Ventus  59










「セラ」
やめろ。

「何を」
やめてくれ。

「やめ、ろ」
クレイは手を動かせない。

刃を覆っていた防護器具は外れ、足元に転がっていた。
剥き出しで人の血を知らない鋭利な刃は、セラの白い首へ水平に押し当てられていた。

クレイが望んだわけではない。
セラの手で、セラの喉に横に倒されたアームブレードが沿っている。
横にずらせば間違いなくセラの喉を掻き切ってしまう。
手前に引けばセラに握られた反動で更に刃を皮膚へ突き立てることになる。

「クレイにわたしは殺せない」
血の気を失ったクレイが凍りついた目でセラを凝視している。

「お願いだから。セラ」
クレイの懇願も虚しく、セラはアームブレードを離そうとはしなかった。

「わたしはクレイの手でなんて死なないわ」
死が寄り添っているのに、セラの声も表情もひどく穏やかで優しい。
この上なく慈愛と強さに溢れているのに、クレイはセラを恐れていた。
自分が望まぬまま、我を失ったまま、自分の周りにいる大切な何かを壊してしまう。
それが何よりも恐ろしい。

幼いクレイは、自分を失い短刀を握って人を殺めた。
一度ではない。
二度だ。

また何のきっかけでスイッチが入るとも分からない。
そのとき目の前にセラがいたら。
きっと、今のような事態が。

ブレードが痛いくらいに白い蛍光灯の光を受けて、目を焼いた。
刃にはセラの細い顎を輪郭くっきりと映し出す。




「クレイはわたしを殺さない」
クレイの頬に指を沿わせる。
そのセラの指先も冷たかった。

セラは断言した。
だがクレイには確信がない。
傷つけたくないから別れる。
それが一番良い道だと思うのに、セラが納得しない。
ましてこうした強行に及ぶとは想像もしていなかった。
彼女の強い意志に圧倒された。

「クレイはクレイよ。過去も含めて。わたしの知っているクレイはここにいる」
クレイの頬を包むセラの手は、知ることのなかった母親の手の
温もりに似ていた。
セラの指をクレイの涙が熱く伝う。
どうしたらセラのように強くなれるのだろう。
柔らかな外見と印象。
長く軽やかな髪と琥珀の瞳。
優しいセラの中に何もかもを焼き尽くすような熱が秘められているなど知らなかった。

何も気付いていなかった。
セラの気持ちも、痛みも、クレイを思う思いも。
セラの気持ちが染みてくるにつれ、クレイの涙は止まらなかった。
子どものようにこぼれる涙をすくうことも拭うこともしない。
心が溶けていく。
セラの手がクレイの壁を溶かしていく。

「失いたくないだけなんだ」
「それはわたしも同じよ」
側にいたい。
でもいたら傷つけてしまう。

「人間は壊れやすい。絆はとても脆いもの。だからこそ愛しい。だからこそ手の中で大切にするの」
「失う恐怖を抱きながら?」
「ええ。でも生きるってそういうことでしょう?」
何かを失う恐怖、何かを守ろうとする強さ。
みんなただ、手を伸ばして届く小さな世界を必死に守っているだけ。

「わたしはクレイの側にいる。クレイは」
「私もだ」
側にいたい。
ゆっくりと、クレイはアームブレードを自分の胸元に引き戻した。
セラはもう抵抗しない。
クレイの心を掴んだからだ。
もうクレイは逃げたりはしない。
もう、大丈夫。
セラの首から離れた刃はクレイの体の横に下ろされた。

「どこにも行かない」
ここがあるべき場所だと今分かったから。
クレイが守れるものは、今目の前にある。

答えを聞いて、セラは今までにないくらい柔らかに微笑んだ。
ブレードから離した手で、クレイの涙に濡れた両頬を包み込む。

温かさにクレイが目を閉じた。
一番安心な場所だ。
一番温かい場所だった。
そんな場所があることすら知らず、罪に汚れた体を置くことも考えなかった。

そのとき初めて、一人がどれだけ孤独だったのかがよく分かった。
セラが引き止めてくれなければ、寒く寂しい場所で生きていかなければならなかった。
クレイの心の内を読み取ったかのように、セラの腕がクレイを包み込む。
まるで子どもをあやすようにクレイを不安ごと抱きしめた。

