイに頭を下げる。

陽花の口から、食事はここで取れるのだと楽しそうに告げられた。
女性が部屋の端から机を引き出して椅子を並べはじめる。
クロスを広げ、どこから持ち出してきたのか茶器を用意し始めた。

陽花がクレイの傍らに歩み寄り、ベッドに腰かけていたクレイの手を取った。

「家族がわからないのなら、教えてあげる」
温かい小さな手がクレイを引っ張った。

「名前を貰って、いろいろ教えてもらったわ。家族ってとっても温かいものだっていうことも」
教えたのは、老かあるいは老の屋敷の人間たちだろうか。

「だから今度は私がマアに教えるの」
足を下ろして陽花が揃えた靴に爪先を入れた。
膝が崩れないよう、筋肉の動きを確かめるようそっと立ち上がる。

「食事は、みんなで一緒のほうがおいしいのよ」
一人で歩けるが、温かい手を放せなかった。
陽花がしっかりと握っていたからだ。
椅子まで導かれ、茶葉が開くまでの時間を三人で囲んだ。












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