Ventus  118










低い防水布のテントの下は臭気に満ちていた。
強い消毒液の臭いが血液や体臭のような淀んだ空気を塗り潰そうとしていた。
ただでさえ倦怠感が襲う体から気力も体力も奪っていく。
小雨で冷え、失血で冷え、乾いた毛布を掛けられていたが中で両腕を抱えていた。
担架の乗り心地も見た目以上に悪かった。

容赦なく下の服を引き下ろされ、恥じる間もなく手袋をした冷たい指が傷口の周りを抑えつけた。
消毒液を含まされ、痛みに顔を横に向ける。

「失血はさほどでもない。右大腿部を縫合する。麻酔を準備しろ」
医者が言い終わらない内に、傷口を消毒していた助手が麻酔薬と注射を取り出した。
動きは機敏だ。
だが注射器を持つ指先は震えている。
緊張でもしているのだろうか、場慣れしていないだけか。
クレイは微かに痛み、重い頭のままぼんやりと助手の横顔を眺めていた。
このまま眠れればいい。
痛みからも切り離され、目覚めれば学校があり、セラがいて。
夢のように今から逃避できる。
しかし現実は高揚したせいで頭の芯は冴えていた。

助手の手から麻酔が離れて医者に渡る。
二人とも、白い裾には泥が跳ねており外を走り回ったのが窺えた。
太腿に鋭い痛みが点を突き、熱く広がった。
部分麻酔だ。
体を曲げて自分の傷の状態を見るのも億劫だったし、見て気持ちのいいものでもないので、大人しくテントの隅に目をやっていた。

頭上、足元、右手の三方に防水布の壁があり、左手は開放されている。
鼻が異臭に慣れはしたが、開け放たれたテントであっても空気が抜けないのは、よほどこの場が濁っているからだろう。
祭の屋台のように連なるテントはそれぞれ、第一救護テントから連番が振られていたが、クレイには何番で終わるのか、また自分が何番テントで処置を受けているのかも気に留めなかった。
仕切られた頭上と足元、両隣のテントも騒がしい。
麻酔が効き始めたのか太腿の痛みは和らいだが、体のあちこちが傷だらけの打撲尽くしだ。

「学生、か」
掠れた声を他の傷口の消毒と縫合部分から流れる血を綿に吸わせている手が一瞬止まった。
再び手を動かしながら、小さく頷いた。
クレイと同じ、行きつく道の途中にこの場所があったのだろう。
蒼白の彼女の顎を見つめていた。
医者か看護師か、医療の道を志す彼女の顔は蒼白だった。
強張り倒れそうな彼女こそ何らかの措置が必要にも思えてくる。

傷口周囲の触覚は失われているが針と糸が動いているのは視界の端にちらつく。
自分の皮膚が縫い合わされているのだと想像するのが痛々しく思え、耳を簡素な手術台に擦りつけながら顎を上げた。

何か小さく目の端で光った。
気に掛かり、顎の位置を少しずらしてみる。
テントの額縁の中にある岩山が小雨のカーテンを挟んで広がる。
鉄分の多い赤茶けた岩の間に異物が混じる。
よく目を凝らすと岩陰に小さな丸いカメラのレンズがこちらを向いていた。
傍らには一瞬小さく人影も揺らいだ。

瞬きを繰り返しているうちに、カメラごと消えてしまった。
クレイの足を拭っていた手が止まっていることに気づき、顎を引き戻した。
術中の医師が手を休めないまま、どうしたと短く助手に呼びかける。
細かくテントを叩く雨の音に助手の言葉にならない囁きがかき消された。

「こんなに人が死んで、こんなに人が傷ついて」
唇が白く震えている。

「さっき、移送されてきた人を見ました」
反抗勢力の自爆に巻き込まれたディグダ兵のことだ。
思い出すのも辛く、涙を押し込めるように強く目蓋を閉じた。

「ひど過ぎる。人のすることじゃない。あんな、あんな」
決壊した感情は収まらない。
焼きついた光景は脳裏を離れない。
人としての形を辛うじて保っていても、生きているはずがないのに運び込まれた兵の体をどうしろというのか。
脈動があるにしても、措置を続けていくうちに呼吸が浅くなっていく絶望。
遠ざかっていく命の燈火を追うように、蘇生措置を施そうとしても、命は指先から零れていく。
人を治癒するため、命を救うために医療の道に足を掛けたのに、痛いほどの虚しさばかりが横たわる。

「下がりなさい」
一言で、助手を退けた。
テントの端まで後退した彼女は崩れ落ちることも、医師に縋りつくこともなく、背にした防水布を握り込み立ち尽くしていた。
置き去りにされた彼女を救う優しい手は、騒々しいその場所には残っていなかった。
死に向かって落ち行く人の命を引き揚げるのが医者の務めだ。
一人でも多く助けられればいいが、ひとつひとつの死に心を裂かれていけばいずれ己が崩壊する。
ここで立ち上がらなければ彼女の道はそこまでということだ。
医師は振り返ることは一切せず、クレイの手術へ向き合っていた。






木々に埋もれかけたガラス張りの一角は、温室だとずっと思っていた。
いつか行ってみようと眺めているばかりになると、いつかは遠く訪れないもので、それが温室ではないと気付いたのは最近のことだ。

小さな喫茶室だと気付いたときには、驚きと嬉しさが混じり合って扉を引いた。

ステンドグラスが埋め込まれたガラス屋根には蔦が薄く張り、喫茶室の内壁を埋めるように植物が並んでいる。
外から見れば緑豊かな一角は、どう見ても温室にしか見えなかった。
中に入っても、作りは小さな植物園の休憩所という雰囲気だった。

