Ventus  135










林を抜けた微風は青い匂いを絡め取りながら通って行く。
音は遠い海の波に似ている。
ここには血の臭いはなく、土と緑と水の匂いに溢れている。
ここでは全神経を集中して歩く必要はなく、風を感じて目を閉じればいい。

早く温かな声が聞きたい。
早くその柔らかな手に触れたい。
早く穏やかな微笑みに包まれたい。
おかえりなさいと言われるその場所こそが、帰るべき場所。

一つ連絡を入れればいい。
だが、目と足で探したかった。
驚いた顔が見たい。
おかえりなさいといわれる前に、先にただいまと言ってやりたい。
帰ってくるのならどうして連絡をくれないのと少しむくれる顔が見たい。

図書館、林の古径、学舎から寮までの道、回り道、訓練棟の中庭、一通り歩いて辿り着いた温室でようやく探し物は見つかった。

背の長い長椅子で、首を預けて気持ち良さそうに目を閉じている。
小さな温室には誰もいない。
素敵な場所を見つけたの、と教えてもらったばかりだ。
眠っているのだろうかと思うほど、上に向けられた鼻先は動かない。
足音を忍ばせ、衣擦れにも気を使い、彼女の背後へと回り込んだ。
まだ目を開かない。
木のベンチの背に両腕を掛けて、地面に膝を付けた。
両腕の上に顔を乗せ、驚かせないようにそっと名前を呼んだ。
目蓋が微かに反応する。
もう一度、声を落として息を吐くように名を囁く。
睫毛が揺れてふっと目を開いた。
三度目に口にしたところで顔がこちらに向いた。

「クレイ」
「ただいま」
夢の続きでも見ているかのように、開いた瞳はクレイの瞳を見つめて反らさない。
セラ・エルファトーンはゆっくりと腰を捻って、彼女の顔の横に出ていたクレイの頭を両腕で抱え込んだ。

「おかえりなさい」
「うん。ただいま」
久々のセラの匂いに安心して目を閉じた。

「無事でよかった。本当に、よかった」
「怪我はしてない」
「ディグダの兵も、施設の中の人もたくさん死んでしまったって、聞いたの」
額をクレイの肩に押しつけながら溜めこんだ激情を吐露した。

「きれいごとだって分かってる。青臭いことだって理解してる。そんな犠牲の上にわたしたちの平和が立ってるんだって。でもどうしてこんなに人が死ぬの?」
ディグダは小さな国を呑みこんで巨大な帝国を築き上げた。
さまざまな色を、強引に一色のペンキで塗り潰したつもりでも、下の色は浮き出てくる。

「クレイは死なないで」
「死なないよ」
感情を抑え込もうとセラが深呼吸をしている。

「嫌な話を聞く度に胸がざわついて堪らなかった」
ただ待っているだけが辛かった。

「嫌な話って?」
クレイの問いかけに、セラは体を離して俯いた。
小さく鼻を鳴らして、椅子の上に乗せた片膝に目を落とす。

「カインも一緒に行ったのね」
「ああ。そうだ。後で話そうと思ってた」
「カインの友達が情報を集めてくれたの。ここにいては耳に入ってこないこと。今回の派兵は施設と関係書類の押収じゃないって」
ディグダの一部地域で発行されているタブロイドやネットの情報を拾い集めてきて、セラに見せてくれた。

「どこまで調べたんだ」
「細かいことは何も」
「こっちも聞きたいことがある」
椅子の背を回り込んで、珍しく回りを気にしながら腰を下ろした。

「この温室にはよく来るのか」
「そうね、五回目くらいかしら」
呼吸も落ち着き、セラは天井を仰ぎ見た。
高い天窓にまで蔦が伸びている。
訓練施設の中庭よりも緑が密集していて、空気は湿っていた。

「誰か他に連れてきた人は」
「いないわ。どうしたの?」
いつもより堅いクレイの表情にセラが不安になる。

「カルド、って言ってたな。聞かせてほしい」
「何か、あったのね」
「何かあったっていうか、何もなかったというか」
「歯切れの悪いクレイって久々だわ」
「説明しにくいだけだ」
セラもカルドについてはほとんど知らない。
クレイの方から話を切り出した。
任務のことは口外してはならない。
ディグダの軍が敷いていた規律だが、今回の任務自体を不審に思うクレイは具体的な作戦地域はぼかしながらも口を開いた。

