Ventus  144










「なあ、怖くはないのか」
屋上まで上って来ても、やはり空気は濁っていた。
地面にへばり付いていたときに常に付きまとっていた水と土が腐った臭いは薄らいだが、垂れこみ始めた雲も大気の異臭をたっぷり吸いこんだようですっきりとはしない。
実際のところはそんな理屈は理屈にすらなっていないのだろうが、今では何もかもが絶望の要素になっていた。

「もちろん怖い。怒りも落胆も。でも、もう自分の気持ちを分解する気にもなれない」
しかし一番怖いのは、自分の生死ではない。
余裕もない。

「ただ、たったひとつの大切なもの。それだけは奪わせない。守れないとしたら、それが一番」
一番、恐ろしい。
クレイ・カーティナーは屋上の端から俯瞰した世界を見下ろした。
敷地内に入り、熱帯雨林の木の根のように建物に絡み付いたパイプを潜り抜け、鎖の脆くなった入口を破った。
屋根が抜けているので薄明かりで足元は危うくはなかった。
部屋の隅には泥棒も持ち去らずに見捨てられた機械の一部や棚などの廃品、廃材が隅に寄せられている。
床に固定されていた鉄の階段は腐食して片足になっていた。
コンクリートも割れて崩れている。
なるべく振動を与えないように階上に上ると、屋根へと続く梯子は切れて途中から折れ曲がっていた。
踏みしめている床もいつ抜けるか分からないほど、歩くほどに揺れが広がり頼りない。
同行していたディグダ兵がガラスの抜けた窓へと大股に歩み寄り、窓の向こうの気配を窺った。
大丈夫だからこっちに来いと手招きをしておいて先に自分が窓から飛び出した。
窓枠の向こう側で金網が小さく鳴って男が着地したのが分かった。
クレイ・カーティナーが動いたのに続き、三人ともが外に出る。
太いパイプの上に乗り、溶接部に足を掛けてディグダ兵が器用に上っていった。
先には屋上を取り囲む鉄柵が風で音を立てていた。
カーティナーも周囲を気にしながらパイプに飛び付いた。
二度ほど足を滑らせたが、あっという間に鉄柵まで指が届いた。
なるほど、どこから運ばれて来たのか油のようなものが纏わりついて上りにくい。
下を見ないように心掛けるが、壁を伝って吹き上げる風が高さを想像させる。
柵を跨いだ屋上で、ディグダ兵が指を差しながらルートの説明をしていた。
まともに道は使えない。
敵とも味方とも判別できないのがうろついているからだ。
クレイ・カーティナーの目的地、彼女の友人がいるホテルまでなるべく距離を詰めつつ建物の中を移動する。

「途中に学校がある」
道に面する建物郡から右に奥まったところだ。
ディグダ兵は腰のホルダーから端末を取り出し、同じくホルダーの蓋を開いてチップを爪で摘んだ。
端末から入っていたチップを排出すると、入れ替えて立ち上げる。
手際の良い作業だが説明もなく、隣にいるカーティナーは苛立ちが眉間に現れる。
端末に目を落としたままパネルを操作し、ルートの先を見据えた。

「それは?」
カーティナーの代わりに近づいて尋ねた。

「非常用マニュアルってとこかな。とはいえ、もうすでに非常時どころの話じゃ」
よし、と説明を中断した。

「退路の確保。作戦行動では最重要項目だ」
「その学校に輸送車でも迎えにきてくれるっていうのか?」
「少なくとも情報と撤退の手段くらいは手に入る」
カーティナーが踵を返して鉄柵へと走った。
咄嗟にその腕をディグダ兵が掴んで引き止める。

「もうたくさんだ」
引き上げられた腕の陰でカーティナーが呟いた。
掠れた声の意味を質そうと顔を近づけたディグダ兵の腹をカーティナーが蹴り付けた。
不意打ちに鳩尾を抱え、後ずさった隙にカーティナーがアームブレードを唸らせた。
剣先がディグダ兵の鼻先を掠める。
更に二歩三歩と後退した彼にカーティナーは追撃を掛ける。
距離を一気に詰め、跳躍すると右足を彼の脇腹へと振り払った。
勢いで彼とともに地面へと雪崩れると、すぐさま体勢を立て直して足で彼の鎖骨を抑え込んだ。
ブレードの刃は両目の上、睫毛が触りそうな位置に横たえて静止させる。

「たくさんだと言ったんだ」
「おい、カーティナー。今は」
「事は実にシンプルだ。私はホテルへ行く。セラを、友人の無事を確認次第撤退する。どんな手段を取ったとしても」
「だから俺は」
「一体いくつの意思が動いている? お前は一体どのパーツだ」
この男が敵だとするならば、カーティナーと向き合っていた一瞬にでも、あるいは不安定にパイプに手を掛けている瞬間にでも突き落とせたはずだ。
三階建の屋上、この高さなら死ぬか重傷を免れない。
しかしカーティナーの行動を止めはしなかった。
彼女の言う通り、今ここで、何がどう動いているのか突き止めたかったからだ。

「とりあえず、だ。この瞬間、数十秒で説明するのは難しい。移動しよう」
言われて、渋々ながらカーティナーはディグダ兵の上から体を横にずらした。
ディグダ兵が起き上がってからも少しでも妙な動きをしたら、次の瞬間には上半身と下半身を切り離してやるとばかりに、アームブレードの先にまで集中していた。
若いディグダ兵は鉄柵を越えて、足場になるパイプと隣の建物へ移れる壁と壁の最短距離を探った。
ここからだと一段低い、隣の建物の非常階段に飛び移れそうだ。