天井にまで届く植物の数々、壁から離れて木目のきれいで滑らかな机と椅子が点々と置かれている。
机の上にはメニューカードが一枚乗っているだけで、店員も客もいない。

変わった葉が茂る植物を見上げていると、客だなんて珍しいというように商売っ気のない店員が現れた。
愛想がないなどというわけではなく、友達を迎え入れるような朗らかさがあった。

忘れられたような場所がたまに見つかるのが、この学校の面白さなのだとセラは思う。
クレイと入り浸っている灰色館もその例に漏れない。
古い本の匂いが漂う、時の流れない灰色館と館主がセラは好きだ。

この喫茶室も、一人で課題に向き合うのに適している。
端末を机に置き、注文した飲み物が冷めて居座り続けても、ここの店員は嫌な顔一つしない。
たまに来る客も、一杯の飲み物と本を広げて読み耽っているような人間ばかりだ。
教師のような人間も、教育方針を纏めているのか、研究課題に取り組んでいるのか、真剣な顔で端末のキーボードを叩いている。


「神の書物、ディグダに沈む、光と叡智?」
暗号解読には骨が折れる。
何となく形は見えてくるものの、現実と擦り合わずに単なる幻想小説のイメージしか湧いてこない。
悪戦苦闘しながら形にして、保存したところで両肩を軽く叩かれた。
セラは首を反らせて顎を真上に顔を持ち上げる。

「元気にしてた?」
「五日前にあったばかりなのに」
「それもそうだ。ここってミルクある?」
マレーラの短い髪が軽く揺れる。

「一日一杯で美容と健康を、らしいよ」
どこで触発されたのか、彼女の中でミルクは流行しているらしい。

「来る途中でレヴィくんに会ったから連れて来ちゃった」
まるで犬の子でも連れて来たかのように言うリシアンサスの陰から、ついてきてしまった子犬のようにレヴィ・ゲルフが顔を出した。

「こんにちは、レヴィくん。」
「こんにちは、セラ」
「授業は終わりなの?」
セラは隣の椅子を引き、マレーラとリシアンサスは空きのテーブルから椅子を寄せた。
珍しく賑やかになった喫茶室へ、どこからか現れた店員がにこやかに注文の雨を受ける。

「そういえばお兄ちゃんの方とセラって会わないの?」
レヴィとセラが喫茶室で寛いでいる話は双方からよく聞くが、兄のカイン・ゲルフとセラの話はあまり耳にしない。
セラが課題に取りかかっている端末の向こうでレヴィは静かに本を読んでいる構図が定着している。
端末の向こうがカインなら、終始セラに話しかけて課題どころではないのだろうとマレーラは想像した。

「訓練棟の方では?」
リシアンサスにセラが頷いた。

「そこでよく会うのよ。中庭が好きなのよ」
「兄さんは訓練室に入り浸ってるからね」
部屋が予約で埋まっていれば中庭で眠り込んでいる。

「カインも出張したりするの?」
「クレイほど遠出ではないみたい。民間人の避難誘導とか、後方で控えているだけだって言ってた。詳しいことはあまり話してくれないけどね」
それ以外は勉学と鍛練とに励んでいるらしい。

「無事に帰ってきてくれたらそれでいいのよ。カインも怪我をしたら、私たち」
リシアンサスが下がったマレーラの手を引いて、セラの顔を覗くように首を傾けた。

「セラはお医者様になるのよね、習得単位とかって」
「ねえ、マレーラ。カインも、ってなに」
マレーラは正直だ。
顔に出た影を平静で覆うことができなかった。
固まったマレーラに代わり、リシアンサスが伏せていた目を開いた。

「クレイが怪我をしたらしいわ。でも、大丈夫。軽傷らしいから」
「そんな」
「クレイを可愛がっているクレア・バートン先生。彼女は伏せていたらしいのだけれど」
クレイの希望があってのことだ。
だがおしゃべりな先生もいるものだ。
どこから漏れたか定かではないが、派遣した学生が負傷し、その上その学生がランクA相当の実力だということで、噂は小さくも広まった。
実名は出ていなかったが、該当地区、日程、諸々を照らし合わせると、友人たちはクレイのことなのだと察知した。
裏付けはクレア・バートンに行っている。

「リシー、そこまで言わなくても」
元はマレーラの失言だったが、誤魔化すか話を流してしまえばよかったはずだ。

「クレイはすぐに帰ってくるんだから、遠からず分かるわよ」
「どんな、状態なの」
「太腿を切ったらしいわ。でも命に別条なし。歩けるそうよ」
セラを心配させまいと気遣ってのことよ、黙っていたことは咎めないであげてと、リシアンサスはセラの腕に手を乗せた。

「これからクレイはどんどん戦地に派遣されるようになる。いつかは今以上の怪我をするかもしれない。行かないでって言っても、だめなのよね」
セラは不安で堪らない。
彼女が踏みしめた戦場は過酷だった。
そんなのが及ばないほど凄惨な場所などいくらでもある。

「セラ」
うつむくセラの手を、レヴィの温かい両手が包み込む。

「ディグダは殺し続けるわ。小さな意志を組み敷いて」
あまりに絶対的な力。
急速な成長、膨張した体で何を飲み込もうというのか、セラは腹の底で憤る。

「神の書を嚥下した、叡智を我が物にした、そうなの? 意味があるとすれば」
噛みしめた独り言は、顔を寄せたレヴィの耳には届いた。












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