交渉らしい交渉も話し合いも威嚇、警告もなく突入準備と命令が下ったこと。
それと同時に突入部隊の脚を挫くかのように攻撃を受けたこと。
大混乱の中、ディグダ軍の服を着たカルドの巨漢が現れたこと。
肉片と瓦礫に埋もれた少女を救ったのが、その男だった。
少女はカルドの徽章を手にし、それが結果的に彼女の命を繋いだ。
少女がその後どうなったのか、クレイもカインも知らない。
深く調べられることもなく、CRDと思しきディグダ兵とともに輸送車に揺られてディグダに帰還した。
車中でも互いの素性を探ることも、身分証を提示することもしなかった。

「CRDが何なのかやっぱり分からないけれど、わたしにはディグダがしようとしていることの方が見えない」
少女が口にしていたツィジィというのは彼女の抱えていた腕のことだ。
男の口ぶりから、同じCRDに属していてもその腕の持ち主とは面識がないようだった。
それだけ組織は大きいのだろうか。
無事にこうして帰りつくことができ、また指定されたポイントを外れて勝手な行動をしたにも拘らず、咎めがないどころか招集があるわけでもない。
男が言った通り、「命令に反した言い訳」はCRDからディグダの上層部に秘密裏に行われたと考えるしかない。

「わたしとクレイ、全然違う場所で同じCRDという組織の人間に遭遇したわ。これは偶然なのかあるいは」
「必然。だとしたら何のために。私たちは単なる学生だ」
「そうね」
「徽章を勝手に読み込んだんだ」
「嫌な感じ。何だかわたしたち、勝手に動かされてる気がする」
CRDを読み込むソフトを誰が仕込んだのか。
通信機器を支給したのがCRDだったのか。
あるいは支給後に何らかのネットワークを介してプログラムを流し込んだのか。

「学生証のICも、プログラムを組み込めるもの」
「研究員が研究室の限定区画に入室認証を受けられるように?」
「新人研究員が格上げになったら、入室エリアが拡張されるでしょう? それもICチップに組み込める」
誰が何の意図を持ってクレイを巻きこもうとしたのか、もはや砂漠に落とした小石を探すようなものだ。

「特別回線を開く鍵、か」
「結果を見れば、一人の女の子が助かった。それでいいじゃない」
「助かる。何からだ。ディグダは何を捉えようとして、彼らは何から逃げようとしたか、だ。問題なのは」
「クレイ」
セラが彼女の耳元に唇を寄せた。

「魔法ってお伽噺だけのものだと思う?」
掠れた声で囁く言葉にクレイの背筋は強張った。
クレイが現場でイヤフォンから流れてきた情景は容易く想像できるものではなかった。
絶叫と人が燃える炎の音。
突然発火した炎を振り切ることができず焼かれていくディグダ兵。

「それが、どうしたっていうんだ」
「ディグダはそれを本気で研究しようとしてる。メスで切り裂いて分解しようとしてる」
耳から口を離してクレイと向き合った。

「いいえ。そんなのはもっと前から始まっていたのかも」
セラの表情が硬い。
眉間に微かに皺が寄る。

「レヴィくんが呼ばれたの。わたしたちにない可能性を持ってるからよ」
「特別な力」
「ディグダはそれを兵器にしようとしてる。それって今回の派兵と関係あるのかしら。CRDは関係してるのかしら」
「もういい」
クレイはセラの両肩を掴んだ。
肩は震えている。

「怖いのよ。クレイがいない間、ずっと怖かった。分からないことに巻き込まれて、クレイがいなくなってしまいそうで」
「いなくならない」
セラが両手で顔を覆って俯いた。

「実地訓練が続いてる」
「それは、その方がアームブレードを学べる。現況も把握できる」
「でも戦争だわ」
「ああ。否定はできない」
「人が、死ぬのよ」
セラの言葉が胸に突き刺さる。
目の前で人が倒れて行くのを目にしたのは事実だ。

「わたしも、また戦場に行くの」
クレイは息を呑み、言葉が継げない。

「後方に控えているだけだから。でも担ぎ込まれるディグダ兵を見てると堪らなくなる。その何倍も殺されていく人を見ると居た堪れない」
「あの現場で、ディグダ兵は相手をまとめて敵と言ってた。敵って何だ。みんなそれぞれに生きてる。人生があって物語がある」
「クレイもにもね。だから生きて」
必ず生きて。

セラが戦場に立つ日がくるのが遠ければいいと思った。
彼女の澄んだ目に、人の血はあまりに濃すぎる。












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