「セラが共にいてくれたら、私は私を見失わない」
誰かを守りたいという気持ちがあれば。
セラの肩の上で囁いた。

「わたしが守るわ」
今腕の中にある、幸せ。
今目の前で泣くこの脆い心を。








鳥がさえずっている。
涼季で葉の落ちた、骨ばかりの木の上にこの季節特有の鳥が声を上げている。
暑季のように張りのある力強い声とは違い、細く高い声は空気をより冷やしている気がした。
今では上着をしっかり着込まなければ、外を歩けば体を冷やす。

季節は移り変わっている。
確実に。

「夢は見るの?」
空気に溶ける呟きに、側にいたクレイは言葉を取り逃してしまいそうになった。
その断片を拾い、閉ざしていた目をゆっくりと開いた。




学園の敷地内。
林の中の、他に誰も知らない木々の切り取られた小さな空間。
体を横に倒し、小さな子どものように背中を丸めてクレイはまどろんでいた。
眠りの縁を彷徨っていたとき、セラの淡い声がした。

「夢?」
今も落ちそうになっていた。
穏やかな時間だった。

「怖い夢」
「忘れそうになっていた。今は、ほとんど見ない」
「そう」
「きっと、また発作みたいに湧き上がって来るんだろうな」
「そうね」
完全に切り捨てることはできない。
自分が通ってきた道だから。

「それも、クレイよ」
一つの要因が、一つの結果を導くわけじゃない。
複雑に絡み合った過去の複合系が、今の結果となる。

「今までのどんな小さなことも今のクレイの一部なの」
クレイが見たもの、聞いて、触れて感じたもの。
出会った人、去って行った人。
それらすべてが、クレイを形作っていく。

「忘れたくても、忘れられずに抱えたまま生きていく」
辛いことかもしれないけれど、生きるしかない。

「大丈夫。もう、一人じゃないんでしょう?」
顔を横に向けたまま、クレイは再び目を閉じた。
口元はかすかに微笑んでいる。

「そうだな」
外気は冷たくとも、ここは暖かい。

丸めた背中を地面から持ち上げる。
黒く滑らかな横髪が重力に任せて下に流れる。
薄い色の上着の裾を引きずるようにクレイが体を起こした。
猫のようだ。
締まって美しい肢体は、アームブレードを手にするとバネのようにしなやかに、鋼のように強靭な力を生む。

「言おうと思ってたんだ」
「なにを?」
両手を地につけて体を支えながら、芝生に座り込んでいる。
目はぼんやりと木々を眺めたままだ。
セラに向けているのは白い横顔だけだった。

「会わせようと思って。私の昔の友人に」
「初等部? それとも中等部?」
クレイに親しい友人がいた話は、セラは聞いたことがなかった。

「そのもっと前」
「ああ」
思い当たって、セラが微笑む。
クレイ自身の口から聞いたことがある。

「クレイのお話に出てきてたわね」
「うん、ジェイ・スティン」
「彼女が、鍵だったひと」
クレイの記憶の扉を開けた。

「ジェイも、だ」
彼女だけではない。

「セラも私を動かした」
誰かだけではない。
何かだけではない。
一つじゃない。

「今までの時間と出会った無数の経験の欠片。それが今の私を作り出している」
一つとして無駄なものはない。
失っていいものもない。
欠けてしまったら、クレイは今のクレイではなくなる。

「だから、会わせたいんだ」
「わたしも、会ってみたい」
林の木々の向こうからセラとクレイの二人とは違う話し声がした。
セラが振り返り、腰を浮かせた。

「二人も授業が終わったのね」
「また休みに街に出よう。四人で」
「今度はちゃんと揃って寮に戻るのよ」
一人だけ抜け出すのは禁止。
小さな子どもをしかるように、セラが背中を曲げてクレイを覗き込む。

「わかってる」
マレーラの声が林を抜ける。
セラの名を呼んでいる。
セラはクレイに背中を向けて、木の狭間で見え隠れしているマレーラの影に大きく手を振っていた。












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