Ventus  156










大きな厚みのある手のひらを、壊れそうに細くなった腕の下に潜らせた。
血管と筋が浮いている。
皮膚の下で動脈が微動しているのに、酷く冷たかった。
砂糖細工を持ち上げるようにそっと手の上に乗せて引き上げた。
腕には数本の管が纏わりつく。
叫びたい衝動。
抱き寄せたい衝動。
乱暴に扱えば脆く崩れてしまいそうな姿に心の底が冷え、思考は白濁して立ち止まる。
呻き、込み上げる熱を息を止めて散らし、噛み締めた唇を震わせた。
あまりに惨い。
セラだけでは足らず、彼女まで連れて行く気か。
力なく垂れた手首を口元に寄せた。
乾いた皮膚からは消毒液と薬の臭いがした。
点滴で浮腫んだ手を温めるように包み込んだ。
日が暮れて、面会時間が終わるまで彼は彼女の側で、黙って手を握り時折腕や顔を拭き清めていた。




連日、夕刻になると彼が現れるのを、看護師は目撃していた。
背が高く鼻筋の通った整った顔。
金色の髪は爽やかに短く刈られていた。
風貌もさることながら、澄んでいるのに物憂げな瞳もまた目を引き、看護師たちの話題にしばしば上がった。
兄か恋人か。
彼女の個人情報の中で親族欄はすべて空白だった。
意図的なものか、あるいは本当に一人なのか、探ることはいけないことと知りながらも顔を寄せ合って話題に花を咲かせた。

看護師が点滴を取り替えに彼女の部屋に入った。
広い個室、窓からは庭が一望できる最上階、ただの学生が入れるような部屋ではなかった。
時計と点滴の落ちる速さを合わせながら彼女は思い出した。
親族欄は空欄、身元引受人がクレア・バートンとなっていた。
クレアは何度かこの病院で見たことがある。
赤い髪をした美人だった。
その時は軍服を着て同僚の見舞いに来ていたが、名前を覚えていたのは彼女が教師も掛け持っていると聞いたからだった。
看護師の弟も学生だったので、あるいは彼女と出会っているかもしれない。
そういう小さな繋がりが、今回また浮き上がってきた。

親族欄にしろ身元引受先にしろ空欄というのは珍しいケースだった。
ここの学生は身元がしっかりしている。
逆にいえば、家柄などとはいわないものの居住が定まった一定の子供しか入学できない。
いまや巨大都市に膨れ上がったディグダクトルには流れ者が日々増えつつある。
どこの者とも知れない身元不確かなものは、学校の規律を乱さぬためにも入学は遠慮するというのが暗黙の決めごとだ。
待遇も情報も特A級の子供。
小柄な可愛らしい子に見えるが、流れてきた噂を思い出す。
入口に近いカーテンを引き、清拭の用意を始めた。
寝具を避けて、患者衣を剥いで順に清めていった。
細い体。
食事を摂っていないせいで骨が浮いてきている。
それでもまだ形のいい筋肉が肩から背中にかけて残っているのが布越しに分かった。

そうだ、この子。
すごく暴れたのだって聞いたわ。
その場で数えられただけで敵が十数人、味方数人が死傷したと誰かが言っていた。
この病院にも運ばれて来たのが二、三人いたって。
看護師は寝台の上でクレイを転がしながら体の半面を拭い始めた。

一人は袈裟に切られて失血死。
もう一人も内臓をやられていて三日後くらいに亡くなったのだったか。

一通り拭き清め、折り目が付いた新しい患者衣を寝台の半面に広げ、慣れた手つきでクレイを回しながら袖に腕を通していった。
服の前を合わせ毛布を彼女の上に元通り被せて、腰を伸ばした。
カーテンを開くと椅子の上に噂の彼が座っていた。
カーテンレールの音で組んだ膝に乗せた本から顔を上げる。

「おまたせしました。どうぞ、もういいわよ」
「ありがとうございました」
本を座っていた椅子に置いて、ご丁寧にも深々と頭を下げる。

「ごめんなさいね。貴重な面会時間を割いてしまって」
看護師はそう言って白い壁にかかった時計を仰いだ。

「いえ。俺がいつもより早く来ただけですから」
「どうぞゆっくりしていってね」
「はい」
「そうだ。お名前、聞いてもいいかしら」

このタイミングで聞かれるとは思っていなかった彼は一瞬目を開いた。
看護師は小さく微笑む。
驚いた顔が子供っぽくて、犬のようで可愛らしかったからだ。
本当はこの子は笑っている方がずっと似合っている。
彼女が目覚めたら、彼の笑顔も戻るのかしら。

「カイン・ゲルフです」
彼が名乗り、看護師も笑顔で名を交わした。

「必要なものがあったら言ってね。あなたはこの子の家族みたいなものだから」
「家族」
「恋人?」
「大切な友人です。本当に、大切な」
看護師の隣で横たわっている動かないクレイに視線を移した。
その目が、慈しむように温かい。

