Ventus  87










大陸の一部分を支配しているエストナールの国。
山と川は豊かで平穏だ。
大陸から海に揺られ辿り着く、神の棲む島。
森を愛し、畏れ、手を掛けずまた遠くはなれることはなく、意識せず共存している島民たちがいた。

深い木々の奥に彼女はただ一人、忘れられるようにそこにいた。


神王(しんおう)の側にいた女神。
島の人間の手は彼女のすべてを削り取れなかった。
壁に浮かび上がるように彫られた彼女の左顔面からなだらかな肩に掛けて、抉られていた。

女神の名前は何か、聞いたがサアラ・エイは知らなかった。
削られたところに名前も彫られていたのかもしれない。

サアラ・エイから昔話の一端を聞いた。
神王の周りには多くの神が集っていたという。
その名が示すように、神々の王だった。

「不思議な感じ。こんなに深く、神話の世界に身を沈めるだなんて」
苔生した林の外れにある崖に手をかけて目を閉じた。
神の存在なんて忘れかけていた。
けれどここには確かに神が静かに息づいている。
木々の奥に沈めたとしても、森が覆い隠したとしても、人々が側にそれを模した姿を置かなくなったとしても、神はずっと彼らと共にある。
それが大切なことなのだと、セラは理解した。




余韻を引き摺りながら、サアラ・エイとセラ・エルファトーンは別れた。
どこに行くあてもないまま、町に下りることにした。
ディグダクトルとも、セラの故郷ともまるで違うのどかだが賑やかな町は、花壇の側に腰を下ろしているだけでも楽しい。
民家が並ぶ町の端に踏み入れた瞬間、町全体がもう目覚めているのを感じた。
子供の声が響く、壁越しに朝食の音が聞こえる。
開け放たれた窓から笑い声と食事の匂いが通りに流れ出ている。
狭い道幅一杯に人の生きる音が満ちていた。
溝が砂で埋まった石畳の通りを抜けていく。
程よい空腹を覚えた。

ディグダクトルでは規則正しい生活を強いられていた。
食事の時間、就寝時間、勉強時間、加えて破ってはならない規則があった。
まるで細い平均台を歩いているような窮屈さだった。
そんな息の詰まる毎日でも、無数の志望者から選抜された人間だけが味わえる生活だ。
高度で専門的な学問に触れ、努力と意欲さえあれば望みの職業につくことができる。
ディグダクトルの学園に通うのと通わないのでは、未来の選択肢の幅が圧倒的に違う。

そんな毎日に身を浸しているうちに、徐々に忘れていってしまうことが多くある。
学園で学べることだけがすべてではない。
さまざまな価値観があること、外から見たディグダやディグダクトル。
それは、賑やかで平和な島の人間や土地が教えてくれた。

セラは、石畳の硬さと歩きにくさを知っている。
冷えた空気を肺に深く入れれば、頭が目覚めていく心地よさを知っている。
エストナールと呼ばれるこの国と、異端と呼ばれながら流れ着いた彼らの島を知っている。
島民の心に秘めた神の存在を知っている。
森に神がいることを知っている。
また、出会ったサアラ・エイ。
彼女のことを、決して忘れない。



右に入る細い道に、市場が並んでいた。
セラの故郷にはなかった朝市だ。
常設の店ではなく、靄も明けない早朝に床敷を丸めて近隣の町の人間が集まってくる。
決まった日に、決まったような場所に敷物を広げ商品を並べ始める。
普段は静かな細い通りは、市場の朝だけは活気に満ちる。
両側に並ぶ店の間を、買い物客が互いに道を譲りながらも肩を触れそうになりながら行き来する。
石壁の民家と民家との狭間で広がる賑わいも、日が真上に差し掛かる頃にはほとんど引き上げてしまう。

