Ventus  56










「来ていない? てっきりここだと思ってたのに」
「残念ながら、久しく見ていないわね」


ヒオウ・アルストロメリアは読みかけていた本を膝の上で閉じた。
眩しくないほどに薄明るい部屋の中は、古い紙の独特な匂いに満ちている。
セラはこの匂いが好きだ。
その世界を守っているヒオウも好きだ。
変わり続けていく世界の中で、変わらないものもあってもいいじゃないか。

「何かあったのね」
顔色の優れないセラを慮り、ヒオウは側にあった椅子を机に寄せた。

「わたしにはわからない。クレイに何があったのか」
「何がセラを不安にしているのかしら」
「わたしに、クレイの過去を知る資格があるかと」
「迷って、揺れている」
「未だに、そうかもしれません。わたしがクレイの側にいると決めたのに」
こんな気分は嫌だと振り切ったのに。
クレイを追いかけているうちに、彼女が手の届かない遠くの人のように思える。
まるで別の世界を生きている人のように。

「誰かを理解するのに資格はいらない。痛みは共有できなくても、思いを測ることはできるわ」
クレイとセラは違う人間。
気持ちを感じ合えたり、痛みが重なることはない。

「セラは、クレイが自分の過去を見たというのね」
「クレイは、自分のことをとても恐れていました。欠けてしまった記憶を」
クレイはセラの側から離れようとしている。
セラを見ない。
まるでそこにセラという存在がいないかのように。

「わたしには、クレイが何を思っているのか見えないんです」
「大丈夫。そのためにセラはクレイを探しているのでしょう」
クレイが何を考えているのかを知りたい。

「立ち止まったりしない」
諦めもしない。
捕まえて、話をする。
セラの姿が、ヒオウには見えていた。

「クレイに友人はたくさんできたかもしれないけれど、あの子の側にいられるのは、セラだけだと思うわ」
クレイを理解し、すべてを受け入れられる。
同時に、クレイに自分をぶつけられる強さをセラは持っている。

「言葉は不完全で、思いをそのままに伝えられない。でもセラなら、クレイと真っ直ぐに向き合える」
クレイをこちらに向かせることができる、ただ一人のひと。
物理的な距離だけではなく、精神的にもクレイは常に他人と距離を置いていた。

「一休みしたら、いってらっしゃい。放課後にクレイの行く場所は、あなたなら分かっているでしょう?」
クレイの行きそうな場所を思い描いた。
ひとつひとつ、辿っていこう。






古径を抜けると中央図書館の脇に出た。
人が流れ始める。
ヒオウがいた灰色館が別世界のように思えた。
図書館の階段に背を向け、人が行き来する通りを真っ直ぐ下った。
道の端に置いてある、と表現するに相応しいベンチには暑季ほどには人影がない。
比較的安定した気候のディグダクトルであっても、移り変わる季節により人の動きも変化していく。
明確な四季があるわけではない。
雨季や乾季が入れ替わるわけでもない。
なだらかに入れ替わる季節であっても、その些細な変化がどこか嬉しかった。

クレイと学舎からの帰りに歩いた道を、踏みなおしてみる。
どこも人影の少ない場所だった。
クレイの姿も見えない。

あと思い当たる場所は。


晴れた日、リシアンサスやマレーラと一緒に四人で寝転がっていた林の中の芝生。
少し肌寒くなった中、セラは袖のボタンを閉めながら林の木々を抜けた。
見慣れた木の形を追い、広い林の奥へと進んでいく。
道になっていない林の間などを通る人はいない。
誰にもすれ違わず、誰の目にも触れることなく四人だけの場所へと小走りに向った。
茂った草の間を覗き込む。
歪な円形に切り抜かれた小さなその空間は、空だった。
誰もいない。
自分以外には、何も無い。
何も考えず、ただ林の奥に駆け込んだが途端に孤独を感じた。
耳に痛いほどうるさく、葉の擦れる音が大きく打ち寄せる。
鼓動の音が高鳴り、脈が耳の側で波打つ。

「他に、行きそうなところって」
木々の間を戻りながら、頭の中を探った。
クレイから連想されるものが意外に少ないことに驚いている。
半年以上ずっと側にいて、クレイのことを知ったつもりでいたけれど、実際には何も残っていない。

「クレア・バートン。あの先生。クレイが知ってるのはあの先生くらい」
林を抜けた。
そう長くいたわけではないのに、辺りは影が差している。
日が短くなっていることに、気付いた。

「でも、わたし」
目蓋を落とし、指を唇に押し当てた。

「知らないわ。あの先生が今どこにいるのかなんて」
会ったのも二度きり。
一度目は、クレイと共に軍の施設まで会いに行った。
二度目は、予選の時、アームブレードの試合会場で出会った。

セラの目が突然大きく開いた。






「そうよ」
あまり普段走ることのないセラが、上着の裾をはためかせて駆け出した。
体力に自信があるわけではない。
しかしこのときは自分でも驚くほど長距離を走りぬいた。
息は切れてきたが立ち止まることはなかった。
真っ直ぐ目標を目指す。

