Ventus  94










「食べる気がしない」
並んで席を取った食堂で、カトラリーに手を伸ばしはしたものの、クレイの手はそれ以上一向に動かなかった。
心配になってセラが声を掛け、弱々しくクレイが吐き出した。
清女の祭り、アームブレードの大会で思った成績が出せなかったのがよほどショックなのだろうか。
しかし、試合後は実にいい顔をしていた。
それとも後悔が後で込み上げてきたとでもいうのだろうか。
少し、考えにくいが。

「あれから連日、クレア・バートンに呼び出され続けなんだよ」
「毎日、だったの? 大会が終わっても熱心に訓練施設に通い詰めてるなって思ってたけど」
隣でクレイがカトラリーを持ち上げて、指に絡めて弄ぶ。
飽きて水滴が机に輪を作ったカップを口に運んだ。

「早朝と夕方のランニング。これ、何だか分かるか」
クレイが胸のポケットから学生IDカードを取り出した。

「わたしのと同じ、よね。偽造でなければ」
「ひっくり返して」
セラがカードに爪を引っ掛けて裏向けた。

「何これ。シール?」
薄いチップがカードに付着している。
剥がれるのかと爪先で押してみたが、しっかりと貼付している。

「その薄っぺらい、小指の爪半分くらいのチップに私の行動が記録されるんだそうだ」
走行距離と運動時間。
それだけしか計測できないそうだが、クレイには十分な拘束力だ。

「手を抜かせないってわけね。先生も本腰を入れにかかったわけ」
いいことだと思う。

スタミナ不足だ。
終われば覚悟しておくように、クレイに伝えろとメールが来た。
覚悟という言葉で恐れをなすクレイではないが、厄介そうな渋い顔をしていた。

それから、一週間。
宣告通り、扱きは始まっていたということだ。

「もう少し体力が追いついていたらっていうのは本当。でもどうしようもなかった」
セラが半分料理を残して手を休めた。

「だから体力底上げするのよ。走って、食べて、練習して」
「ああ」
「一人で辛い? 一緒に早朝ランニング」
「いいよ、大丈夫だ。ちょっと面倒なことに巻き込まれたなと思っただけだ」
愚痴を吐きたかっただけかもしれない。
話せてすっきりした。
むかついていた胃も、少しはましになってきた。

「じゃあ、夕方だけでも付き合うわ」
「いいって」
「わたしがしたいのよ。たぶんクレイに付いていけなくなるから、そうしたら休憩して見学させてもらうわ」
そうまで言われたら断りきれない。
実際一人で走るのは味気なさ過ぎる。
セラと一緒に話しを交えながらなら、少しは苦痛も楽になるだろう。

「で、少しは体力付いてきた感じ?」
「さあ。どうかな。一ヵ月、二ヵ月とかって単位じゃないとな」
効果はすぐに測れない。
ゆるゆると食事を進めながら、ディグダクトルの歌姫の話もでた。
またクレイの知らない内にジェイ・スティンのところに行っていたらしい。
島での思い出や、学校のことをひとしきり話して帰ってきたそうだ。
楽しめたのはよかったが、クレイからすれば正直一人で行ってほしくない場所だ。

「大丈夫よ。帰りは途中までジェイが送ってくれたもの」
なかなか太い神経を持っているセラだが、それでも心配は尽きない。
次に行く時は前もってジェイに連絡を取って、迎えに来てもらうよう固く言っておいた。

「何だかね、お母さんみたい」
先に食べ終えたセラが皿を脇に退ける。
片肘を机に付いて、手のひらの上に柔らかくて白い頬を乗せた。

食堂に何本も横たわる、長い長い机。
食堂を上から見たら、定規で引いたような白い平行線で埋まっている。
机の両側には椅子が並べられ、人間関係の密接さと物理的距離が相関している。
白い蛍光灯、白い机。
淡色の食器。
白いセラの肌。
その中身も、限りなく白い。

滑らかで細い指がセラとクレイの間、机の端に絡む。
セラは人形のような、きれいな女の子の指をしていた。

「でも時々、とても小さい子みたいに見えるね」
「何だそれ。滅茶苦茶じゃないか。それにセラだって同じだ」
「そう?」
「みんなそうだ」
「そっか」
納得したようにはにかみ、目を丸くして、小さく頷いて。
そんなセラをかわいらしいと思った。

