Ventus  80










クレイ・カーティナーは蒼天を振り仰いだ。
果てない天井に向って吐き出した息は大気に溶けた。

「ずいぶんと遠くに来てしまったものだ」
澄み切った高い空を見ていると、体が大気に溶けてしまう錯覚を見る。

ここは空さえも違う。
空気が軽い気がするのは、乾いているからだ。

海は、初めてだった。
映像で目にしたことはある。
視覚以外に感じる感覚の幅広さを知った。
潮の香りが深かった。
青は思うよりさらに深かった。
照り返す光は白く眩しく、目の奥が痛い。

「船酔いはしなかったのね」
「船で酔うのか。ああ、車と同じか」

閑散としている。
町といえば、クレイはディグダクトルしか知らない。
もともと帝都から出たことがなく、中でも学園の敷地からすらほとんど外に踏み出さない。
小さな行動範囲の中で得られるのは、電子ネットワークを通じて得られる二次元の情報だ。
現実とはかけ離れている。

「変な感じ?」
荷物を足元に落とし、呆然と桟橋に立ち尽くしたクレイをセラが覗き込んだ。
今のクレイの感覚を的確に表現している。

船は島からの荷を積み終わり、岸から離れてしまった。
僅かに残っていた島民も散り散りになった。
完全に二人だけが取り残されている。
次にこの船着場が賑わうのは三日後だ。

「人がいない」
「だから叔母さんはここに引っ越してきたのね」
セラの分の荷物を左手に、自分の荷物を右手に木の桟橋を踏みしめる。
セラが遠慮してクレイの手から荷物を受け取ろうとしたが、クレイは荷物を持ち上げて避けた。

白いコンクリートで固められた港に厚い靴底がかかる。
埠頭の陰に老婆が背を丸めて座っていた。
目尻と目蓋が下がった穏やかそうな目は遠く離れていく船を見つめている。
倉庫の端から子供が三人走りながら流れ出てきた。
セラとクレイと目が合い、立ち止まる。
揃えたようなシャツに膝丈までのズボン。
兄弟かと思った。

倉庫の角から高い少女の声がする。
三人の一人にぶつかるように転がり出た。
男の子の視線の先を見て、背中にしがみ付く。
セラとクレイを好奇に満ちた目が六つ見つめる。
その奥から顔を半分覗かせた少女の黒い目一つに直視される。

やがて四人のうち一人が飽きたように視線を反らし、海沿いを走り出した。
他の三人がそれに続く。
少女の速度が緩む。
肩まで伸びた黒髪が空気を孕んで浮き上がった。
軽やかに片足で回り、クレイとセラを振り返る。
スカートの裾が軽そうに広がった。

「フィアタのいったとおり」
小さな囁くような声で呟いた。
掠れた声とは裏腹に目はしっかりクレイを捕らえている。

何だって?
クレイが一歩踏み出した。
接近に少女が驚いて逃げるかと思ってそこで足を止めたが、彼女はその場を動かない。
右手で肩に擦れる横髪を摘み上げた。

「外からくるって。わたしと同じ」
髪の黒い人が。

「でもどっち?」
「何のことだ」
現地の訛りのせいもあるのか、よくは意味が取れない。
助けを求めてセラを振り返った。
彼女も首を横に振る。
以前来たことがあるといっても、ずいぶん前の話だ。
彼女は大陸の、ファリア育ち。
言葉はディグダクトルに近い。

「フィアタって、誰のこと?」
セラの腰の高さに頭がきている少女の前で屈みこんだ。
これで真っ直ぐに目が合う。

「エレラはもうひとりじゃないよって」
「それまではひとりだったの?」
「ニエナとマニとイエルはいやなこといわないけどね、みんなエレラは島の子じゃないって」
先ほど駆けて行った三人の少年たちだ。
目の前の小さなエレラは彼らとだけ遊んでいる。

「黒い髪が珍しいの?」
「あんまりいないんだって。でもね、フィアタはね」
「エレラ!」
波音に分け入って遠くから少女の名を呼ぶ声が届く。
丸い黒の瞳が愛らしいエレラは振り向いた。