十分近く土道の上を走り続けた。
さらに濃くなった木々の影の向こうに、横長のシルエットが浮かぶ。
真上から見たら、きれいな円状の建物。
しかし、セラの視点からでは側面が湾曲している横倒しの長方形にしか見えない。
近づくにつれ、その建造物の巨大さに圧倒される。
中には幾つもの「セル」と呼ばれた部屋を抱えている。
その名の通り細胞壁で区切られ、一つ一つ独立しているような構造だ。
それが、環状の廊下を挟んだ二本の環として連なっている。

中に踏み込めばその構造がよく分かる。
緩やかに一方向に曲がる、気の遠くなるほど長い廊下に突き当たりはない。
入ってしまってから気付いた。
真っ白な、数え切れない部屋の中から一体、どうやっているとも分からないクレイを探したらいいのだろう。
一部屋一部屋、セルのナンバーを確かめて歩いていけばどれほど時間が掛かるか分からない。
アームブレードの試合も終わり、環状の廊下には人影がない。
各セルの中には人が入っているだろうが、完全防音で内の音も外の音も遮断されている。

「案内板」
セラは目線の高さに貼り付けられた板に歩み寄る。
見たところで部屋番号しか書いていない。
あまりのセル数の多さに愕然とするしかない。

「これは」
環状のセルの内部、空洞になっている箇所に扇状の一角があった。
インフォメーションと書かれている。
人がいれば、クレイの場所が分かるかもしれない。






「セルを希望の学生さんね。アームブレードは持っていないようだけど、保管室の案内を先にしましょうか」
「違うんです」
入室した途端、滑らかに話を進め始めた事務員をセラは制止した。

「友人を探しているんです。もしかしたらここかもしれないと」
「分かりました。お手伝いしましょう」
女性事務員は微笑して、あっさりと受けてしまった。

「お友だちのお名前は」
「クレイ・カーティナーです。学生番号は、分からないんですが」
「大丈夫よ。クレイ・カーティナーは」
検索するのに数秒もかからなかった。

「高等部一年、クレイ・カーティナー。いるわ」
「どこに」
「三階ね。三−〇四三号室を使用中」
「行ってみます」
「待って」
入り口の自動扉を潜りかけたセラを、事務員は呼び止めた。
左手はキーボードの上、右手は机の横にある引き出しに掛かっている。

「はい、これ」
引き出しから取り出したカードを、キーボードの右端にあるスリットに滑らせた。
そのカードをセラの目の前にかざす。

「あと、あなたのお名前と学生番号は?」
唐突だったが、セラは制服の胸のポケットに常時入れてある学生証を差し出した。
彼女はそれを受け取ると、同じスリットに学生カードを滑り込ませた。

「よし、いいわ。承認完了」
女性が学生証をセラに手渡した。

「それがなきゃ入れないのよね」
入室前も、入室後も扉はロックされている。
内側からかキーカードしか空かない仕組みだ。

「知らない人が勝手に予約室とか、使用中に邪魔しに来られたら困るでしょう?」
「ありがとうございます」
「お友だち、見つかってよかったわね」
「ええ。どうしても、今日中に話がしたかったの、だから」
「いってらっしゃい。返却は扉の側にある青いボックスに入れてね」






廊下を回りながら、三階の〇四三号室を探した。
館内地図を使ったので、場所は特定できたが、行き着くまでが長い。
廊下は静かだ。
無駄なもの一切が切り取られたようだった。
窓はあるのにすべてが隙間なく閉ざされていて、建物の周囲を取り囲む草木の音も耳に届かない。
通り過ぎていく扉の向こう側では、人が各々の練習をしているのだろうが、まったくの無音だった。
セラの足音だけが虚しく鳴る。

部屋の前まで辿り着いたが、躊躇してしまった。
目の前にあるカードリーダーに貰ったキーカードを通せば、閉ざされた扉は開かれる。
ただ怖いだけだ。

「側にいることさえ許されなくて、拒絶されてしまうのが怖い」
震えるほど怖かった。
深呼吸を一つ。
カードは右手にある。
ゆっくりとスリットに差し込んだ。






扉は開かれる。
白い光が溢れる。
部屋の中は殺風景だ。
廊下や建物全体と同じ。
ただ、中に一番会いたかった人がいた。
クレイ。

見つめながら、カードを握り締めた。
丸みを帯びた角が、力を強めるほど深く手のひらに食い込む。

声帯が麻痺している。
研ぎ澄まされた部屋の空気が体の動きを制圧した。

「クレイ」
搾り出した声はあまりに小さく、クレイに届いたのかも分からない。
ただクレイはアームブレードを手に彼女だけに見える敵を切りつけている。
空気だけを相手にしているはずなのに、剣先は見事な精密さで静止する。

ブレードを捻り繰り出される剣戟は、正確な剣先とは対照的に滑らかに振れる。
その眼は空っぽで、何も見ていない。
扉を開け、入り口で固まっているセラも視界に入っていても存在として認識していない。
ぞっとするほど冷え切っていた。

「何て冷たい」
クレイの眼も、剣も。
忘我というよりも空虚。
完全に外界である他者との接触を絶っている。

セラはいたたまれなくなり、それ以上何もできないまま、クレイを残し口を閉ざしたまま部屋を出た。












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