Ventus  107










誰にも油を差されずにいる扉の蝶番が耳障りな音を立てた。

ベッドの上で仰向けに転がったクレイは狭く埃臭い、灰色の一室で目を開けた。
疲労で体は泥人形のように重いのに、目の奥は醒めきっていて眠れない。
天井には配線剥きだしの蛍光灯が埃を被った濁った光を落としている。
懲罰のため監房に叩き込まれたのではないが、漂う空気に大した違いはない。

クレイ・カーティナー。
反転して腹ばいになると頭の先で開いた扉に顔を向ける。




消灯までのごく僅かな時間は、明け暮れまでの拘束から許される唯一の時間だ。
早めに体を休めるもよし、知り合って間もない仲間と談笑するのもよし。
だが大概は殺伐とした雰囲気ばかりに縛られ、灯りが消えるまで沈黙している者が多い。
それぞれが選抜されたものであり、この場は共闘より淘汰の世界だった。
勝ち上がらぬ者は脱落する。
これほど真っ直ぐに突きつけられた生存競争を経験した学生はいない。
なぜ敢えて苦を受けねばならないのか、疑問を持った時点で脱落が決まる。
ただ走れ、無心に。
それだけの意識で体を動かしていた。

湿った上黴臭い二段ベッドの下段から、這い出すようにクレイが頭を出した。
こうした集団生活も慣れず、戸惑う者もいた。
とりあえず土埃を拭っただけの共同部屋に押し込まれ、電子機器は制限され、本でさえ娯楽品ということで没収された。
一体どんな重要施設に入場するのかというほど、文字通り頭から足先まで詳細な調べを受けた。
指定された服の中は、まさに体一つ。
目覚まし時計すら許されないのだから、まるで受刑者だ。
とても選抜された優秀者が受ける扱いとは思えない。
ルールは厳しかったが、逸脱しなければ華やかで自由な学生生活から一変したのだ。
境遇を嘆いて、悔しさに涙を滲ませる者もいた。
大抵そういう人間は二日目のベッドで体を休めることはない。


「手紙だ」
投げられた封筒を、枕の向こうにあるパイプを脇で跨いだ左手で受け取った。

「いるんだよなぁ毎年。修学旅行じゃないってのに感傷的に書きだす奴らが」
馬鹿馬鹿しいと毒気を撒き散らしながら、肩の張った体格のいい女が扉に引き返した。
クレイより二回りは大きく、男に並んでも引けを取らない背丈と手足をしてるが、僅か三年長く生きただけだ。
二年合宿を経験し、士官学校へ推薦された昨年、再び教練会と仰々しい名前の付いた強化合宿へ招待された。
ただ訓練生としてではなく、彼らの指導補佐としての指名だった。
昼間の指導教官のアシスタント及び訓練生の世話役まで担当する。
それが今回で二回目だ。

消灯まであと二分。
声とともに上段のベッドから二本指を立てた腕が垂れ下がってきた。
同室の少女が肌触りの悪い毛布を腹に引っ掛けながら、壁に張り付いた時計を眺めていた。
クレイは彼女の名前を聞いたのは覚えているが、名前は忘れてしまった。
秒針が時間を削っていく。

差出人はセラ・エルファトーン。
封筒の口を引き裂いて光のあるうちに、一刻も早く読み終えたいが中身を傷つけないよう慎重に開封した。
四つ角を丁寧に折られた無地の紙を広げる。
罫線の上を波打つ形のいい文字を必死に追った。

あと三十秒ね。
抑揚のない声が欠伸に溶けながら降りてきた。

壁を蹴るような音が一つして、一瞬で目を覆われたように周囲が闇に沈んだ。

時間切れ。
上段の少女は口にする前に眠りに落ちたらしい。
クレイも暗闇の中、セラからの手紙を失わないように枕の下に敷き一番上に頭を乗せた。

二度、目を通した手紙の内容を頭の中で反芻しながら目を閉じた。






レヴィ・ゲルフは背筋正しく喫茶室の椅子に座っていた。
目の前にはカフェオレ、溶けていく湯気の向こうにセラがいた。
兄と同じ金色の髪だが、短く刈った兄とは違い柔らかい前髪が眉に掛かる。
聡明で涼しげな目がまだ幼さの名残がある顔に収まっており、足先を揃えて姿勢よく据わる姿は、少年の形をした人形のようだった。
高等部区画に現れた中等部の少年とセラの姿に、周囲の好奇心は視線で投げかけられた。

