Ventus  147










女は薄汚れた毛布を抱えていた。
彼女自身も擦り切れた衣服をまとい、目の下に影の落ちた青白い顔色をしていた。
髪は乾き、薄く開いた唇は割れ、その下から歯が覗いている。
笑っているのではない、人形のように虚ろな目と表情を失った顔。
滲み出る彼女の疲労感に背筋が寒くなり、亡霊のように立ち尽くす姿から目が離せなかった。

彼女の後ろでは、ネジが外れて塗装の剥げた看板が風に煽られて身を震わせている。
風は足下でディグダ兵が読み捨てた雑誌の一片を蹴飛ばしていく。
人気を失った町に呑まれそうになっている彼女は一歩、こちらに踏み出してきた。

低い塀で囲まれた屋敷を補給基地として占拠し、備蓄管理と負傷者の一時収容、簡易措置を行っていた。
セラが経過を診ていた患者が踏み出した女を威嚇するように見据えている。
傍らにいたセラは対処に困り、女の腕の中の物を見定めようと目を細めた。
同行した学生兵はまだ巡廻から戻って来ない。
ここまで連れて来てくれた軍医は室内で処置に当たっている。

セラの耳が音を捉え、眉を動かした。
座っていた階段から腰を浮かせて手摺に手を掛けて立ち上がった。
そのセラの上着を負傷兵が強く引く。
黙って女を見据えたままだ。
行くな、と言うことらしい。

「巡廻が一巡してくる。二分と掛からないはずだ」
「あの人、赤ちゃんを抱えてる」
セラが立ち上がったのが視界に入り、女は顎を僅かに上向けて薄らと唇を震わせて口角を引き上げた。
笑っているらしいが、哀れさが彼女の背中から覆い被さり、押し潰されそうに苦しく痛々しい姿だった。
顔を胸元に落とし、黄ばんだ毛布の端を捲った。
視線を落とした横顔は母親の表情をしていた。
喉に引っ掛かり掠れた声が微かに動く唇から漏れ出た。
セラは階段を下りた。
ちょうど建物の端で巡廻のディグダ兵が角を回り込むのが視界に入った。
階段の下まで来ると、敷地ぎりぎりまで近寄った女の声が鮮明に聞こえた。

「助けて、下さい」
服の下でも分かる、細い腕で抱いた子供を少し持ち上げた。

「この子」
汚れた女の顔、その目尻には涙が滲んでいた。

「どうか、頼める人はもう」
言葉を詰まらせる。
顔を再び上げて、セラへと我が子を差し出した。
子供は最初に小さく声を上げたきり、音を立てない。
相当に衰弱しているのが分かる。
大柄とは言えない母親の腕の中にしっかりと収まる、まだ乳飲み子の大きさだ。

「離れろ! エルファトーン!」
殴りつけられたような怒号が背中に叩きつけられた。
あの軍医の声だと気付かぬ程強い声。
振り向いた隙に、持ち上げた腕の中に赤子が押し付けられていた。

はっとする間に、今度は軍医がセラの肩を引き、左手で赤子を引き離した。
布に巻かれた赤子が軍医の手を離れて小さな放物線を描いて地面に放たれる。
軍医に押し出されたセラはよろめきながら補給基地の方へと身を投げ出した。
巻き立つ土埃へ反射的に目蓋が閉ざされる直前、視線はセラが腰を下ろしていた階段へと滑った。
隻眼の負傷兵が深く傷を負った脚を引きずりながら階段を這い、施設の扉に手を掛けて開いたままこちらを見ているのが分かった。
彼が、軍医を呼んだのだった。

何かがぶつかる音がした。
いや、爆発音か。
顔と体に生温かいものが降り注ぐ。
火薬の臭いを鉄の臭いがかき消すように混じり合う。
けたたましい笑い声。

「目を、閉じろ、エルファトーン」
途切れ途切れの軍医の声がした。
彼がセラに立ち塞がっている。
左腕は垂れ下がっていた。

「目を閉じろと言っている!」
閉じようと目蓋に力を込める。
だが痙攣して言うことを利かない。

地獄のようだった。
地面は真っ赤に染まっている。
一つに固まっていたそれは、あらゆるものが飛び散っていた。

その隣でそれの母親が空を仰いで壊れたように笑っている。
駆けつけた二人の巡廻していたディグダ兵に両腕を抑えられていた。

「返しに来たのよあたし。邪魔しないで!」
あの弱々しい姿は消し飛び、枯れ木のような喉に血管を浮き立たせて叫んだ。
憑りつかれたように真っ赤な目で軍医とセラに目を見開いた。
赤子の血を被り、涙のように目の縁から流れ出る。