「はやく!」
不鮮明な声と遠くからでもしっかり見える、大きく振った腕がエレラを待っている。
少女はクレイとセラに背を向けて駆け出してしまった。






港からは鉄道が出ていた。
ディグダクトルほど地下や地上や頭上を、ビルを縫うように走り回ってはいない。
小高い丘を走る単線の鉄道が雑木林の中に消えていく。

列車に乗ってもいいが、時刻表を指で追って唸った。
次は二時間後だ。

「歩きましょ。駅は二つか三つだったもの。だいじょうぶよ」
晴れ渡る笑顔でクレイの背を叩いて駅を出た。

「普段鍛えている体力を試す機会だと思って」
体力よりもセラの案内の方が不安だ。
一度しか連れて行ったことのないディグダクトルの深部へ、たった一人で歌姫ジェイ・スティンを訪ねたことは認める。
入り組んだ迷路のような細い不衛生な道を一人で突き進んだ勇気も認めよう。
だがここは国境をも越えたディグダクトルより離れた、セラには久々の土地。
当事者セラには不安の色は微塵も滲んでいない。

緩やかに曲がる沿線沿いに歩き始めた。






町や村というより小さな集落と言っていい。
数件の家が点在していた。
駅もプラットホームに屋根をつけただけという簡素なものだった。

紹介される前にセラの叔母だと分かった。
明るい色の髪。
髪の色素は琥珀のセラよりも薄いが柔らかそうに風に揺れるのはセラに似ていた。
何より笑顔の透明感がそっくりだった。
長い衣の裾を持ち上げながら、家の前に吊るされた揺り椅子から立ち上がる。
何年かぶりに顔を合わせるセラを見紛うことなく呼びかける。

お帰りとでも言うように、両腕を広げて迎え入れてくれた。
初対面の緊張感はまったく感じさせない。

「疲れたでしょう? さあ入りなさい」
網戸を押し開いて二人を招きいれた。

「クレイ・カーティナーです」
「セラの叔母です。アリアナ・エスティエラ」
エスティエラは亡くなった夫の姓だ。
彼女と愛した夫とを繋ぐ大切な絆。
形あるものより、形のないもののほうが強く残るのよ。
アリアナがセラに言ったように、彼女は亡き夫の名と思い出を胸に堅く抱えて生きている。
決して、忘れたわけではない。

「足は痛くない?」
冷えた飲み物を口につけた。
喉が渇いていたことに今気が付く。
あっという間に空になったグラスに、アリアナがハーブティーを注いだ。

「学園の敷地ってとても広いの。ファリアにいたときより足腰が鍛えられたみたい」
それより、とセラが話を切った。

「体調が良くないって、お母さんが言ってたんだけど」
「本当に軽い風邪なのよ。一週間も続かなかったんだけど、どうしてかしら」
アリアナもクレイとセラの向かえの椅子に腰を下ろしてから、ふと顔を上げた。

「ああ、口実ね」
クレイとセラが顔を見合わせた。
何のことだかさっぱり分からない。

「始めはあの子が来るって言ってたのに、急に都合が悪くなったみたいなのよ」
セラの母親は年に一度は姉のアリアナのもとへ顔を出す。
夫と子を置いて一人で海を越えるのだ。

地方のファリアと比べればディグダクトルの方が交通の便もいい。
港湾都市からは高速艇が出ている。
島へ直行便とはいかないが、数日とかからない。

「落ち着いたら近くを歩いてみる? 夕暮れはとてもきれいなの」
アリアナの口から出てくる島の景観は、どれも魅力的だった。









山の後ろに溶けゆく太陽は、熱したガラスのように。

遮るもののない風はうねり、腕や髪を抜ける。

柔らかな光は細部をぼかし、幻想的な影を落とす。

やがて空は絵の具のように、昼の暖色から夜の寒色へと染まる。

葉のざわめきと木のしなり、鳥の声が昼と夜の境で歌う。

季節の夜の始まりは虫の声、真っ直ぐに通る何本もの声は重なり合う。








「都にはいろいろなものがあるけれど、ここにはそこにないものがたくさんある」


見えないものを感じられる。
目を閉じて、耳は音を捉え、音は頭の中で景色を組み立てる。

言葉では説明できない感覚や経験がここには広がっている。
地図の上では粒ほどの小さな島なのに、ディグダクトルより遥かに広大に思える。


「長くいれば、それだけここが好きになる」
アリアナが言った通りだ。
クレイは言葉にしきれない思いで胸が詰まる。




「わからない」
この感覚の意味するところが。
どう表現するものなのかも。

同じ風の中にいるセラが、クレイを穏やかな目で見つめた。

「それでいいんだと思う。言葉は、すべてを包み込めない」












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