Ventus  100










近づいても動かない。
引き結んだ唇は開かない。
瞬きを忘れた目は怒りも悲しみも痛みもない濁ったガラス玉だった。

噎せ返る臭いに耐えきれず、鼻を袖口に押し付けた。
部屋中にぶちまけたような血の臭いだ。
ただ明かりといえば廊下から漏れ入る光と、乱雑に荷物が詰め込まれた棚の上に置いてあるランプが一つ。
どこから掘り出してきたのか骨董を思わせる古いランプは、埃を被り濁った暖色の光を室内に落としていた。
室内は暗くて、色彩の感度も鈍っている。
明るかったならば、床や壁に散った飛沫を目の当たりにし、足が竦んだだろう。
血の池に座り込んだ少女。
幼く、年は十に満たない。
隣には惨殺されたと一目で分かる遺体。
動けないでいたのはクレイばかりではない。
死人を目にしたことはおろか、自分の手で命を奪ってきた兵士の足さえ凍りつかせた。
少女は現実を見ていない乾いた目をしていた。
目を開けたまま死んでいるのかもしれない。
一歩踏み出すが、身動ぎすらしない。

クレイが血溜まりに膝を付き、少女の滑る頬に手を這わせた。
逃げない、瞬きもしない。
冷たかった。
しかし、青白い首筋の下は熱く脈打っている。

「この子は、まだ生きている」




「そこで死んでるのは女だな。こいつの、母親か」
「おそらく」
「殺したのは、隣の部屋にいた男だな。仲間割れとも思えない」
粗末な部屋に閉じ込められた母娘、惨殺された母親。

「この子供、この地域の血の者じゃない。捕虜か、奴隷か」
労働力として捉えられた者らしいことは分かった。

「母親は、子供を守ろうとしたんだろう。背中側だけ、切り刻まれてるな」
腕や足へ刃物を何度も振り下ろされながらも、腹の下に我が子を隠し守り抜いた。
子供は、母親の下で消えゆく温もりを受け止めているしかできなかった。

暗闇に緑のランプが浮かんでは消えた。
兵士の腰にあるホルダーで小さなランプが点滅している。
定時報告を促す印だ。
兵士が端末を腰から取り出した。

現在地と状況を入力した。

「敵の中枢部は押えた。各自回収地点へ合流せよとのことだ」
ここの敷地は報告を聞いたディグダ軍が制圧する。
子供は軍が拘束、取り調べられる流れになるだろうと男は言った。

「連れて戻る」
言いきったクレイに、兵士は絶句する。

「そういう指示は出ていない。確保と取り調べは別の部隊がする」
「屋外から最短の合流地点まで、敵兵は」
クレイが少女の両脇に腕を差し入れた。

「エリア六八、六二、五六で交戦を確認。本気か」
現在地点はエリア五二。
身を潜めていた残党が反撃に出ているのだろうか。
実戦経験の乏しいクレイが推測できるのには限界がある。
ただ、今クレイらが潜っている建物の地点に近い位置に敵がいる。
速やかに撤退すべきだ。

「母親が殺されていた。ディグダ軍へ情報を漏らす可能性を恐れてだと思う」
少女の細い胴へ腕を回し、背中でクレイは左手で自分の上腕を掴んだ。

「敵は迫っています。彼らがここに到達すれば、この子はきっと殺される」
次は、本当に、確実に。
少女の体を浮かせて、左肩の上に少女の顎を凭せ掛けた。
ゆっくりと、人形のように脱力した血みどろの少女を池から引き揚げる。
饐えた臭いがする。
彼女の置かれた劣悪な環境が同情を誘った。
嗅覚と記憶との関係は密接だ。
かつてクレイが踏みしめていた貧民街での記憶をえぐり出そうとする。

