Ventus  120










テーブルの上に並ぶ二つのグラスにしばし見惚れていた。
腰の括れに細やかな彫が施されている華奢なグラスの中で、暖色の淡い光を吸い込んで琥珀色に蠱惑的に水面が揺れる。

「安心して、未成年にアルコールは出しませんので」
皿に菓子を乗せて猫のようにしなやかにテーブルに寄ったジェイ・スティンは、座るというより腰を椅子へ乗せるというような仕草でセラの前に腰掛けた。
セラを空席だらけのバーの一角へ案内してから一瞬引っ込んだ間に、魅力的な衣装に一新した。
先ほどまで漂っていた少女の香りは、髪を整えロングドレスで体のラインを引き締めて口紅をひと引きすれば、たちまち女の香りへと変わる。
それもあからさまに媚びるような女の匂いではなく、ほの甘い中に触れれば痺れるスパイスの効いた淑女の香りだ。
夜の歌姫の柔らかな声音を響かせながら背筋は真っ直ぐに伸びている。
彼女は歌の合間に、自分の歌を聴きにやって来た客のテーブルを渡り歩き、手を伸ばしながら、手にキスを受けながら、少女のような無邪気な笑顔を振りまいていく。
心をこめて、混じりけなく来訪に感謝を返しながら、彼女に差し出された手の中を歩いて行く。
そんな大人の落ち着きの中でたまに見える彼女の無垢を、彼女の客は愛しているのだろう。

「おいしい」
グラスから唇を離して、口の中の名残を愉しんだ。

「ハーブティーにドライフルーツを沈めてみたの」
テーブルの上に両肘をついてセラを覗きこんだ。

「いろいろあったみたいね」
「クレイから聞いたの?」
グラスの底に残った一口から瞬きを繰り返して目を上げた。

「見れば分かるわよ」
「クレイが」
その先、何と言っていいか言葉に詰まった。
実地訓練といった授業の延長とは思えないほど重い現状を見た。
セラの見た現実とクレイの体感した現実。
互いに口には出さないが通じるところはあるはずだ。

「戦争に行ったわ。脚に怪我を負って帰って来たの」
セラの話にジェイは驚きに唇が薄く開いたが、言葉を紡がなかった。

「大丈夫。すぐに傷は治るわ。傷は、残るかもしれないけれど」
ジェイは急かさなかった。
褐色のグラスの向こうで手の上に顎を乗せたまま、飽きることなくセラをじっと観察していた。

「わたしも行ったわ。行って見て感じたのはほんの一片。でも怖くなった」
人を殺してはならない、それはルールだから。
殺してしまっては社会の枠組みを崩してしまう。
人として同じ命の重みを踏みにじることになるから。

「殺める数を重ねるにつれ、人の命の重みも軽くなる」
それまで重ねてきた価値観が壊されていく。
敵は敵でしかない。
自分と同じものではない。

「以前にディグダ兵を見たことがあったわ」
土に汚れてぼろぼろになった彼らが軍の施設に入ってくるのを見かけた。
獣のような臭いがしていた。
うすら寒さも感じた。

「あれは血の臭いだったの。深く戦場に身を沈め、深く染みついてしまった臭いだったんだわ。彼らは失ってしまった人だった」
戦争はたくさんの物を壊してしていく。
人の体も、人の心も。
壊れてしまったものはもう戻らない。
たとえ元の場所に帰ってきても、元には戻らない。

「クレイも、そうなってしまうかもしれないの?」
「クレイが見たものとわたしが見たものは全然違う。クレイの未来なんてわたしには見えない。だからこそ遠くに行ってほしくはない」
「だったら繋ぎとめておけばいい。クレイはもう昔の孤独で哀しい彼女じゃない。セラがクレイと過ごした時間は無駄にはならないはずよ」
繊細な指先が皿の上の焼き菓子を摘まみ、真っ赤な唇へと運んでいく。

「ディグダはとても平和だわ。ここに住んでいたら同じ国で何百もの人が争い命を落としているだなんて思わない」
ジェイは指先で皿をセラへと押し出すと、グラスを手に取って中の水面を回した。

「情報は統制され規制されて手に届くものなんて少ないから。セラの見たものは研磨される前の情報の原石ね」
「ええ、それはディグダの生んだ歪でもあった。学生であるわたしたちの目から遠ざけて隠そうとしても隠しきれない歪み」
ディグダの一方的な支配や搾取は続いている。

