Ventus  106










雨が緑を洗い、空は未だ曇天の下、草木の色が鮮やかになった。
クレア・バートンは窓際に腰を凭せ掛け、腕を組んで訪問者を待った。
退屈凌ぎに雨音に耳をやる。
忙しない日々の中、何もない時間を過ごすのは酷く久し振りな気がした。
教師としての仕事は面白いが、机上業務や雑用、授業の予習と学習計画の構築といった細々とした仕事が多い。
単にアームブレードを教えればいいのだと聞かされて、本業の片手間にと思って引き受けたのが今ではどちらが本業か分からない。

加えて学生が引き起こした厄介事の事後処理まで請け負う始末だ。
面会時間は迫る。
立会人としての立場は居心地が悪い。
そもそもこうした仲人的役回りは苦手なのだ。
永遠に何もないこの時間が続くか、あるいはさっさと終わらて積み残しの仕事を処理したい。
重い気持ちが思わず眉間の皺を際立たせそうになるが、そこは堪えた。
和やかに、穏やかに、緊張感を与えないように。
部屋を共にしているのはまだ本当の子供だ。
怖がらせてはいけない。
緊張を和らげるのが今回の仕事だ。
持参した国語の教科書を広げて眺めている。


「読めるのか?」
問いかけに目を上げ、微かに頷いたようにも見えた。
だがまだ言葉は口にできないようだ。
こちらの言わんとすることは、何となく理解しているようだが自分の意思を言葉に表すまでには至っていない。
それでも短期間でこれだけ成長するのは流石だ。
これが子供の柔軟性、適応力というものなのかと驚かされる。

子供とはこれまでに数回顔を合している。
それでもまだ距離感が埋まらないのは、彼女の境遇を考えると当然かもしれない。
クレイ・カーティナーの方がまだ反応を示した。
あの子供も、懐く、慣れるという単語に遠かったが、それでも近づけば拒絶の反応を示す。
最近になってようやく、好きなもの、嫌いなものに対しても感情が外に現れているのを読み取れるようになった。
彼女との接触、意思疎通は難しい。
だが、この子供は扱いに一段と神経を使う。

子供が食事以外で口を開いた所を見たことがない。
何か言いたいことがあるのなら、声は出ずとも唇が動くだろう。
だが、クレアの前で口を開き、歯を覗かせることはなかった。
格別嫌われているわけではないのは、肌で感じ取れた。
敵意はない。
また同じだけ好意もなかった。



外から冷気が流れ入る。
改めて外の景色に気を向けた。
肌に染み込むような柔らかい風に湿気が乗る。
競うように乱立したビル群の中では味わえない爽気に、無意識に目を細める。
水の匂いが顔を包み込んだ。
切りそびれた髪が邪魔でまとめ上げて、それでも収まらない遅れ毛を風が首筋から掬い上げる。
僅かな時間の間に外の色は移り変わる。
屋内にいては見逃しがちな些細な変化も、この屋敷の造りは掘り出してくる。
ふと開けた窓から聞こえてくる虫の音や、さざ波のような木々のざわめき、階下の縁側から足を下ろして眺める木の葉が庭に落とした水影。
人工的に美を作り出すのではなく、気づかず見過ごしていたそこにある美を浮き上がらせる。
そうした目を持っている屋敷の主の意外な能力に、今さらながら感嘆する。
部屋で待ち人を待つだけの退屈なはずの時間が、飽きさせない暇へと塗り替えられる。
家は寝床だけではない。
充実した時間を閉じ込める箱なのだと、以前この屋敷の主の口から聞いた。
声を荒げることのない、終始落ち着いた深い確かな声で語った言葉通り、無音でない静寂は自分の心の中に散った、普段なら取り留めない小石のような発見にも静かな光を当てる。



「バートン様」
足を擦る音さえ控えるような屋敷の人間が、格子の戸口へと姿を現した。

「来たのか」
「間もなくこちらにいらっしゃいます」
クレアは本日の主役へと顔を向けた。
足先の届かない椅子に腰掛け、卓上にはすでに閉じられた本が乗っていた。
緊張に顔を強張らせるでも威嚇する刺々しさもなく、また安堵や期待に高揚する様子もない。
滑らかな磁器細工のように冷え切った無表情で来るべきものを待つといった空気だった。
柔らかで豊かな布の袖が膝の上で広がる。
重ねられた血の通わないような繊細で白い指先が裾から覗いた。
血の海でガラス玉の目を浮かべていた彼女は、汚れを拭われてもやはり人形のままだった。
戦場とはいえ、彼女はまだ幸運だ。
体に深い傷はなく、何より救われた。
虜囚であったとはいえ、労働力にもならないほど幼過ぎたのも幸いであった。
彼女の母の生き筋は知れないが、報告書に目を通す限り衰弱は激しかったがその他身体に異常はない。

ディグダの中でありながら、同じ年恰好の少年、少女が武器を握り、体を削り、命を投げ出すことを強いられているのを知っている。
目を覆いたくなるような報告書や、原形を確認することすらできない死の光景も目にした。


