Ventus  103










ヤンファ?


「ならばお前はヤンファだ」
乾いた手が何よりも温かかったのを覚えています。
抜けていった体温が戻ってくるのを感じました。

名前というのは不思議なもの。
そのモノに存在を与えてくれる、呪文のようなもの。
あなたはそこに居てもいいのだよと許しを与えてくれる言葉です。

昔むかしのことはほとんど覚えていません。
ずっと側にいてくれたラオは、どうしても思い出せないなら、忘れてしまっていいと言いました。
忘れることがすべていいことだとは思わないけれど、思い出そうとすると嫌な感じがするんです。
記憶として景色が浮かぶのではなく、きっとその時感じただろう寒さや怖さに鳥肌が立ってしまうんです。

そう、ラオの言うことはいつも正しい。
だから思い出は温かい腕の中から始まって。
今は幸せ。
今は痛くない。
怖くない。
寒くない。






気分が揺らいだときには思いを言葉にし、形として表せばいい。
昂る時も、沈む時も。

ラオの言葉で、思いを書き表すことの意味を考え始めました。
それまで勉強のための文字ならいくらでも書き連ねてきたけれど、思いを紙の上に落としたことはなかったように思います。

紙も筆記用具もそこにありましたが、踏み切れませんでした。
思いを書き表すことに慣れていなくて、どこから始めたらいいのか分かりませんでした。
口で話すのとは大きく違います。
文章として大きな枠に収めるには、頭の中に散らばった思いを整理しなくてはならなくて。
それはとても難しいことのように思えました。

思い立つ瞬間というのは不思議なもので、ほんの些細な切っ掛けです。
一言で言うならば、何となく。

書き始めれば不思議なことに、糸を解くように話が次へ次へと連なってきました。
不鮮明だった記憶も、塗り直されて輪郭が明らかになってきました。

それが始まりでした。
心の中に少しずつ積もっていった記憶の断片を、ゆっくりでいいから書き留めていこうと思ったのです。

ラオが書き物をするのにちょうどいいだろうと設えてくれた木目の浮いた長机は、床に座って筆を取ればぴったりの高さなので、決まってここで筆を進めます。
目の前には障子窓、引けば曇りの日でも緩い光が入り、閉ざせば外の緑が影を落とします。

私室というものはありませんが、必要を感じたことはありません。
むしろラオがいない時などは寂しすぎるほどです。
両開きの部屋の扉は、いつも留め金で固定され、開放されています。
以前ここに来たばかりのときに、閉ざされた部屋にいるのが嫌で目を離せばすぐ廊下や広間にばかりいたのだそうです。
覚えていないので、自分で説明はできませんが、周りの人が言うには閉じ込められるのが怖かったのだろうとのことでした。
子供とはそういうものだとは思いますが、極端に酷かったのでしょう。

この別邸のなかで、出入りできる部屋のほとんどを開放するようにとラオが指示したのは、そうした経緯があったからだと最近知りました。

屋敷は楼閣のように高く造られてはおらず、木の根が土を這うように横へと広くなっています。
廊下と部屋は板張りで、夜になれば磨き上げられた床は仄かに燈火を映します。
都会の喧騒とは何たることか知らないような、無垢な静寂が炎の揺らぎすら伝えます。

ラオが揃えてくれた服をまとい、ラオの帰りを待つ長い夜。
遊具がさまざま箱に収まっていましたが、時間を埋めるほど楽しめるものは見当たりませんでした。
それが、ただ積まれた紙と隣に置かれた筆の二揃えだけで驚くほどに毎夜の時間が縮まりました。
振り返ればいつの間にかラオが帰ってきていて、戸口に立っています。
屋敷の人に、肩から落とした上衣を預けてから、手にしていた新しい書物を渡してくれるのです。
ヤンファによさそうな本を手に入れたのだと口添えて。






風が窓に当たる音が気になり、筆を休めて顔を持ち上げました。


朝、背中まで伸びた髪を梳かされながら戸外の様子を横目で眺めていました。
板敷の間は足を下ろせばそのまま庭へと出られます。
開け放たれて見通しの良い庭が薄暗いのが気に止まりました。
今日は一日曇りだそうです。
湿気が低く溜まっているように思えます。
髪に櫛を入れながら、髪を結ってくれました。

ラオが廊下から部屋に顔を覗かせました。
目の前の廊下は朝食が用意された部屋に繋がっています。
髪が仕上がったところで、ラオの静かな足音が床を鳴らすのが聞こえてくる毎日です。
二人並んで部屋へ入り、朝食を終えてお茶で口を清めてからラオが出掛けてくると席を立ちます。

ラオが動けば屋敷が動く。
誰かが言っていた言葉の意味が目の前で再現されます。
外へ向かったラオの後に、人の流れができているのです。
消えてしまった影に少し寂しくなっているところで、食器を片づけ始めた給仕の女性が頬笑みながら、今日は何をなさるんですかと気分を紛れさせてくれます。
食器を手に奥へと消えた女性が、温まったポットを手に戻ってきました。
今日こそきっと、いらっしゃるといいですね。
つぎ口を椀から少し上に持ってくると丁寧に注ぎながら口にしたのです。