「みんな、色んなものが混じりあってるものね。そういうもの。ねえクレイ」
隣から食事中の友人を覗き込みながら、何かいたずらでも企んでいる目をしている。

「今度はどこに行きたい?」
いきなりだ。
意味をそのままに受け取っていいのか戸惑い、クレイは瞬きを繰り返した。

「セラの故郷、かな」
「他には?」
「どこだろう。どこでも。だったら図書館で探せばいい」
どこまで本気か図りかねるが、これが今だけの戯言にしろ、近い未来にセラが強引に手繰り寄せて実現させる現実にしろ、居心地はいい。
温かい。
そうか、これが。

「楽しい、か」
「クレイは今、幸せ?」
「さあ。腹も膨れてきたしな。ここは寒くない。怖いものも何もない。セラも無事に帰ってきてるし」
「わたしは幸せよ」
「そういうのなら、私もそうなんだろうな」
「あの時は幸せだったって、後でしみじみと感じるのって寂しいじゃない。後ろを振り向いて、今を否定したくない。だからね、わたしは」
セラは周りを見回した。
まるで今いる環境と現実を再確認したいようだ。

「それが今の一瞬だけだったとしても、もう少し長く続いてくれたとしても、幸せであることを認識したい。幸せだって感じていたい。今、ここで」
言葉にして。

「たくさん食べて、明日もたくさん動いて、ね。幸いにしてここの料理はとてもおいしいわ」
徴収される学費と釣り合わない、量も質も高い食事だ。
バランスがよく、飽きさせないだけバラエティにも富んでいる。

「いいじゃない。クレア先生の直接指導。羨ましがるひとだってきっといっぱいいる」
「かもしれないな」
食事は片付いた。
学生たちの雑談と笑い声にクレイとセラは埋もれている。
賑やかだが、耳障りではない。
今では温かいとすら感じる。

思えばセラと会う前は、一人で壁を隣に食事を済ませていた。
誰と話すこともなく、食事とは単なる栄養を摂取するだけの時間だった。
味も匂いも必要ない。
ただ腹に叩き込むだけのもの。
周囲の音も、聞こえないようにしていた。
車道を走りぬける車のエンジン音、それに同じ。
意識しなければいい。
存在を感じなければいい。

だが今は、それがどれほど冷たい時間だったのか知った。
もう、戻ろうなどとは思わない。

「吐くほどに一生懸命になったことはあるかってね」
思い出した。
少し前のことだ。

「カイン・ゲルフ。あいつに言われたんだ。必死になったことはあるか、諦めるのかって」
乾いた空気、作られた土の匂い。
木や草は茂るのに、清潔感が抜けきらない。
自然物の模倣、箱庭。
円環の中心。
環状の訓練施設、その中庭で。

「鬱陶しいと思ったよ。煩いとも。所詮他人のくせに、何も分かるはずないだろうって。ましてあいつとは接点がほとんどないのにな」
「でも、ちゃんとクレイの記憶に染みついてる」
そうだった。
あの時のカインの真剣な目、憤怒と怒号は忘れられない。

「関係ないって言いながら、それでも胸に響くところがあった。言葉に真実が埋まっていた」
「一生懸命、ね。アームブレードを選んだのだって、特に意味はない。興味だってそれほどなかったんだ。でも、この間の試合は、負けたくなかった」
初めて、勝ちたいと思った。
どこまでいけるのか、どこまで登っていけるのか、どこまで体が動くのか。

「試合が終わった後、気持ちよかったんじゃない?」
「ああ、すっきりした」
「それが次に繋がる動機よ。クレイはまだ走れるでしょう? 行けるところまで行けばいい」
クレア・バートンはそれを助けてくれる。
無愛想で、言葉は少なくて、厳しくはあるけれど、いい教師だとセラは思う。
この師弟関係がこのまま続けばいい。
来年も、再来年も、クレイが新しい道を歩むときにも。




朝のランニングは体が慣れれば苦痛も感じなくなった。
クレイは目覚めがいい方だ。
同行というよりむしろ保護者に近いセラも、今朝はよく目が覚めたようだ。
眠そうな目を擦りながらクレイの部屋へ来るのかと思っていたら、動きやすい服に着替えて、明るい顔で立っていた。

廊下は冷えて、静まり返っている。
玄関ホールに下りれば、何人かすれ違いはしたもののやはりまだ寮生の大半は夢の中だ。

学生寮を出て、円形の回廊に踏み入れた。
いつもならば大人しく廊下の上を歩くが、人はほとんどいない。

「突っ切っちゃおう」
言葉より先にセラが飛び出した。
長い柔らかい髪は一つに纏められて、動くたびに振り子のように揺れる。
下ろして肩に掛かることの多いセラの髪がいつもと違い、新鮮だった。
クレイがセラに並んで走ると、横目で確認した後、クレイを引き離しに掛かる。
独走させるわけにはいかない。
慌ててクレイはペースを上げた。
追いついたクレイを引き離すべく、セラがさらに速度を上げた。
中庭の中央に聳え立つ巨木をすり抜け、学生寮から庭を挟んで対面の回廊を踏み込んだときには、二人ともが息を切らして前かがみになっていた。
いつから競争になったのか、セラは健闘したものの勝利は当然のように人二人分ほど引き離してクレイだった。

