Ventus  119










壁に囲まれた窓枠の中で爽やかな緑が揺れている。
小さく生徒たちの笑い声が響いてくるのに耳を傾けながら、部屋の壁の白さに目眩すら感じていた。
少し眠い。

「はい、いいですよ」
剥き出しになった太腿から手を離した。
先ほどまで露わだった傷口はガーゼとテープで隠されている。

「傷の縫合は流石ですね」
野暮ったい眼鏡をかけた女医が間延びした口調で、太腿に制服を掛けた。

「しばらくは引き攣って歩き難いでしょうが、神経は傷んでないし何より若いからすぐに治るでしょう」
寝ぼけたような短い返事を返して、クレイは女医に向き合った。
彼女は電子カルテに経過を入力しながら、横目でクレイを気にする。

「昨夜は眠れました?」
「はい。今も眠いくらいです」
「それは疲れてるのねぇ、きっと」
頷きながら、カルテに続きを打ち込んでいる。

「ほかに傷んだり、気になることは?」
「特に。何か、現実感がないな」
ゆっくりと瞬きを繰り返すクレイに、一仕事終えた女医が椅子の上で体を崩した。
切らないと決めているのか、切るのが面倒なのか肩下まで届く髪は後ろで一つ無造作に束ねられていた。
薄っぺらい体は若干猫背気味だった。

「実地に出て帰ってくると大抵そう言いますね。思う以上に環境が違いますから」
「先生、実地研修は経験が?」
「医学専修の学生が実地に出されるの制度は、ちょうど私の次の代からだったんですよ」
それまで各コース、履修状況により研修をする学科、しない学科とバラつきがあった線引きが取り払われた。

「私の友人は行ったんです。あまり多くは教えてくれませんでしたけれど」
女医はきっちりボタンを合わせた白衣の前で両手を組んだ。

「経験の是非は私が口出しすべきではありませんが、言いたがらない裏に隠された思いは何となく分かります」
思い出したくもないということだろう。

「本当に辛い経験は、他人に話したりするより忘れてしまいたいものですから」
それは実地を経験したあなたが一番よく理解できるのではないでしょうか。


「それでも幾分マシです。最後にはね、壊れてしまうんですよ。そうして戻ってきても人の世で生きられるはずもないでしょう? それが戦争ってものなのです」
女医はそれだけ言うと、背にした机に乗る画面を振り返った。

「痛み止めと化膿止めの経口薬を出しておきます。お風呂に入る前に包帯の上から防水シートを巻くのを忘れずに。こちらは二枚出しておきます」
風呂に入れるのはありがたい。

「薬は二日分ですが、できれば明日ここに寄ってください。ではお大事に」
親切なのか淡泊なのか、距離間の読めない女医だ。
左足に体重を乗せて立ち上がると、小さく頭を下げて表に出た。
部屋と同じ壁をした廊下を抜けると、太陽が眩しくクレイを包んだ。
歩けなくはないが、傷を負った右足の出が鈍く歩き辛い。




意識がないまま学校に戻され、目が覚めれば自室に寝かされていた。
動こうとしたら痛みが走り、シーツを捲ると真新しいガーゼが腿を何周もしていた。
体を捻り、転がして端末を引き寄せてから迷った。
何をすればいいのか、動けない体で何ができるのか分からなかったからだ。
ひとまず日時の確認から始めた。
未読分のメールを上から開いていった。

目が覚めたら連絡をするようにとあったのは寮医からだった。
心配しているらしいセラにも一報入れると、しばらくして白衣が一人やって来た。
見知らぬ顔は、寮医から連絡を受けて派遣された学校付の医者だった。
問診を中心に寝たまま診察を受けるとあっさりと帰って行った。
入れ替わりに飛び込んできたのがセラだった。
顔を見て、ようやく帰ってくるべき場所に戻ったのだとクレイは安堵した。
セラからすれば負傷した状況や包帯の下の状態を知りたかったのだろうが、部屋を出るまでそのことは一言も問い詰めなかった。
冷たくなった指先でクレイの手を握り締めて、熱は出ていないかと心配そうな顔で見下ろしていた。