「こいつはね、こいつはね、ここで生まれたの。お前たち、お前たちが!」
叫び声を上げた。
言葉ではない。
絶叫は続いた。
彼女の血なのか、赤子の血なのか分からない赤を前面に被り、口から顎を、首を染めながら。

セラは口元を押さえて転がった。
赤子の死骸の姿だけではない。
それに絡みつく人の怨念で吐いた。
母親であるはずのこの女がしたことも。
この女をここまで貶めたディグダ兵へも。
幼くして使われて散った命に対しても。

これが人か。
これが人間のすることなのか。

地面に吐いて、口元を拭い、セラは軍医に向き直った。
垂れ下がった腕を取り上げる。

「ごめんなさい。すぐに、止血を」
階段まで這い出し、鞄を掴むと医師のもとへと駆け寄った。
震える手は器具を取り損ない時間がかかった。

「焦らなくていい」
医師はそのまま地面に転がった。
息が荒い。
セラがようやく包帯を巻き終えるところまできて、ようやく安堵の溜息をついた。
腰も傷を負っている。
失血も多い。
未熟なセラの目でも、医師の左手は再起が難しいように思えた。
何にせよ、急ぎの処置がいる。
意識がしっかりしていれば、彼の指示でセラが施術できたかもしれない。
だが頼りの彼は失血で意識が朦朧としつつある。
セラ一人で手術を行うのは危険過ぎる上、物資の備蓄はあっても輸血用血液は保管されていない。

「逃げろ、セラ・エルファトーン」
「何をいきなり。それにどこに」
「どこでもいい。ここではない、どこかに」
「わたしのせいなのです」
セラは血が滲む医師の腕を手に取った。

「君は、何も知らなかった」
「知らないことが罪だと、今心から知りました。わたしは、なんて愚かな」
「知らないことが罪ではない。知ろうとせず目を背けることが罪なんだ」
医師はセラの震える肩に手を掛けた。

「君はCRDの関係者なのだろう?」
脱力した医師の手がセラの上腕部に滑り落ちる。
軍に入り、組織に染まればIDカードの代わりにチップを埋め込まれる。
仲間同士の殺し合いなど悲しいだけだ。
ましてそれに巻き込まれる人間を見るのは辛いと言葉に出さぬ思いが伝わってきた。

「知り合いはいないのか。君を安全なところに匿ってくれる」
セラは首を振った。
彼女はただの学生だ。
CRDといっても、ただ遭遇しただけに過ぎない。

「生き延びろ。君はここで死ぬべき人間ではない」
「わたしはあなたを死なせたくない」
セラは仰向けに倒れた医師の左側に回り込み、右腕を両手で引き上げた。
体を捻り、肩越しに前に持ってくると、担ぎ上げようと歯を食い縛って膝に力を込めた。

「どうするつもりだ」
「基地までわたしが、背負います」
「馬鹿なことを。無理だ」
「あなたこそ、生きていなければならない人なのです」
クレイと体格のそう違わないセラが、後ろから見たら体が隠れてしまいそうな男を背負うなど無茶な話だ。

「どこまで行くつもりだ」
背中を折るように圧し掛かっていた体重が軽くなった。
医師とセラに同行していた学生兵だった。
堅い地面を削りながら出口へとにじり出るセラを見かねて手を貸した。

「基地に戻ります」
「冗談だろう? 応援を呼ぼう」
「ただでさえ人が足りないの。呼んでも、いつ来てくれるか分からない」
「でも」
「放っておいたら死ぬわ。でも戻れば助けられるかもしれない」
補給基地に収容された負傷者の施術は完了している。
当面の目的は果たしたはずだ。

「誰だって、死ぬのが怖い。死にたくなんてないわ」
医師を二人で抱えて敷地の外に出た。

「さっきの女。部屋に入れておいた」
発狂したのち、大人しくなった。
殺せ、殺せと叫ぶ姿をまた見るのは辛過ぎる。
彼もまた一刻もこの狂った地から離れたかった。

「人を痛めつけ始めたら、いろんな感覚が麻痺してしまうんだろうか。みんな、そうなっていくのかな」
不安が混じる彼の言葉に、セラは答えなかった。
ただ前を見て、一歩一歩足を進めていく。

セラの唇から言葉が漏れる。
音楽だった。
戦場でジェイ・スティンの歌を、掠れた声で奏でた。












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