Ventus  78










気が重くなる。
仕事だと分かっていても、だ。

人間らしい心。
情。

失わずにいたのは、近くに信念がいたからだ。
カタチを伴う信念を見たのは初めてだった。


人を救うんだ。
そのアームブレードで。

深くどろどろとした澱の中から引き上げてくれる言葉だった。
差し出された手を取らなければこのまま沈んでしまう。

私が、人を救う。 いくつもの命を奪ったこの手が、今度は。


まどろんでいるといろんなことを思い出す。
昔の微かな記憶。
忘れかけていた思い出。
どこかに置き忘れていた感覚。

ふいに甦る瞬間だ。
きっと、まどろむ瞬間っていうのは一番澄んでいるんだ。

汚れていない。
掠れていない。
純粋な。
だから薄く底に溜まっていた記憶をすくい取ることができる。

私の中にあった、私の本意か。
始まりの思い、か。


いつから目を開けていたのか覚えていない。
夢と現実の境はいつだって曖昧だ。
気付けば眼球は寝台の白いシーツに広げた指先を見つめていた。
体はうつ伏せて、決して広いとはいえない部屋がぼやけた背景にある。
時を重ね、経験を経て、皮の厚くなった手だ。
アームブレードの内側に固定されたグローブも同じく育ってきた。
革で作られたグローブは、手に馴染まされ茶色く堅く変色した。
握りこんだ手の感触を思い出すように、乾いたシーツを掴む。
ため息を一つ。
目を覚ますには早すぎた。
しかしもう一度目を閉じても眠れそうにない。

操り人形が背中を引っ張られるように、寝台の上に起き上がった。
首が落ちた横顔に髪が被さる。
しばらく、髪のカーテン越しに部屋を眺めていた。
足を床に落とすと、冷たい床で目が完全に覚めた。






「早いね」
ホールのソファに身を沈めた友人に呼び止められた。

「食事、まだなんだろ」
投げられたボールをキャッチするように、通り過ぎようとした服の端を指に引っ掛けた。

目の前には皿が三枚。
食べかけの朝食が盛ってある。

「いつもながら、見てるだけで食欲が失せそうなほどだな」
「小食じゃないだろ、そっちだってさ」
「後で食べる」
「今日は招集かかってないはずだよね」
指が離れたと同時に食事を再開している。
口は動かしつつ、しっかりと監視の目はこちらに向けられる。
ちょうどいい位置にあったソファの背に腰を預けた。
こちらの背中とあちらの背中が触れそうな距離。
背中を通して互いの体温を感じられそうな狭間。
小声で話をするには絶妙の間だ。

「そう。午前から授業だ」
「早過ぎって言ったよね、さっき」
何しに行くんだこんな時間に。
暗にそう言っている。
単純そうでいて妙に他人の隙を付く鋭さがある。
そうでなければ今頃こんな場所にはいないか。
目の前のこいつも選ばれた人間なんだ。

「髪を切ろうと思って」
「とうとう色気づいたか目覚めたか」
目を開けるだけ開いて、手を止めて振り返った。
ソファの背を乗り越えて、上半身を乗せた。
童顔の顔が視界の端に映る。

「邪魔なだけだ」
「だよね。化粧なんか別次元って感じだもんな」
「否定はしない」
「そうだ。二〇五五号室、空いたってさ」
「唐突だな。文脈って単語知ってるか」
忘れた、と。
一言だけ、返ってきた。

早朝のホールでは二人だけだ。
遠慮することはない。

「エルトワだって」
「しかしあそこはまだ戦火が広がっていない」
「いきなり私たちが投入されるわけない」
「窺見か」
「こちらが諜報活動してたってのはあっちに知られてない」
知れていたら今頃のんびりしてはいられない。
第一、ここにいる人間がそんな失態を起こすはずがない。
それにこちらの情報が相手に知れようものなら、先に上が切るだろう。
見捨てるのではない。
沈黙させる。

「けど相当まずい状況なのは確かだな」
状況はどんどん悪くなる。
人の命が毎日のように散っていく。

食事は再開された。
山と言えるほど盛られた朝食は、それでも最後はきちんと胃袋の中に収まる。
まるで奇術のようだ。

「欝になるな。私のしていることは戦闘機の排出か。戦って散るだけの」
「悲しいこと言うなよ。死なないために教えてるんだろ」
教師が希望を失ってどうすると、励まされた。

「教師になりたくてもなれないやつらがここには一杯いるんだ」
そうだ、沈んでいる暇はない。

「さっさと髪を切ってさっぱりして来い。クレア・バートン」
「そうさせてもらおう。で、そっちはどうするんだ」
「二時間後に召集」
机の脚を、爪先で音が出るほど蹴った。