「ごめんね。もっと気の利いた場所を用意すればよかったんだけど、」
兄に母から預かった物を届けに来たレヴィと暇なので図書館にでも出掛けようかと環状の回廊に出たセラが遭遇した。
群れるというより、湧くと言い表す方が適切に思える学生の数の中で、出会うのが珍しい。

「わたし、ここのアイスクリーム好きなのよね」
涼しくなってきたというのに、アイスを注文した彼女を見つめていたレヴィの目線に気付いたセラが手に持ったばかりのスプーンを彼に向けた。
食べてみるかとの誘いにはせっかくなので乗った。
しかし口にしてみてから、そんなに物欲しそうな顔をしていたのかと心配になる。

「どう?」
「おいしい」
練ったような滑らかさと仄かな甘みが下の上で溶けていく。

「海藻を使ってるんですって。塩味じゃなくてよかった」
カップ一杯のカフェオレを火傷しないように慎重に唇へ持っていく。

「クレイって変わってる」
「そうねぇ。強いんだけど、どこか脆くて、癖のある人間よね」
「クレイはさ、女の人の匂いがしないんだ」
兄から凄い実力の人間だと聞いていたから初対面の時は委縮してしまったが、すぐに抵抗感は消えた。

「同じ年の女の子は、賑やかっていうか、ちょっとうるさいっていうか」
レヴィはそれ以上自分の状況について口を開かなかったが、彼の容姿と控え目な姿勢でありながらも自分の意見は腹に持っている大人びた様子も、同年の少女たちからすれば魅力的だろう。
実際、彼より何年も年長のセラでさえ可愛らしさと同時に頼もしさを覚えた。

「セラもだよ」
レヴィの発言の意外さに、アイスを掬い取ろうと降りて行ったスプーンは斜面に突き刺さったまま動きを止めた。
「セラも見た目は、女の子って感じの柔らかい感じがするのにな」
「男らしいって?」
「それも違う。男でも女でもない感じ。波長が、合うんだ」
「レヴィくんも、クレイ話せたでしょう? ちゃんとクレイのお友達に認定されてるわ」
「本当?」
「だってクレイ、興味ない人には返事も返さないもの」
かつてのクレイは目立つ行動はしないものの、自分に干渉してくる人間を徹底して排除して生きてきた。
その経歴を兄から聞いている。

「だいじょうぶかなぁ」
協調性、非協力的、無関心のクレイが、強化訓練で共同生活など耐えきれるだろうか。

「専用列車で僻地まで連れて行かれるらしいわ。そこから更に車で輸送されるのですって」
一種の山籠もりだ。

「逃げられないってこと?」
「それに、今まで当たり前のようにあったすべての物から切り離されるの」
クレイが無事に帰ってくるように祈りましょうね、とセラが笑っていた。






肉体の鍛錬というより、むしろ精神の鍛練と言っていい。
手で打ち鳴らされるけたたましい鐘で一斉起床。
布団を畳み、素早く着替えを済ませて共同の洗面所へ走る。
ここまでで一分。
次の鐘が打たれるのが、最初の鐘が鳴り響いてから五分後だ。
指導教官補佐たちが腕時計で時間を図りながら等間隔に立っている。

