Ventus  126










大地に着地した粒が土を飛ばし、水を含んで重くなった裾を持ち上げて動きが鈍くなったとしても、雨を嫌いになることはなかった。
雨が続くと洗濯物が溜まっていってしまうわ、と嘆く侍女。 外に出るのも控えてしまったりするもの、と呟く侍女もいた。

雨に濡れても玄関で柔らかで肌触りのいいタオルに包まれる。
温かい湯を張られた湯船が待っていた。
一年も経っていないのに、ここに来る以前の記憶は薄れてしまっている。
ここは温かで、慈愛に満ちていて、光に溢れている。
突然現れた別世界、強烈な現実で過去がかき消されたようだった。
どうして以前のことを思い出せないのかと考えて口にしたとき、 彼女の後見しているラオが教えた。
ラオは、今が良ければそれでいい、忘れてしまうことは悪いことばかりではないと、疑問が拭えない顔の彼女の頭を引き寄せた。
これも、クレイが繋いでくれた糸なのだと呟いた声は聞いたことがないくらい穏やかだった。
ここでは恐れるものは何もない。
夜、一人で寝屋で布団に包まるとふと胸が締め付けられるように苦しく、喉から熱いものが込み上げてくることがあった。
涙が出る理由などまるでないはずなのに、寝付くまで止めどなく溢れる。
意味のない不安に全身を襲われて、寒さに体を丸める。
頭から膨らんだ布団を被って目を閉じる。
見えない手から身を守ろうと固くなる。
発作のような恐怖に耐えながら呟いた。
大丈夫、ここは守られている。
脅かすものは何もない。
凌げばいつもと変わらない朝がやってくる。

雨は嫌いじゃない。
陽花(ヤンファ)は頤を上に向けて空を仰いだ。
外に出られるのでしたらせめてこちらをお召しになって、と滑らかな言葉と仕草で陽花を撥水布で包んだ。
薄くて柔らかで軽くて動きやすい。
あまり長居をなさらず、お体を冷やさぬようにと釘を刺されながらも、強引に部屋に押し込めることはなく、泥を服の裾に撥ね上げても嫌な顔ひとつしない。
仕事だから主の娘のような陽花に仕えるという、役割以上の愛情がこの屋敷には満ちていた。

各々の仕事に誇りを持って、屋敷で働けることを歓びとして皆笑ったり沈んだり、屋敷で懸命に生きている。
この屋敷のすべてを愛おしく思う。
治まる気配のない雨の放射を目蓋を閉じて受け止めた。

蕾の開きを待つ花壇が足下に広がる。
不格好に組まれた石の花壇の上に手を汚して一つ石を積む。
土が流れないよう、初め丁寧に積んだつもりが不安定だ。
庭師に花壇の作り方と土の手入れの仕方を習わなくては。
また勉強することがひとつ増えた。
崩れた石を手に取ったところで、雨音交じりに近づく気配に気づいた。

最上の鳥籠に訪れる訪問者、リズミカルに刻まれる足音に胸が高鳴る。
待ち望んだ瞬間だった。

「マア」
最高の笑顔で両手を広げた。
体にまとわりついた雨粒が跳ねて散る。
頭から被った布から長い艶やかな髪の房が飛び出す。
大歓迎で開いた手や服が泥まみれになっているのに気付いて、慌てて両手を引き戻した。

「こんにちは、鳥籠の姫君」
「どうしたの? いきなり」
「名称はセラの受け売り」
「セラはどこ?」
「今日はいない。先生に呼び出されたんだ」
「クレア?」
「違う、他の先生だ。ところで雨の日にまで外に出て、何をしてたんだ」
「花の様子を見に来たの。花を育てるのは初めてだから」
「この間セラが持ってきた花もあるのか」
「それはこっち」
クレイの手を引いて別の花壇の前まで案内した。
林に囲まれくり抜かれたように小さな園庭が雨粒を浴びている。
中央には立派な木が聳え立ち、取り囲むように花壇が破線状に並んでいた。
陽花お手製の花壇はその外周に城を築いていた。
三つ並んだ花壇のうち、真ん中の花壇の前で足を止める。

「蕾が開きかけているの。ほら」
青かった蕾は白く以前より柔らかくなっていた。

「もう少しで開くわ」
覗き込んで嬉しそうな陽花を見れば、花を贈ったセラもさぞかし喜ぶだろう。

「何かを育てるというのは喜び。手を貸して、自分の存在を小さく刻みつけていく過程なんだとセラは言っていた」
「存在の証?」
「そうだな」
立ちあがった陽花を差している傘の中に収めて屋敷に促した。
陽花がいくら雨具を被っていても、暑季に入りかけた今の時期は雨が降れば外気の温度が下がる。

「セラも来たがっていたよ」
出会ったころの陽花とはまるで違う。
表情が豊かで、口数も増えた。
日に日に変わっていく陽花を見るのは、セラも我が子を見るようで楽しみにしていた。

「花が咲いたらセラと一緒に陽花に会いに来るよ」
庭を振り返って、クレイの足が止まった。
どうかしたのかと、陽花の目がクレイを見上げた。

「寮に似ているなと思って。偶然ってすごいな」
「こんなお庭があるの?」
「比べ物にならないくらい広いけどな」
セラの花を植えた花壇が食堂、両脇の花壇が男子寮と女子寮。 指で示しながら説明していく。
中央には大木が堂々と腰を下ろす。
この庭にある木は小ぶりなものだけれど、配置は似ていて興味深い。

「それにしても、このところ陽花に会いに来るときは雨ばかりだな」
「雨をたっぷり吸いこんで、草も花も元気に育つわ」
「ああ。雨も悪くないな」




人が散らばっている玄関ホールで、真剣な顔つきで電光掲示板の巨大スクリーンを見上げているセラの肩口に顔を突き出した。

「ただいま」
「おかえりなさいクレイ。夕食は?」
「まだなんだ。セラが早く帰ってきていたのなら一緒に外で済ませればよかったな」
「本当、連絡すればよかった」
「陽花、また大きくなっていた気がする」
「そう?」
「体じゃなくて中身かな」
「そうね。周りに適応していかなくては生きていけないもの」

食事を終えてどちらかの部屋でくつろぐのが習慣になっていた。
セラは雑誌か本を読み、クレイもセラから流れてきた雑誌をめくったりする。
あとは消灯がくるまで雑談と課題の消化、セラがポットとカップをを出したりもする。

クレイの机の上にはいつの間にかセラが持ち込んだジェイ・スティンの音楽ディスクがある。
浮き上がる三次元映像は荒いが音質は最高だった。
まだ少女の匂いが抜けきっていないジェイが両手を広げ、強く気高く天にまで届きそうな美しい旋律を放っている。
セラが本を畳み、うつ伏せの体の横に置くとクレイのベッドに寝転んだ体を回した。
天井が白く眩しい。

身動ぎしたセラに、課題用の参考書籍を開いていたクレイが視線を寝台に合わせた。

「わたしもね、また戦場にでなければならないのですって」
唐突にセラが口にするものだから、クレイの反応が大幅に鈍った。

「どこに」
「詳細は後日発表。今日はそのチームメンバーへの個別説明だったの」
「そんな」
「クレイほど悲惨な場所じゃないわ。医療従事者として未熟なわたしたちが修羅場を任せられるほど信頼されてないもの」
的確かつ素早い判断力とイレギュラーに即座に対応できる知識量と胆力。
それに技量という手が伴わなくてはならない。

「ただ、怖いの。クレイと同じような軍人が運び込まれるたびに、クレイと重なってしまう」
「安心していい。私は弱くない」












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