セラが踏み入れたのは、店が揃いきった朝市の盛りだった。
ちょうどハーブマーケットが道に沿って伸びている市場の手前に店を出している。
ディグダと言語は似通ったものはあるものの、まだまだ拙いエストナール語での効能と使い方を聞きながら、いくつかを手に入れる。
叔母との会話はまったく支障がなかったが、さすがに島民との会話となると、ゆっくりしゃべりながらも聞き返すことが多かった。
それでも薬草や、土壌の話、天候の話などを交わすのは決して苦ではなく、むしろ楽しい。
手に入れた薬草を新聞に包んでもらいながら、セラは上機嫌だった。
なかなか覚え辛い植物の名前を、包みに書いてもらったりもした。
これで叔母の家に置いてきた辞典と照らし合わす楽しみが増えた。
すっかり馴染んだジェイ・スティンの歌も口から零れる。
帰ったら、彼女の歌を浚おう。
新しい話を聞いた後だし、違った観点から読み解けるかもしれない。
一つ眺め終わって、次の店に進んだ。
傷薬としての薬草、こちらは料理のスパイスだ。
海が近いこともあり、海草まで並んでいる。

砕いた灰色の粉を眺めている時だった。




「古き紋 刻まれたる最奥に」
耳のすぐ側で冷え切った囁きがし、セラの身は強張った。
気配が全くしなかった。
緊張で動きと共に、息も止まった。
このとき、この場所で、その言葉を耳にするとは予想すらしなかった。
冷たい汗が脇腹に滲むのが分かる。
声すら上げられないほど、耳に流れ込んできたのは乾いた冷たい声だった。



クレイなのか。
しかし一秒も経たず否定した。
彼女は知らない。
ジェイ・スティンの歌は原文だ。
幾度耳にしていたとしてもクレイは、その意味を知るはずがない。

「繭の中で覚めぬ夢を見るか」
震える唇で、続く言葉を返した。
冷え切った指先を胸に抱え込み、振り返る。
うるさいほどの市場のざわめきは、今やセラの耳には届かない。
膝に力が入らないが、鳴り始めている奥歯を噛み締めて立ち上がった。
目の前に、灰色で短髪の女が立っていた。
短く刈り込んだ髪をしているが、白く肌理の細かな肌と鍛えられた体の線は女の形をしている。
セラが見上げなければ目が合わないほど背が高い。
威圧感がむき出しの彼女の空気に押し潰されそうだった。

「白の光を纏うのは」
人形のような顔の真ん中にある薄い唇が開いた。
笑っているのか、威嚇しているのか、瞬きすらしない目の前の女の表情が、セラには全く読めなかった。
ただ下に下がっていく血の流れと意識を必死に保つだけだ。
音も風景も温度も感覚すべてが、セラと女を残して消滅してしまったかのように静まり返っている。

「真の言葉、真の叡智」
掠れながら、声にならない声を紡いだ。
呪縛から解放される呪文のようだ。

「お前は見たいか、世界の裏側を」
セラの答えを聞くことなく、彼女は踵を返し市場の人込みへと溶け込んでいった。
残されたセラは、呆然と立ち尽くし、女の残像すら消えてしまってからようやく我に返った。
同時に体が地面に強く引きつけられる様に、膝から崩れ落ちた。
薬草を売っていた店主が、セラの背中を擦りしきりに声を掛けてくれる。
突然耳の中に押し込まれたように戻った回りの騒々しさに激しい頭痛を覚えた。
片手で米神を押さえながら、目を開いた。
今のは白昼夢か。


心配そうな店主に礼を言い、まだ賑わいを見せる市場を逃げるように足早に去った。
あんな目は一度として見たことがない。
殺意とか、悪意などとは違う。
我を失ったクレイに似たいた気もするが、もっと直接的だ。

「あれは目を見ながら人を殺せる眼」
言葉が漏れて、自分の呟きながら寒さに両腕を抱いた。
死と苦痛に怯える目を真っ直ぐに見ながら、喉を捻り潰せる眼だ。


今できる最善の道は、白昼夢でも現実でもどちらでもいい。


忘れることだ。












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