昨日の疲れが癒しきれておらず、腰を引きながらゆっくり走っている訓練生の尻を蹴りあげて、急ぐように促した。
朝食前にランニングが始まる。
合宿施設に外周を走っていると、空に白みが射してくるのが見えた。
一周回るごとに光が強くなっていく。
終了の合図が出されると、風でなぎ倒された稲穂のように全員が地面に倒れ付した。
初日、血を吐きそうなほど走らされたと嘆いたが、翌日にはこのランニングが楽に思えるようになった、
朝食後から本当の地獄が始まるからだった。
割り振られた番号の順に、二人組を組まされ、相手を背負った走り込みを数えきれない本数命じられた。

護身術、柔術、格闘術、アームブレードとは関係ない分野まで容赦なく叩きこまれる。
教えてもらうという生易しいものではなかった。

アームブレードの者たちが集められ、そのための強化合宿ではなかったのか。
だが実際アームブレードを握ったのは日の終わり際だった。
それまではひたすら筋力・体力トレーニングを強いられた。
訓練場に残ってアームブレードの復習をする体力もない。
朝補充された体力は、終わりには笑う気力もないほど使い切っていた。

命令には完全服従。
上級生には敬いを。

外出禁止、娯楽用品禁止を布いていたが、持っていても使用する時間はない。
体を隅から隅まで動かした夜は、恐ろしいほど眠りが深かった。


しかし人間の適応力も馬鹿にしたものではなく、そんな生活も一週間続けば、次第に体が馴染んでくる。
音に鋭敏になり、朝起床の鐘が鳴ると同時に跳ね起き、そのままの勢いで布団を畳み、枕元の服を引っ掴んだ。
目で追うのも大変な程のスピードで洗面所、屋外運動場へ整列した。
脱落者数も急激に減った。

朝食、昼食、夕食も最初は口を押さえて食堂から消える者が多数いたが、今ではその姿も珍しくなった。




消灯時間は過ぎた。
日が昇るにはまだまだ遠い。

その時間を待ちわびていたかのように、息を潜めていたクレイの瞳がゆっくりと闇の中で開いた。
四人部屋の中、三人の寝息がばらばらに聞こえてくる。
身じろぐ衣擦れの音がまったくせず、熟睡している。
五分ほど周囲の状況を聴覚を尖らせて確認し、毛布の隙間を這うように滑り出た。

靴を片手に、夜着のまま窓に張り付くと軋みを立てぬよう少しずつ窓を押し上げた。
一階なのが幸いだった。
二階以上だとパイプを伝って下りねばならない。

宿舎の周囲を巡回している警備員の灯りが見えると窓から離れ、側の壁に背中を貼り付けて息を殺した。
巡回が宿舎一周を回り切る時間間隔は前々日から計っていた。

クレイらの部屋を灯りが通り過ぎ、焦らぬよう心を落ち着けて、そっと外を確認した。
灯りは小さくなっている。
そうすると再び窓を開ける作業に戻るのだ。



内からの開け閉めは壁に隠れればいいが、問題は外に出ての開閉だった。
窓を開けたまま離れられない。
いかにスムーズに短時間で開閉作業を済ませるか。

錆びついた鉄の窓枠は驚くほどに滑りが悪い。
差す油は訓練生が手に入れられる場所にない。
となれば、それに代わるものを手に入れるまでだ。

クレイは夕食時に使用された油を、他の目に触れないよう採取し持ち帰った。
皆が寝静まった前夜に油を垂らし、決行日の朝、窓の開閉状況を確認した。
元の歪みは仕方がないが、以前ほど堅さも音も大きくはない。


体がぎりぎり通るだけ開いて、表に滑り出した。
足先が地面を確認すると、すぐさま扉を閉ざした。
躊躇している暇はない。
足が草を踏み分ける音にも注意して、宿舎を取り囲む林の中へと走り去った。
十五分後、クレイは廃墟の前にいた。
巨大な建物が、どうしてここに放置されているのか、そもそもこの建物が何なのか、知らされずにそこにいた。

周囲に灯りはほとんどない。
唯一の月明かりは薄雲の中を出たり入ったりし、寝待月が頼りない光を落としている。

人気以外に不気味な気配漂う、廃墟の前で佇んだクレイは息を細く吸い腹に溜めた。
踏み出した一歩は鉄のように重かった。












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