汗を拭いながら、二人で止まらない笑いを堪えつつ、ゆるゆると歩き始めた。
円環の回廊、そこから放射状に延びている廊下。
長い直線の廊下を抜ければ巡回しているシャトルバスを拾うこともできる。
廊下を抜ける頃には息も整ってきた。
セラの体調を一瞥したが、彼女の呼吸も落ち着いた。
どちらともなく、無理はしない速度で再び並んで走り出した。


よく続いたとクレイは思った。
晴れていれば外を走り、雨が降れば寮前の円環回廊を何周も回る。
忘れた頃にやってくる。
物事とはそういうものだ。

天気は曇り。
気温は上着を羽織れば朝夕は凌げる程度。
例によって早朝から走りに出ていたクレイとセラは至って軽装だった。
いつものように一回りして、着替えに部屋へ戻ってから朝食を取る。
お決まりの流れで、お決まりのコース、目に馴染んだ植物園の垣根を横目にしていた。

軽く名を呼ばれて聞き流した。
二度目に呼ばれた時、足を止めてセラが振り返った。

「まさか、こんなところでね」
早朝、しかも寮からは結構な距離がある。
人の少ない場所をあえて回っていただけに、もとより数の少ない知り合いに遭遇するのには驚いた。

「待ち伏せか」
「どうだろう。半分」
カイン・ゲルフは朝からやたらに元気がいい。
ランニングウェアからして、クレイたちと目的は同じらしい。

「ああ、俺は朝だけだけど」
「誰から聞いたんだ」
クレイの表情が濁る。
それをカインはひどく悲しい顔で受け止めた。

「別にスパイのつもりはないし、ストーカーでも。クレイのところの先生と話をしてさ」
話の中でクレイの話題が出てきたのだという。

「そこで提案。俺と試合、してみないか?」
「またなのか。しかも、何で今それを言う」
盛大に肩を落としたクレイは演技でも何でもない。
このパターンはよく知っている。
この後の流れも何度も踏みしめた。
目の前に能天気な男、隣には楽しいこと好きなセラ、この立ち位置は非常にまずい。

「いつするの?」
セラが興味を持った。
この時点で完全アウトだ。
クレイがセラに逆らえるはずもない。

「前に同じことを聞いた。おまえが負けだと認めた。それで話は終わったんじゃないのか?」
「負けた宣言を覆すつもりはないさ。ただ、またやりたいだけだ」
だってクレイは強いだろう?
そう言ってクレイの呆れを吹き飛ばすくらい爽やかな満面の笑顔を見せた。

「潔くないと思うか? 思われたとしても、俺はクレイの力に興味を持っただけだ」
「私は別に何も言っていない。それに私以上のやつらなんてそのあたりにいくらでも転がってるだろう」
「クレイが一番声を掛けやすいんだから、いいじゃないか」
乗り気にならないクレイと一向に引かないカインのやり取りのなか、カインがセラに向き直った。

「じゃあ、セラに聞こう」
「わたし? でも決めるのはクレイで」
「興味、あるんだろ?」
「それは、まあ。クレイもカインも、同じ勝ち数だったし、実力的には僅差だから」
面白い試合ではある。

「だけど前みたいに危ないのは嫌よ。わたしだってちゃんと学校、卒業したいもの」
学園のシステムに手を付けて、捕まって退学などしたくない。

「それは大丈夫。ちゃんと昼間に、規律に触れない場所を用意するから」
「それなら、わたしからは何も。クレイはどうするの?」
視線を投げてみれば、クレイは困った顔をしている。

「セラがいいなら、私は」
「受けてくれるか?」
あまりに嬉しそうな顔で声をあげるので、セラは苦笑した。

「また、連絡する。ああ、それから。今回はちゃんと賞品を用意してあるから。それも楽しみに。じゃあな」
言いきってしまうと、カイン・ゲルフは疾走しあっという間に植物園の陰に消えてしまった。

「カインの映像、用意しておくわ。がんばってクレイ」
いつも厄介事を抱え込んで突っ込んでくるカインだ。
どうか今回はトラブルが起こらないように願うばかりだった。












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