少し強くなってきたのか、風通しのため僅かに開けていた窓の桟に指を掛けました。
手前で景色を遮っていた障子張りの骨が小刻みに震えています。
ラオの帰りには風が緩んでいるといいけれど。

風の強さが気にかかり、出来心で窓を三分の一ほど右へ引きました。
二階まで背を伸ばした幹の細い木がしなって、手を伸ばせば届きそうなほど近づいては離れます。
書き物の途中に窓を開けたのがいけなかったのです。
筆は転がり、書きさしの紙が風を孕んで浮き上がりました。

いけない。
慌てて上から破かないようそっと机へ抑え込み、文鎮を乗せて長机の端へと逃しました。
自由に舞う髪を片手で押えながら不作法を承知で机に膝を掛け、空いた右手を桟に絡め体を支えて身を乗り出しました。
風の鳴る音が耳を掠めていきます。
以前ラオに見せてもらった海の波音のように葉が騒がしく重なり合います。

雨が、降りそう。
目を細めて曇天を振り仰ぎ、一目で流れの分かる灰色の一点に目を止めていました。
形を崩し、空を滑っていく雲。

ふとした瞬間に、胸に針を差し入れたような痛みが走りました。
締め付けられ、息苦しくなり、言いようもない寂しさが込み上げてくる。
後から感覚の理由づけのように、それは欠いてしまった人を想う懐かしさなのだと悟りました。
感情の意味がわかればより一層、胸は苦しくなり桟に爪を立てました。
溢れだした気持ちは、涙という形になって流れ出す。

失った人を追い求めても、願っても出会えない苦しさを嘆いても、取り戻せないのです。
どうにもできず、どうにもならない現実が哀しかった。

時間が失った傷痕を埋めたと思っていたのに、似たような声や似たような情景に出会えば、痛みを思い出す。

風が温かい涙を攫って行きます。
遠いことのはずなのに、痛みは褪せていったはずなのに、皮膚の感覚や聴覚、視覚、嗅覚といった感覚器官が覚えている記憶は鮮明に思い出させます。




玄関が賑やかになりました。
駆け回るというほどではありませんでしたが、屋敷の者が来客出迎えのため廊下を流れていくのが、廊下に接したこの部屋から窺えました。
袖で乱暴に顔を拭い、窓から跳ねるように身を離しました。
着物の裾を払い、長机から身を下ろして床に足先を付けます。

時間を作って今週会いに行くよと聞いてはいたのですが、忙しく日にちを決することができないでいたようです。
お仕事が忙しいのは承知していますので、堪えて待っていました。
泣いて喚いて我儘を言って、そうすれば会えるのでしたらいっそしてみたい。
でも、困らせるのはもっと嫌です。

知らせが来る前に、裾を持ち上げ体が先に走り出しました。
知らせの者と廊下ですれ違いましたが、気にせず一直線。
角を二つ折れ、最後の角を曲がれば玄関が。
そのところで、目の前に壁が現れました。

「マア!」
一番会いたかった人。
待ち焦がれた人に、人目に触れるも構わず飛び付きました。

「しばらくだった。今朝連絡を入れられればよかったのだけど」
「いいの。いいの」
屈みこんでくれたマアの肩に頬を寄せた。
マアの匂いがする。

きっと、ぎりぎりまでここに寄れるか分からなかったから、連絡をくれなかった。
ラオと一緒で、屋敷の人に比べて口数は多い方ではないけれどそれ以上に温かい。
抱きしめてくれる腕はいつも変わらない。
最初から、ずっと変わらない。

「風が強くなってきた。窓は閉めているか」
「後で閉めておく」
ひとしきりマアとの抱擁を交わすと、手を引いて一番庭の景色が綺麗な部屋へと導いた。
そこに行けばお茶菓子も用意してもらえる。

今日は何をしていたんだ、とか。
ありふれた問いかけでも、言葉を交わせるだけで嬉しい。

「マアの話も聞かせて。今回は遠くに出掛けていたのでしょう?」
「ああ」
「変わったお花とか」
この屋敷の庭にも花が溢れています。
毎日花籠一杯にしてもまだ籠が足りないほどに。
その庭から、数輪手折ってマアとお茶をする部屋に午前、活けました。

「そうだな、そういえば」
対面のマアの話に、卓子に両手を乗せてマアへ顔を寄せると、目の前の大きな澄んだ目が何かに気づいてこちらを凝視します。

「目の周りが赤いな」
頬にマア右手が被さり、親指で探るように目の下を押さえる。

「さっき、ずっと外を眺めていたから。きっと一生懸命見過ぎてしまったの」
「そうか」
下手な言い訳に納得した風を見せて、マアが話の続きを始めました。

穏やかなとき。
平和な時間。

ラオやマアは喧噪から遠ざけて、与えてくれる。
愛おしいもの、優しいものを、わたしに。












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