三人が危うげもなく非常階段に着地すると、屋上まで上っていく。
古いアパートには住人が疎らだ。
屋上のコンクリートタイルはところどころで劣化して割れ、砂になりつつあった。

「CRD(カルド)ってのはそもそも、形のでかくなったディグダを再構築なり再生なりしていこうっていう集まりだったんだ。一定の頭脳なり、俺の場合技量だったり。知識だったりを有する人材を引き抜いていく」
「一般学生に組み伏せられてる時点で、その技量ってやつも怪しいけどな」
それはカーティナーがいう台詞だろうが、彼女は相変わらず自ら口を開くつもりはないらしい。

「それは、まあ不意打ちとして」
「それで?」
「ありがちだが、分裂を始めたのは知っていた。過激派と穏健派、みたいな。後は向うで聞いてくれ」
彼は彼で無能ではない。
本人は自らを優秀とも卑下するともしていないが、合流するまでは一人で生き延びたのだからそれなりに実力は認められる。

「CRD内にも等級があってな。残念な俺はヒエラルキーでも下部の方だ。もっとも、そういう等級分けも上層がどれだけあるのかなんて知らないけどな」
「任務の内容は? CRDっていう組織からここに派遣されたんだろう」
「そこが違う。俺は一般兵としてだ。CRDの任務はある条件が揃えば発生するらしい」
「らしいだの、他で聞いてくれだの、曖昧なのも大概にしてくれ。条件って何だ」
「さあな。最初に俺が与えられた任務は反乱組織の掃討」
端末と目視との距離を見比べる。
中央通りから奥まった建物群を飛び歩いているため、着地に多少音を立てても見つからない。
アームブレードを背中に固定しながら谷間を飛び抜ける。
助走と踏み切り、着地位置と体勢に注意を払いながらも順調に距離を稼いだ。
確かに地面だと道が封鎖されていたり、無理に防衛線を破れば忽ちに良ければ拘束、学生兵や一般兵が容赦なく惨殺されている現状では死体の二つや三つ増えようが構いはしないだろう。

「CRDとしての指令は、相手がディグダに見えようが戦闘行為に入ったら応戦を許可するというもの。ついでに仲間がいれば手を貸してやれだとさ。今の任務は学校で合流せよ、だ」
そんなところだ、と彼は言いアパートのコンクリートが劣化し始めた屋上の端へと着地した。
踏みしめた右足からコンクリート片が崩れ落ちた。
踏み誤るなり、踏切のタイミングを逸したら一瞬で転落する。
垂直に落下して即死ならまだいいが、電線だの非常口だの鉄パイプだのアンテナだのが混在している建物の隙間に落ちれば無残にぼろぼろになったまますぐに死ねそうにない。
そうした自分を想像してしまい蒼くなった。






頭上で鉄条が軋む音を耳が拾い、カインは振り仰いだ。
見つかったか。
細い路地の壁へと背中を貼り付ける。
垂直に見上げたが、騒ぎたてている様子も覗き込んでこちらを探している様子もない。
しかし確かに人の体が鉄条に触れて揺さぶられる音がした。
風のせいではない。
そうこうするうち、再び鉄条が軋み人影が建物の左から右へと横切った。
目の前を、ではない。
頭上遥か上を軽々と飛び越えて行った。
一体何事か、と壁の陰に身を隠したのも忘れて路地の中ほどまで歩み出た。

何やら声を落として話をしているようでもある。
再び人影が飛んだ。
今度はしっかりと目に焼き付けた。
ディグダ兵服、しかも若い。
まさかとは思う。
自分以外にも無事な人間がいたのに嬉しく思う反面、自分と同様ルートを逸れている彼らを不審にも思った。

一呼吸置いて、更に一人が左手の建物の屋上から飛翔した。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線と配管の向うを過る、その姿を見間違えるはずもない。
逆光に陰るシルエットは、漆黒の髪に小柄な体にカインと同じディグダ兵服。

「クレイ」
目を見開いた次の瞬間、彼らが飛び移った建物の塀の左右を見回した。
どこか入口はないか。
今ここで見失う訳にはいかない。
粗大ごみとして放置された机が横倒しに置かれていた。
腐食しているが強度は悪くない。
壁に立てかけてから、距離を置いた。
アームブレードは背中に装着し、助走態勢に入る。
左脚で踏切り、右足を机に掛けた。
飛び上がって伸ばした指先は高い塀の角へと引っかかる。
壁を蹴り上げた次の瞬間には、細い塀の上へと絶妙のバランスで着地していた。
さて、どこか足場のしっかりした場所はないものか。
地面を見て回るが一番陰の濃く、一年中陽の当らない隙間にはトラップのように塵が廃棄され、その下に僅かに見える地面も雨水が溜まり黒く揺れていた。
斜め前に目をやると、手頃な細い鉄パイプが垂れていた。
その隣にはここからでは手が届かないが、垂直に雨水用の太いパイプが通っている。
上手くいけばあれを伝って上へと行ける。
配管と進むルートを重ね、十数秒後には塀から飛び上がっていた。
予想していた通り、細いパイプはカインの体重に耐えられずビスが弾けた。
完全にパイプが剥がれ切る前に、手を伸ばし何とか雨水のパイプへとしがみ付くことができた。
外から見れば情けない姿だろうが、すべては生き残ることが優先される。
痺れ始めた指の関節を叱咤しつつ、パイプの接合部を追ってよじ登っていった。
どうにか屋上まで堪え、倒れるように床へと上半身は崩れ落ちた。
クレイはどこだ。
立ち上がり汗で髪が張り付いた顔で、辺りを見回した。












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