「私がこの子を連れて行きます」
「しかし、それでは同行している俺の」
責任、立場、迷惑を掛けるのは分かっている。

「ならばここに残ります。残って、敵兵が来るのを防ぎます。ディグダ兵が来るまで」
「お前、何馬鹿なことを」
しかしクレイは少女を抱いたまま一向に動かない。
彼らの部隊に撤退命令が出ている今、ここにじっと留まるわけにはいかない。
ディグダ兵は怒鳴り散らしたいのを奥歯で噛みしめてやり過ごし、一つだけ条件を提示した。

「お前が運べ。遅れず後に着け」
「了解」
宣言通り、先行するディグダ兵は速度を落とすことなく足場の悪い通路を走り抜けていく。
周りを見る余裕などほとんどなかった。
子供を片腕で支えながら、右腕のアームブレードは装着したままだ。
建物を抜け出し、住宅密集地帯の通路に出れば、眩しい光が振り落ちる。
久々の太陽と再開した気分だった。


クレイら学生の混成部隊はエリア四〇まで後退し、待機している部隊と合流、輸送車で撤退する。
その流れと入れ替わって、新しい部隊が投入される。
後者の部隊は掃除屋と別称されていた。



走り始めてから視界の端を並走する影がすぐに目に入った。
飛びかかってくるか。
思った矢先に、横から飛び出した。
先を行くディグダ兵がいち早く気づき、クレイの右側に回りアームブレードを水平に叩きつけた。
体を大きく捻って遠心力を加えた男の腕力は凄まじい。
敵兵はあっけなく吹き飛んでいく。
礼を聞く前に走り出した。
子供とはいえ、人間一人を抱え込んで走るのは辛かった。
腕が痺れる、喉と肺が傷をつけたように痛みだす。

「エリア四九。交戦の跡あり」
アームブレードの威力を最大限に引き出すため、戦闘服の軽量化がされているディグダ兵服。
付属する装備品も軽量かつ小型化されているが、今は走るたびに騒ぐ付属品の音が耳触りに感じた。

ディグダ兵の足元に死体が転がっている。
一体ではない。
ディグダ兵ではなかった。
ディグダから支給された制服ではないようだった。
民間人か、と身を固くしたがすぐさま前から声が流れてきた。

「敵側の人間だ。ディグダは民間人に手は出さない」
よく見れば、死体と地面との間に武器が挟まっていた。

「脚を緩めるな、まだ先がある。左手、注意!」
人影はないが、ディグダ兵の注意の意味はすぐ知れた。
積まれて放置されたごみ山の間から、残党が飛び出してきた。
こちらはずっと走り続けてきた人間、あちらは潜んでいた人間。
走って振り切れるとは思えない。

敵が狙うのは身軽なディグダ兵ではない。
いかにも未熟な、重荷を抱え込んでいる学生兵の方だ。

またも、ディグダ兵が前に立ち塞がり対峙した。
クレイは足を止めて見つめることしかできない。
アームブレードの峰で相手の剣を流し、体軸が崩れたところで足払いを掛けて完全に崩す。
地面に手をついた相手に容赦なくブレードを振り下ろした。
骨が砕けた嫌な音がした。
鎖骨は折れ、ろっ骨も損傷しているはずだ。
痛みに戦意喪失した敵に背を向け、先を急いだ。



「ちょろちょろと出て来やがるな。エリア四七だ」
「また左手、建物の陰」
切れる息を抑え込みながら、必死で周囲を警戒する。

「ああ、やな感じだ」
ディグダ兵の呟きを聞き流した後、暗い隙間にちらつく小さな鈍い光をクレイは見た。
何だ、一体。
思った直後、二本の矢が飛んできた。

うち一本がクレイの太腿を掠める。
服が裂けた程度だが、あと一歩前に出ていたら脚をやられていた。

「振り切る」
一体一体相手をしていては先に進めない。
ディグダ兵の背中について、壁際の障害物が多い場所を選び敵兵との距離を離した。

「エリア四三。後少しだ」
後一息で、ディグダクトルに帰れる。
血の臭いの無い、穏やかな場所へ。

「上!」
叫んだときには遅かった。
建物の二階部分から降下した敵兵がディグダ兵へ剣を振り下ろしている。
考えるより先に体が動くとはこのことだろう。
頭からディグダ兵の背中に突っ込んだ。
ディグダ兵は前に吹き飛び倒れる。
クレイと腕の中にいた子供もろとも傾れ込む。