五日間は急激な運動は避けるようにと言われている。
このあたりの甘さこそ学生の特権だ。
よく寝てよく食べよく休め。
やはり兵士とは扱いが違う。
実技授業の時間を通院に充てたので時間が余ってしまった。
セラに連絡を入れると、授業があと十五分で終わるから灰色館でと、座学を受けながらの返信があった。

ヒオウはクレイをいつものように迎え入れ、しばらく足が遠のいていたことには触れなかった。
クレイが微かに引き摺る右足から察したのだ。

「もう三年生になるのね。早いものだわ」
彼女もクレイに向き合って、カップを両手で包みながら小さく嘆息した。

「専門課程に進んでしまったら、顔を見る機会もぐっと減ってしまう」
「来るさ。敷地に入れないわけじゃない」
クレイとセラがいなくなれば、ここはそれこそ忘れ去られてしまう。
マレーラやリシアンサスにも教えてあるが、やはりクレイたちと同じく、遠ざかっていくに決まっている。

「セラももう来るころでしょうし、お茶を淹れなおしましょう」
ポットを下げて私室化した司書室へ引っ込んだ。
クレイは立ち上がって本棚を一巡りする。
ここは本来図書館だというのに、今やセラたちとの談話室となっている。
空調設備は整っているし、美味い茶も振舞われる。
耳に障る雑音は茂る林で遮られているし、邪魔になる人間もいない。
勉強するにしても、雑談で盛り上がるにしても居心地のいい場所だ。

「この間借りた本、返しておく」
「もういいの?」
「確か三列目の棚だったよな」
「そうよ。隙間があるから入れておいてちょうだい」
ヒオウの言葉通り、探す間もなく抜き取ったままの一冊分の隙間が目に入った。

「セラが来たようよ」
言い終わると同時に灰色館の重厚な扉が低く軋む声を上げた。
細部まで古く丁寧な作りの館だ。
何十年と根を張っている堂々たる風格と香りがある。
内に籠る古い木の匂いをセラは好んでいる。

「セラも実地演習に行っていたんだな」
「まったく、小さなコミュニティの中での情報伝達って恐ろしいものがあるわね」
二人で椅子について、セラが机の上から視線を少し持ち上げた。

「この通り、無事に帰ってこれたわ。わたしは後方部隊だもの」
衛生兵のように武装して走りまわりもしなかった。

「歌は、解読できたのか」
話の飛躍に瞬き数回で追いつき、小さく頷いた。

「授業の合間にだから、あまり進んではいないけれど。ちょうど今日、ジェイに会いに行くのよ」
「だったら私も」
「それはだめ。怪我しているのに外出なんてとんでもない」
「歩けないわけじゃない」
「歩くのが辛そうなのに?」
セラは許してくれなかった。

「代わりにと言っては何だけど、ディグダの不思議な話を教えてあげる」
真実味のない七不思議のようなものだが。
おどけた空気の中に真剣さが微かに匂う、セラの琥珀の瞳こそ不思議だ。

「ディグダがもっと小さかった頃、ディグダは不思議な石を拾いました。白い光を放つ石に惹かれて、ディグダは持って帰ってしまいました」
セラはヒオウが淹れてくれた茶で喉を湿らせる。

「不思議な石を握るとどこからかとっても力が湧いてきました」
部屋の隅にも届かないような掠れて小さな声だったが、セラが口にするお伽噺には相応しかった。

「とても大切な宝物、とてもきれいな宝物、けれど白い光がまぶしくて、ディグダはそれを家の奥へと隠してしまいます。他の誰にも触れられないように、 他の誰にも見られないようにいくつも鍵をかけました」
クレイはディグダという幼子が荒野に遊びに出て石を取り上げるのを思い描いた。
懐に入れ前かがみになりながら大切に運んでいる姿が浮かび上がる。

「石を抱え込んだディグダはどんどん成長しました」
それからディグダはどうなるのか、先にあるのは更なる栄光か衰退かのどちらかだ。

「話の結末はまだできていないの」
「セラ、時間は大丈夫?」
ヒオウが時刻を知らせた。

「そうね、行きます」
「続きはまた今度ということで」
カップを盆に乗せながら、斜め前の窓に視線を走らせる。
少し硬いヒオウの横顔に違和感を感じながらも、会話をいったん中断させた。

