Ventus  88










「人の心が急に変わるなんてあり得ない。それはきっと僅かな変化の連続。ほんの少しの世界の広がり」
「と、セラ・エルファトーンは船上で、視界一杯の星空の下で語った」
「本当、もうしばらくは来られないだなんて、残念」
言葉だけではなく、セラは眉と視線を下げて弱々しく呟いた。
目と眉と口と頬のバリエーションだけで言いたいことを表すことができる。
顔全体が石膏でできているように固まっているクレイには考えられない表情の豊かさだ。

「そうだな」
「言うと思った」
クレイの心中を理解できるのは彼女だけだ。
無愛想、無感動、無気力、無関心そして無機質。
クレイを見る他人の目と評価はいつもそうだった。
セラだけはそんなクレイの心へ、堂々と正面きって踏み込んできた。
クレイの閉ざした扉の前で仁王立ちになって、睨みつける。

いい加減にそこから出てきなさい!
それでも扉の中に閉じこもったままのクレイにセラは今までにないくらい怒った。
扉をこじ開けて、中にいたクレイを引きずり出そうとした。
それでも怯えて奥へ逃げようとするクレイを叱咤した。

こっちを向きなさい!


彼女は言った。


人間は壊れやすいもの。
絆はとても脆いもの。

だからこそ愛しく。
だからこそ大切にするのだと。

失う恐怖を抱きながらも、それでもそれが生きるということだと言った。


「セラは強いな」
「だとしたら、クレイを大切だと思うからよ。だってクレイ、すぐ泣くじゃない。一人にしたら寂しくて」
「泣かない!」
「うそ」
「本当よ。寂しがりやのクレイ。あなたは殻に閉じこもっていた分だけ、時が止まったみたいに子供なの」
慈愛に満ちた母親のような温かい微笑を浮かべ、クレイの頬を手で包み込む。
やはり、セラには敵わない。
認めなさい、と目を合わせられたら黙ってしまうしかない。

セラは不思議だ。
ずっと一緒にいるが、思考が読めない部分がまだまだある。

時に母のように。
姉のように。
親友であり、それ以上の何かでもある。

確かに、セラがいなければ今のクレイはいない。



建物も木々も人ですら遮るもののない空は、遠く感じた。
エストナール本土で船を乗り換え、ディグダへ向う。
長い航路だ。

一等船室以上は食事から下位のものとは違っていた。
クレイとセラは二等船室を確保できた。
三等船室と違い、一つの部屋で三等船室客同士夜を過ごさなくてもいい。
一等ほどの広さなどなかったが、学生の身分では十分だ。
食事も魚が新鮮だったので、さほど酷いものでもなかった。

夕食を終え、皆徐々に甲板に上がってきた。
海風は気持ちいいと感じるほど穏やかではなかったが、乗客にとって夜の海は物珍しかった。

特別船室、一等船室の乗客らは上級船室専用のホールで夜会だろう。
甲板から展望室を見上げれば明るいガラス越しに、時折鮮やかなドレスを巻きつけた背中が覗いている。

二人並んでぼんやりと星の散る空と展望室を外から眺めていた。
船が吐き出す煙が空気に溶けていくのを見つめていた。
舷牆に両腕を垂らしながら顔を寄せる男女の囁き。
両手を広げ風の中を追いかけ合っている男の子と女の子の笑い声。
一人離れてライトの下を流れていく白波を見下ろして、上機嫌な中年男性の鼻歌。
船の鼓動のように絶え間なく低音で響いているエンジン音を聞いていた。

なんでもない時間。
そういう時間が幸せだと思えるのは、クレイにとって大進歩だ。
意味のあるもの、価値のあるものを見出せたのはセラと出会ってからだった。

「ディグダに着いたら、星はもっと見えなくなるんだな」
「ディグダクトルの街の明かりが消してしまうの。星は薄くなる」
船に乗る前、日かぶりに手を通したディグダの服が堅く感じた。
着重ねた服が重く感じた。
同時に胸が苦しかった。

じゃあ、またね。
途切れ途切れの言葉と微笑で手を振ったセラの叔母アリアナの顔が目に染み付いた。
セラと顔は違っても、雰囲気は似ていた。
柔らかい、綿花のような空気だった。




「シータ港行きSHD三三二便にご乗船いただき誠にありがとうございます。お客様にお知らせいたします。この先天候が不安定になってまいりますので、デッキにいらっしゃるお客様は船内へとお戻り下さいませ」
滑らかな女声でスピーカーから流れ出した。
甲板に上がっていた全員がスピーカーと出入り口の方へ一斉に顔を向け、クレイとセラは互いに顔を見合わせた。

ぞろぞろと小さな入り口に流れ込んでいく客で、甲板と船内を結ぶ扉は二箇所とも人で詰まっている。

広い甲板でいろんなところに人が散っていたから気付かなかったが、寄せ集めたら結構な数だった。
とはいえ、サロンだの夜会室だのに篭っている一等船室以上の富裕層など全体から見れば極僅かな人数なのだから、納得と言えば納得だ。
学生二人は人が引くのを待っていた。
天候悪化とはいえ、多少風が強いくらいだし雲も垂れ込めていない。
海から化け物か巨大な氷塊が現れない限り、海に投げ出されて短い一生を終えるなんてことはあり得ない。