敵兵の一撃は避けられたが、安心している時間は一秒たりともない。
クレイの下にいるディグダ兵の隣に弛緩した少女を置いて、クレイは両手を地面についたまま左足を高く蹴り上げる。
足裏は敵兵の手首を捉え、剣先を反らせた。
跳ね起き、左手を添えて下からアームブレードの刃を突き上げた。
火花が散ったのは錯覚ではない。
振り下ろされた敵の剣、受け止めたクレイのアームブレード。
重かった。
アームブレードの試合で受け止めた重さとはまるで違う。
命を掛けた、殺意の籠った一撃だった。
殺される。



身が竦むより先に、別のものが動いた。
死にたくないという意思。

死にたくないのならば、殺せ。


後で思い返しても、その時の自分に寒気がする。
両手で自分の体を抱え込んで小さくなり、叫びたい気分がする。

それは、かつてのクレイそのものだったからだ。
そのときの自分は獣(ビースト)だったと。
そこにいたのはまぎれもなく昔の自分。
感情もなく、ただものを割くように人を切りつけた自分には鬼が棲んでいるのだと、蔑んでいた自分自身だった。



剣とブレードが競り合いになり、押されつつ地面に背をつけたところで両足を持ち上げた。
膝を曲げた脚を、バネを伸ばすように跳ね上げた。
狙ったのは相手の鳩尾、相手との距離が離れる。
重かった剣が遠のいていく。
よろめいた相手が体を起こし、立ち上がったクレイの目の前に剣を突き出した。
顔を右に避けて剣をかわし、次は左へ首を曲げる。
加速していく相手の動きに動体視力が付いて行かない。
距離を取らなければ、刃渡りの長いアームブレードでは身動きが取り辛い。
左目が捉えた転がった壁際に缶を蹴り上げた。
思ったほどの高さまでは届かなかったものの、中に残っていた穀物の粉が舞い、咄嗟の事態に対応できなかった相手の視界を奪う。
その隙にクレイが飛び下がり距離を確保した。
視界の右では、いつの間にか現れたもう一人の敵兵と起き上がったディグダ兵が交戦中だ。


自分の命は自分で、か。
黄色く濁る狭い通路でクレイは息を詰めた。

体を低くする。
脚を開き、腰を落とす。

私はまだ、死にたくはない。



放たれた弾丸のように地面を蹴り、飛ぶように駆けた。
相手との距離が一気に縮まる。
アームブレードが唸る。






飛散した飛沫は通路の壁へと張り付いた。
体中が濡れて気持が悪い。
腕も、足も重かった。
アームブレードを早く外したい。
煩わしいと思ったことがなかった。
今まで無かった思いが湧いて出てくる。
逃げ出したい。
すべてを切り殺して何も無いところへ。

冷たくなった心は無意識に救いを求めていた。
渦中にありながら災難を逃れた少女が壁に背を凭せ掛けて、生き延びたクレイとディグダ兵を壊れた人形のように見つめていた。

その姿にクレイは自覚していないながらも酷く憐れみを覚えた。
汚れた両腕を彼女の体に回し、痛む胸を押しつける。

「このエリアを抜ければ合流地点だ。急ごう」
息が上がりきっているディグダ兵を振り向いた。
アームブレードを装着している腕が垂れている。
右腕は使い物にならない。
次に敵に遭遇しても戦えない。


クレイは少女を抱いて立ち上がった。
帰るんだ。
どんなことをしてでも。

ディグダ兵とクレイ、二人は再び走り出した。












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