「触れ続けていれば、あなたの心は届くわ。心も、体も深く眠っていても。堅い殻に覆われていても、温もりは殻を溶かしていく」
「何か、セラに言われてるみたいだ」
カインが痛々しい顔で小さく笑う。

「セラ?」
「彼女がただ一人、心を許して受け入れた、愛した人です」
それ以上は立ち入ってはいけないと看護師の心の中でランプが点灯している。
カインが寝台に近づき、冷たい彼女の頬に手を当てた。
セラ。
その名を反芻しながら彼女は病室を後にした。
新しい登場人物に、看護師の間ではまた話が熱を持つことになるだろう。
だが軽々しく口にしてはいけない気がした。
カインの口から出たその名は、酷く重いものだった。




授業を終えてから足は自然に寮のある園庭ではなく、病院に向かうようになった。
クレイを見舞うようになってから二月は経った。
ナースステーションで目があった看護師たちに会釈して通り過ぎ、足音の響く静かな廊下をいつものように大きなゆっくりとした歩調で進んだ。
長い廊下の奥にある窓、床に四角く切りとられた木漏れ日を見ながら、彼女の目覚めを祈る時間だ。
今日は手を握り、何を話そう。
マレーラとリシアンサスも授業の空き時間や休日に、僅かな時間でも顔を出しているらしいなと聞いてみようか。
扉を開けると先客がいた。

いつもカインが椅子を寄せて座っている場所に、小さな客が座っていた。
右手に気配がして振り返ると、痩身の女性が滑らかな動作で椅子から立ち上がり礼をした。
入口の音に振り向いたのはクレイに似た濃い髪の色、大きな瞳をした少女だった。
足のつかない椅子から爪先を伸ばして床に着地すると、椅子を回り込んでカインの目の前まで歩み寄った。

「こんにちは」
物怖じすることのない澄んだ高い声の少女が、真っ直ぐにカインを見上げた。

「こんにちは」
一瞬たじろいだのはカインの方だった。

「はじめまして、なのかな」
クレイの友人は少ないはずだ。
そのほとんどとカインは顔を合わせたことがある。
セラが結び付けてくれたのだった。

「はじめまして、じゃありません」
カインは記憶を探る。
こんな小さな子だったらどこかに記憶しているはずだ。

「そうかセラの」
カインが言い終わらないうちに、扉の隣に立っていた女性が少女に寄り添った。
帰ろうと促しているのか、カインを警戒しているのか、彼女の口から漏れる言葉を気にしてかは分からないが、少女の肩を包み込むように隣に並んだ。
しかし少女は一向に気にせず、カインだけを見つめていた。

「わたし、ヤンファといいます」
「俺はカイン・ゲルフ。クレイとセラの、友人だ。君は、今日はこの間のような服ではないんだね」
壁に寄せてあった椅子をヤンファの側にまで寄せてきて腰を下ろし、彼女にも促した。

「目立つからと。でも着慣れなくて足下が涼しくて落ちつきません」
十歳頃だろうか、その割には大人びた話し方をする。
最近の子供はそういうものだろうか、と思考がそちらに曲がり始める。

「このひとと、わたしの関係については聞かないのですね」
「話したければ、聞くけど。話したくないなら、聞かない」
クレイとセラが何も言わなかったということは、何かしら理由があるからだとカインは思った。
カインとレヴィ、ゲルフ兄弟はセラと懇意にしていた。
話しの中で一度と、幼い少し風変りな服を纏った少女は出てこなかった。
クレイが聞いているとも聞いていないとも分からないこの場で、少女を何者だと掘り下げるのは野暮な気がした。

「このひとは、わたしのお母さん」
「え?」
「ほんとうの、ではありませんけれど」
「そう、だよな。いくらなんでも無理がある」
しかし一度跳ね上がった心臓の音はまだ鳴り止まない。

「クレイ・カーティナーにわたしは拾われたそうです」
「どこ、で」
「戦場で。知ったのは最近です。わたし、覚えていないんです」
ヤンファが女性の手を借りて床に降りた。

「何も思い出せないわたしがもらった、新しい名前がヤンファ」
頭に乗った二つに丸めた髪を少し傾けて笑った。

「陽があたる花、陽のもとにある花、陽花(ヤンファ)。それがわたしの名前です」
「素敵な名前だ」
「わたし、もうそろそろいかなくちゃ。ね?」
斜めに見上げた先にいる女性が言葉を受けて小さく頷く。

「今出られましたら、お迎えできますかと」
「マアのこと、よろしくお願いします」
シフォンのスカートを揺らしながら彼女は部屋を横切り、吸い寄せられるように扉に体を寄せた。
動きが軽やかで、そのあたりで走り回る子供たちとは違う空気を纏っていた。

「それではまた、いつかどこかで」
彼女が消え、女性も消えた。
何事もなかったかのように部屋にはいつもの静けさが戻ってきた。












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