黒い布を敷き詰めたような海がどこまでも続いていた。
漆黒の布の上、ディグダ行きの船だけがインクを一滴落としたように白く目映く光っているんだろう。

今海に落ちても誰も気付かないだろうな。
それで、冷たい水の中底も知れない黒い水に引き込まれて、誰に気付かれることもなく魚やプランクトンの餌になっていくんだろう。
食物連鎖。

そんなことを考えながらクレイは見えない水平線を眺めていた。
セラも並んで少しでも夜の冷たい潮風の感覚を体に覚えさせようと甲板の端に佇んでいた。
しばらくはこの船にも乗ることがないのだから。

「ねえクレイ」
掠れるような小さな声でセラが隣で無表情に海を見つめる友人の名を呼んだ。

「見える? あそこ」
舷牆を脇で挟みながらセラが腕を曲げて指先を前方に向けた。
正面より左寄りだ。

「何も」
「うん。さっき、薄く光ったの」
セラの言葉を信じないわけではないが、彼女の言う灯はクレイには見えない。

「あ、また」
今度はクレイも確かに見えた。
一瞬明るくなって、光は消える。
船は流れているのに動かない灯はかなり距離があるということだ。

「何だろう。島か? 赤い。でも小さすぎて見えない」
クレイが目を細めたところで背中から叩き付けるような船員の声がした。

「デッキ閉鎖しまーす」
船員もいいが、演劇でも活躍できそうな張りのある声だ。
入り口で声を上げている彼の他、二名の船員が甲板を駆け回っている。
一人は左回り。
もう一人は右から隅々まで乗客が残っていないか確認して回る。
船員が迫ってきたので、入り口にようやく向った。

「陸地、だったのかしら」
「光、気になるなら戻ってから調べよう。地図なら図書分室だけでも腐るほどあるだろう」
クレイの提案に頷き、セラは小走りで船内へ走り寄った。

船は大波に揉まれることなく、無事ディグダのシータ港に帰航した。
客船は母港の自分の寝床で長旅の疲れを癒すのだ。
長く湯気を吐きながら、彼女は乗客たちの帰国や入国を見守っていた。

港から出ている帝都行きのシャトルバスに乗り込んで、シートに身を沈めたらセラに眠気が襲ってきた。
海での長旅は慣れていない。
だとしたら国外どころかディグダクトルからも出たことのないクレイにしたらさぞかし疲れているはず。
隣へ目をやると、クレイは窓に目を向け睨むようにガラスの向こうを眺めていた。
クレイのそんな様子を見た最初は、自分が何かしでかして機嫌を損ねたのかと、原因に頭を捻った。
クレイと過ごして数ヶ月ほどしてから、それはクレイが眠いときにする表情だとようやくわかった。
多分、今セラが話しかけても反応が二秒ほど鈍るだろう。
かわいそうなので、そっとしておくことにした。

セラが今回の長期休暇と引き換えに植物研究の課題を与えた教師。
彼への報告を頭でまとめていたらディグダクトル内にバスは入っていた。
残念ながら、シャトルバスは学園内には入ってくれない。
一番近い停留所でも、学園まで十分は歩かなければならない。

電子音声で停留所名が呼ばれ、停止するとバスの乗客らはバラバラと立ち上がって各々の荷物を荷物棚から引き摺り下ろし始めた。
二人は足元の荷物を引き上げて、座席間の狭い通路で人の波を潜るようにバスを下りる。

「何か、帰ってきたって感じが半分、もう終わりっていう寂しさが半分ね」
左手の荷物を振り子のように前後に揺らしながらセラが先に歩き始めた。

「しばらく見ない風景だけど、ディグダクトルってこんなに明るかったのね」
「ディグダの中心だからな」
繁華街から外れた車道でも、煌々と明かりが満ちている。

「また、始まるのね」
「でも無駄にはならない。私が見たこと感じたこと。セラが経験したこと。楽しいと思えた気持ち」
「クレイは、何が見えたの?」
夜道を肌寒さに耐えるように身を寄せて歩いた。

「私は今まで流されてきたんだってこと。何だろう、うまく言えないけど」
「うん」
「強くなりたいと思った。何だかんだ言ったって私の見てきた世界はとても小さかった」
「そうね。わたしも、そう」
他の世界に触れるから、自分の生きてきた世界が見えてくる。
対象の比較。

「明日からまた校舎と寮を行き来する生活ね」
「その前に清女の祭りだ」
「あ、クレイ、大会」
「間に合うよ。出場にはって意味だけど。練習? 聞くまでもない」
「がんばれ!」
ちょっとした沈黙の後、セラの小声での声援はクレイに妙な緊張感を与えた。












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