「エルトワだ」






図書館の中庭にあるベンチで、セラから薦められた本を開いていた。
探して得た本ではない。
授業のレポートに必要な資料があった。
それはすぐに見つかり、今クレイの隣で無造作に三冊積まれいている。

ふと目に付いた分類があった。
国史だ。
引っ張り出して、最初の数ページを捲った。
笑いがこみ上げてくるような話でも、引き込まれてしまいそうな物語でもない。
淡々と歴史が綴られている。
読みふける気はなかったが、一度くらい流し見てもいいかと四冊目を重ねて貸し出しカウンターへ持っていった。
気に入らなければすぐ返せばいいだけのことだ。

中庭に出れば日は高く、雲が眩しすぎない程度に陽光を濾過している。
視界の左手にあった長椅子が空いていた。

座り込んですぐだ。
マレーラとリシアンサスが現れたのは。


「体が動かない?」
「きっと病気よ、それ」
本気で心配そうな顔でクレイを覗き込んだ。
リシアンサスは思いやりがあり優しいが、率直だ。

「体調不良なだけだよ、たぶん」
マレーラがフォローに回った。

突然現れた友人二人は、クレイを真ん中に寄せる。
二人で挟みこんで遠慮なく座った。

「あのさ、そういうときこそ先生に頼ったらどう?」
「その当の本人からぼこぼこにされてるっていうのにか」
リシアンサスの提案も空振りだ。

「ぼこぼこ?」
マレーラが食いついた。

「文字通りだ」
投げ飛ばされる、弾き飛ばされる、振り回される。
終われば体中ががたがたになっている。

「あれで骨が無事だってのがすごい。いや、クレア・バートンの特技だったな」
体力は限界近くまで削られるが、後に引く怪我はない。
力加減が絶妙だ。

「帰る」
マレーラとリシアンサスを椅子に残して立ち上がった。
歩き始めたクレイをリシアンサスの声が追う。

「忘れ物!」
振り返るクレイに本を突き出した。
クレイは黙って受け取り、踵を返して中庭から消えた。

「もしかして、悩んでる?」
「分かりにくいけど、そうみたいね」
クレイの消えた方向をリシアンサスが深刻な目で見つめていた。






「奇跡だとか、偶然だとか、運がいいとか悪いとか。そんなのは信じない」
ため息が熱い。

「だとしたら、おまえは一体何なんだ?」
低く呟いた。
なぜこうまで目の前に現れる?

「俺はカイン・ゲルフだ」
「私がここにいるのが悪いのか。そうか」
「俺は会いたくなかったわけじゃない」
クレイは黙り込んだ。
理不尽な怒りのぶつけ方だと分かっている。
しかし苛立ちは治まらない。

訓練室など無数の生徒が出入りする。
どうして会いたくもない人間に会うのだろう。
クレイは皮肉を奥歯で噛み殺した。

さっさと行ってくれ。
用なんてないから、消えろ。
腹の中で叫んだ。

「嫌なことを腹に抱えてるなら、早めに出した方がいいぞ」
「なんでおまえに?」
「アームブレードの悩みだろ。だったらセラ・エルファトーンよりかは理解できそうだ」
「どうして悩みの種類がおまえに分かる」
「あれだ。犯人は事件の現場に戻るっていうだろ」
「犯人て誰だ」
小さいことは気にしない。
カインは目の前で手を振って笑った。

「何か、きっかけを見つけようとしていた。円環の中にいれば、きっと答えは見つかると思った。そうだろ」
「かもしれないな」
そこまで強く期待はしていない。

「体が反応しない。思い描く速さ、腕の振りにズレが生じる」
自由になれない。
頭の思い描く動きについて行かない右手を見つめ、目の前で握っては広げた。

「体が育ってないからだ。肉体の束縛を感じる」
肯定、否定を見定めるように、カインがクレイに視線を振った。

「ちゃんと食ってるか?」
顔色が優れない。
気が乗らなければ食事は抜いているのだと、カインは見抜いた。
体は育てるものだ。
後は気持ちの問題だ。

体が思うように動かない。
自分の体なのに制御できない。
小さなストレスが毎日降り積もり、息苦しくなる。

「それから、焦り。試合が怖いのか」
「怖い、だと?」
何が怖いというのだ。
場所が変わるだけだ。
訓練室の灰色の箱か、開けた競技会場か。

「俺は緊張するな。だって、一回の勝負だ」
カインは去年、予選にすら出られなかった。

「予選を勝ち上がれば清女の祭でもっと強い相手と戦える」
一年で磨いた腕を全力で試せる。

「あるいは、ここが私の力の限界なのかもな」
諦める時期なのかもしれない。
深入りするのが間違いなんだ。












go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page

















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送