「学園の出口まで送るよ」
「寮で休んだ方がいいんじゃない?」
気にしないでおこうとしても、やはり終始クレイの体調が気になる。
傷痕が残るだろう大きな傷だ。
負ったばかりで歩きまわれば体に障る。

「あまり動かないでいるのも体が鈍るんだ」
「二人でゆっくり会うのも久々なのでしょう? 学校を出るまで、見送ってもらいなさいな」
それ以上断る理由はセラにはなく、素直に頷くと二人揃って灰色館の入口へと歩いて行った。

ヒオウは彼らの背中を見送りながら、灰色館の壁に埋まる窓を一瞥した。

「ユーリス。お願いです、二人を」
ヒオウは囁くような、痛みを堪えるような微かな声の言葉を飲み込み、胸元で両手を堅く結んだ。






スラムの黒の歌姫、ジェイ・スティン。
彼女との待ち合わせは旧市街だった。
地図はデータで貰っておらず、ジェイの方から郵送で送られてきた。
入っていたのは薄い紙きれを二つ折にしたものが一枚、中には大まかな地図が書いてあるだけだった。

不親切かもしれないが、セラには嬉しい手紙だった。
一度旧市街に訪れたことはあったが、もう一度ゆっくりと歩いてみたいと思っていたところだ。
土壁と砂混じりの地面はどこか懐かしく、安心する。

午後の授業は終わり、門限まではまだかなり余裕がある。
時間を気にすることもないので久しぶりにジェイと落ち着いて話ができそうだった。
クレイは派遣されるし、セラ自身にも召集がかかったりとなかなかジェイに会いに行く機会に恵まれなかったからだ。
待ち合わせの時間までかなり余裕を持って学校を出たので、街並みを観賞しながら指定された場所に向かう。

旧市街は新市街ほど煌びやかではなく、夜中に通るには外灯も人通りも少なくもの寂しいが、静穏で褐色の統一感があった。
朽ちかけてはいるが、時折壁の向こうや街角から子供の声が響く。

この辺りかと首を巡らしたとき、路地に腕を引き込まれた。
乱暴に掴むのではなく、そっと手を引っ掛けたような引き方だったのでセラは振り払わず振り返った。

「ジェイ」
「こっちよ」
薄暗くはないが細い道でジェイはセラに向き合った。

「本当ならいつもの道で真っ直ぐに来てもらうのだけれど」
「いいえ、たまには街を歩いて回るのも楽しいわ」
「久しぶりね。元気そうで良かった」
「ジェイも、変わりなくて嬉しいわ」
「クレイからセラも戦地にいずれは行かなくてはいけないんだって聞いていたから、心配で」
「そんなことを言っていたの? クレイの方が危険なのに」
ジェイに吐き出したら不安の言葉が止まらなくなりそうだ。

「立ち話するのもね。歩きまわって喉は乾いていない?」




消えていく声を追うように、足音を殺して人影が路地に近い壁に寄る。
黒ずくめでもない、街中にどこにでもいそうな軽装の中肉中背の男だったが、仕草に隙がない。
脚の運びも砂利道なのに器用なことだ。

角を曲がろうとして立ち止まった。
目の前に白いコートに包まれた細い人間が立ち塞がった。
男か女か判別がつかない。
平静を装って避けて通ろうとする男に、歩を進めて今度は明らかに進路を妨害した。
互いに声を発さない。
怪しいのは明らかに頭からフードを深く被り、顔が塞がった白の方だ。
しかし、男の方も妨害に対し敵意を露わにした。
両手をポケットに突っ込むと同時に、丸めた背中をバネのように跳ね伸ばしてハーフパンツの脚を前に蹴り出した。
男のスニーカーは白い残像すら捉えることはできず、自らの首に触れる風を感じた。

嫌な汗が脇の下から噴き出した。
軽く触れた白い人間の乾いた指の下で、激しく脈打つ動脈。
その一瞬の動き、その動作で意味することは理解できた。
瞬きも忘れて硬直している中での瞬間、気がつけばその場には男しか立っていなかった。
白昼夢かと思いたかったが、鮮明に感覚に焼きついている。
膝から崩れ落ち、砂利を掴んで喘ぐように男は呼吸を取り戻した。












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