「私には歌うことしかできないわ」
セラの視界の端が明るくなった。
気付かないうちにステージに機材が運ばれていた。
音合わせや機材のチェックで舞台が賑やかになる。
ふと見回せば周囲も半分以上席が埋まってきている。

舞台上から片手を上げて男がジェイに合図を送った。
それにジェイも片手を小さく上げて応える。

「ディグダの小さな酒場の中で歌うだけしかできない。セラの話を聞いて、歌で少しでも心が軽くできたらと思うことしかできない」
「そんな、何もできないのはわたしのほうで」
ジェイが立ち上がって、セラの手に手を重ねた。

「私はディグダが好きよ。でも争いは嫌い。本当の意味で平和になってくれたらと願うわ。願わなきゃ、望みなんて叶わないもの」
時間が許すようなら聞いて行って、とジェイは控室の扉へと消えて行った。



舞台から歌姫の声が室内に満ちる。
音響効果は期待できない、舞台と言っても店の床より少し浮かせたような狭い場所だった。
その中で歌姫の奏でる歌は逸品だった。

水面を渡る風が波の足跡を残していくように、眼前の舞台から吹く彼女の歌声は観客の心を泡立てて行く。

彼女は歌の意味を知らない。
そう言っていたがそれは偽りだ。
意味を知らないで歌う歌が、これほどまで人の心を揺さぶったりはしない。
その抑揚、語りかけるような温かさと真っ直ぐな声。
翻訳をしていて、古い本に頼りながら進めてきたが、さすがにジェイの歌を聞いてすぐに今の言葉に置き換えたりはセラにはできなかった。
目を瞑って歌に酔う者、組んだ足先が反応して音の波に合わせて気持よく揺れている者。
さまざまな人がただひとつの歌姫の歌声に集中している。

歌が一区切り付き、髪を掻き上げながらジェイが戻って来た。
舞台は入れ替わり、別の歌姫が歌を紡いでいる。

「知っているのね」
壁に寄っている席で声を落とせば他には声は届かない。

「何を?」
誤魔化してもだめよ、とセラが睨みを効かせた。

「細かい内容までは知らないわ。それは本当」
「さっきの歌は」
「歌には意味がある。あの歌にもね。でもバラバラに砕かれて散ってしまった。私が歌うのはそんな歌の欠片」
「どうして砕かれてしまったの」
「繋げては都合が悪かったから」
「ディグダが一番隠したかった宝物があるから?」

軽く沈黙を溜めて、歌で乾いた喉を飲み残して温くなったグラスを引き寄せて湿らせた。

「今日聞きたかったのは、そのあたりのことよ。どこまで読み取れたのかと思って」
「根は深く深くディグダに食い込んでるわ。先端など見えることもない。どこまでかなんて答えようもないわ」
「セラを引きこんだのは私。ひっそりとここだけで歌えていればよかったのかもしれない」
「ディグダがまだ生まれたばかりの子供だったころ、『光』なるものを拾ったの。いったいどれほど前なのかは分からないけれど、『光』は繭に包まれて深く深く眠りについていた」
音の波に絡まれて眠る、昏く深い深遠の光。
ジェイがメロディを口ずさむ。

「歌には続きがあるの」
古き紋、刻まれたる最奥に。
繭の中で醒めぬ夢を見るか。

「光はね、ディグダの成長の種となった。歌の中にあった言葉」
白の光を纏うのは。
真(まこと)の言葉、真(まこと)の叡智。

「ディグダはその種から叡智を吸い上げた。拾ってディグダの地面深くに沈めていた光の有用性に気づいて手を出した者がいるのか。醒めるはずのない夢を誰かが破ったのか」
セラが背筋を伸ばしてジェイを見据えた。

「なんてね。確かな根拠なんて何もないの。歌の歌詞、物語のひとつ」
「どうして地面の下にって思ったの?」
何気ないジェイの質問に、セラが首を微かに傾けた。

「夢物語ではないかもしれない。実際、ディグダはここ十数年で飛躍的に発展したもの。絵具で塗りつぶすように地図の上の国を飲み込んでいったわ」
ジェイの顔は舞台へと向けられる。
ジェイより少し年長の歌姫の声は、年を重ねただけ練れて深い声をしている。
セラはジェイの目が細められた横顔を眺めていた。

「私は真実だと信じてる。馬鹿馬鹿しいって思われても、私は真実の断片を歌っているって信じてる」












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