ディグダとは何だ。
軍は何のためにある。

国益のためか、国民のためか、一部の利権のためか。
何度も問いかけ、否定し、答えを探した。


そして私も救われた。
クレアは深く瞼を閉ざした。
規則正しい足音が廊下を蹴ってくる。

もう一つは床に足を乗せるように軽やかに。
足音には性格が出る。

未だ角の取れない鋭い音。
彼女もまた救われた。

クレアは彼女なりの居場所を見つけ、腰を据えた。
クレイは、どうだろうか。




夕刻は過ぎ去った。
外の薄暗さは、夜闇に追われて消えた。

「カーティナー様とエルファトーン様です」
耳によく届く、落ち着いた声で屋敷の人間が訪問者の到着を告げた。

「ここは貴女の家なのか」
「開口一番がそれか」
「似合わない」
「はっきり言う奴だ」
他人の前でいきなりその発言は、かなり神経に障るだろうが、クレイがある意味打ち解けた会話を持ち出したのは、傍らにいるセラの効果だろう。
無礼なクレイを止めるでもなく、セラが礼儀正しくクレアに挨拶と招待に礼を述べた。
一体どうしてこの取り合わせが成立したのか、未だに不明だ。
接点や趣味趣向が合いそうでもない。
まして波長や性格も違う方向へ走っている。

「残念ながら私にはこれほどの屋敷を建て、維持できるだけの財はない。それに木目細やかな技巧に溢れた家をプロデュースできると思うか」
「訓練室だな」
物欲に乏しい、無機質で飾り気も面白みもないただの部屋という名の箱だ。

「私の宿舎はまさしくそれだ」
話が途切れたところで、すかさずクレアは置物のように沈黙、静観していた子供を引き合いに出した。
それこそが本題だった。



「この子供は、陽花(ヤンファ)という」
切りそろえられた前髪は彼女の聡明さを引き立て、高く結い上げられた髪は艶やかで深い色をしている。
椅子から腰を流して爪先を床につけると、長い服の裾を引きながら磁石のように床を音なく滑りクレイへと身を寄せた。
水が流れるように、あまりに自然に寄り添ったのでクレイは飛び退く隙もなかった。

陽花と呼ばれた子供はクレイの足にしがみついたまま、口も開かず、見上げることもなく、動こうとはしなかった。

刺繍が繊細な腰帯と、乱れなく丁寧に結われた髪、上質な柔らかい衣服は形もディグダクトルでは見たことがないものだ。
クレイにそんな知り合いはいない。
陽花という名に聞き覚えもない。

だが。
クレイは頼りない小さな肩を押しやり、顔を自分の方へ無理矢理に上向けさせた。

「この子供は」
目は、見覚えがあった。
この子供の小さな手は、離すまいと思い続けていた手は。

「覚えているか。おまえが保護した少女だ」
冷たくなった母の下、赤い滴りの中で小さな命が蠢いていた。

クレイはただ、混乱していた。
縋りつく少女の扱いや、変わり過ぎた彼女の身に起こった変化に言葉も動きも失っていた。

セラは薄く口を開けて驚いている。
状況がまるで理解できていない様子だ。

クレア自身も動揺していた。
心が抜けた人形のような少女がいきなり動き始めたのだ。
軽く背筋が冷える思いをした。

「今は、この屋敷の主が彼女を養っている」
「誰だ」
ディグダクトルで動けば確実に違和感で浮くだろう少女の衣装からして、クレイには少女を匿った人間の姿が想像もできない。

率直に聞かれて、答える言葉がクレアには見つからない。

「安心できる人だ。やはり、引き合わせて正解だったのか」
クレイと少女との再会を持ち出したのは、クレアではない。

「その方がクレイとこの子を?」
「そうだ。どういう意図があってのことかは読み取れないが、結果は」
見ての通りだ、とクレアは口を噤んだ。

「カーティナーからあの子供のことは聞いたか」
セラはすぐに答えなかった。
クレイがセラに任務上の出来事を口にしたのが、軍務の規程に抵触する恐れがあったからだ。

「別に、悪いことはない。聞いているのなら話は早い」
「クレイが拾った子」
「あの子供は、決して笑わない。声を上げることも、ましてあんな行動を取るようなこともなかった」
一歩進んだと言えるのだろうか。
クレアには少女の未来が見えなかった。

「あの子の親代わりの人には会えないのですか」
「その人はここには居ない。ここもその人の別邸に過ぎないからな」
クレア・バートンが受けた任務はもう一つある。

「クレイ・カーティナーは、以後定期的にこちらが指定した場所にて、この子供、陽花と面会すること」
なぜ、とクレイが訝しがるのも無理はない。
クレア自身、その必要性が見えないからだ。

「この件に関しては以上だ。質問は受け付けない」
受けたところで、クレアには答えようがない。

「腹が減った。食事は用意してある、のだそうだ」
クレアが視線を振った先をセラも振り向いた。
格子の引き戸が両側に開き、屋敷の案内役が別室へと導く。
クレアが促す必要もなく、廊下に流れ始めたクレイの後ろを少女が離れず続く。
セラは二人の様子を興味深そうに、また慈愛の滲む目で見守っていた。


「本当に、不思議な奴らだ」
クレアが短く息を吐き、最後に部屋を離れた。












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