Ventus  53










灰色の影は、現実と夢と記憶の狭間に。




声の先を追って、重い頭を向けた。

見覚えのある影。
聞き覚えのある声。
微かな消毒液の匂い。
どこかで感じたことのある感覚。

しかし、それがいつ、どこでの感覚なのか思い出せないでいた。




彼は、誰だ。

「クレイ」
彼が寝台の側に屈みこんで、横になったクレイと目線の高さを合わせる。

「きみの記憶の中に、私はまだいるかね」
何かを思考しようと集中すると、あっという間に意識が散ってしまい、まとまらない。
彼が何者か。
形を成さないまま、ただ彼の灰色の髭を眺めていた。

輪郭という輪郭が、ぼやけてしまっている。
この世はすべて曲線で形作られているのだと錯覚しそうだ。




「二度目だね。ここに来るのは」
クレイは、記憶を探る。
曖昧なものだ。
自分の中にあるのに、信じられない。
夢なのか、それとも確かにあった過去なのか。

いや、自分の中にあるからこそ信じられないのかもしれない。
不確かな記憶と彼の言葉が語る現実。


「覚えていないかな」
覚えていない。
いや、一つ一つのパーツ。
窓に風が当たる音や、踏みしめる木の床の音。
彼の髭と同じ灰色の髪と、淡い光に包まれた部屋。
陽の光の匂いと、病室の匂い。
それらは、感覚の中に染み込むようにして痕跡を残していった。

それが、その不確かなものが記憶というのならば。
そして、彼の言う現実と繋がるのならば、それは真実なのだろう。

記憶としては覚えていない。
感覚としては覚えている。

まだ、眠っているのかもしれない。





「きみが初めてここに来たときのこと」
それは。
頭が痛い。
目を閉じて、痛みをやり過ごそうとした。
聞きたくない。

体が、記憶を拒む。

「無理もない。きみは、そのとき」
聞いてはいけない気がする。

「血に塗れ、運ばれてきた」
そうだ。
しかし、クレイのものではなかった。
頭から浴びた大量の血は、彼女が命を奪った暴漢のもの。

「ほとんど意識のないまま。目を覚ましても、夢と現実の間を彷徨っていた」
一度目のこの場所。
二度目に人を殺めたとき。
クレイはクレイを失っていた。
自我は完全に飛散していた。
クレイの殻だけがそこにあった。

だから、覚えていなくても不思議ではない。
彼は言い、穏やかな声で語りかけた。




「もう少し、眠っているといい」
頭痛は波が引きつつある。
だがまだ頭の端に残る微かな痛み。
眠って、楽になりたい。
何もかも、真っ白になりたい。

しかし目の前にある白い光は、血に染まったクレイの手には遠いものだと分かっていた。

彼が窓辺に歩み寄る。
皺のある白い手で、窓を押し開けた。

陽の光の匂いがする風が、クレイのもとに流れ込んできた。
囁く医師の声も暖かい。








すべてが穏やかで、優しい。

この感覚は、いつか、どこかで感じた温もり。

白い光と柔らかい風。

透き通った声。

心地よい音。




セラ。




過去なのに、現実と交じり合う。

湧き上がってくる記憶と共に、刻まれている今の感覚。

この温かいもの、優しい感覚。

ずっと失いたくない。

いとおしくて、いとおしくて。

同時に、壊れる儚さが堪らなく怖かった。

だからこそ、いかに大切かよくわかった。

感覚が重なり、現実と過去が溶け合う。








再び目を開いたとき、やはり白いカーテンが揺れていた。
痛みが体を駆け抜けた。
体を動かそうと、白い寝台の上で肩を振った。
だが鉄のように重く、思うように動かせない。

医師の声が上から降ってくる。
動かないで、そのままでいいと。


「客が来ているんだ」
その言葉通り、微かな衣擦れが聞こえる。
首だけゆっくりと巡らせた。

窓際の机の前に、白い影が見える。
椅子に腰掛けた人の形をしていた。

部屋の中で白く浮かび上がっているのは、日の光を浴びているからだけではない。
白のローブが頭から足先辺りまで覆い隠している。
豊かに使われた布地で性別すら分からない。
年齢も布の影で隠されてしまっている。
人に見せられない素性の人間か、顔をしているのか。
そこまで推測できるほど、寝起きのクレイの頭はうまく回転していなかった。



医師は言う。
いたければ好きなだけいればいい、と。

なぜ、そんなことを言うのだろう。
クレイは不思議に思った。

白い人影は黙ってクレイと医師の二人を見ているだけだった。

私には家がある。
なのに。

「きみにはもう、帰る場所がないというのなら」
でも、家にはヘレンが。

ヘレン。
ヘレン・カーティナー。

同居人。


そう。
そうか。


乾ききった心で、医師から目を反らし天井を眺めた。
乾ききった目は、灰色の四角い線で区切られた天井を映している。



ヘレンは、死んでしまった。


ローブの人影がようやく動いた。
足音すら聞こえない、滑らかな動きでクレイの寝台へと歩み寄り、側にあった椅子に腰掛けた。

長い袖の下にある手が、クレイの手の甲に重なった。
その人の手は冷たく、乾いていた。
それでもヘレンの手とは違う。
生きた人の手だった。

医師もまたクレイの側へ歩いてくると、小さく折りたたまれた紙をクレイに握りこませた。

どこに行こうと、どこに留まろうと、それはきみの自由。
突き放すようでいて、優しく包み込む、医師の言葉だ。


「そこにある場所もまた、きみの先にある道の一つだ」
手の中に握りこまれた、その場所。



学園。






過去を扉の向こうへ隠し、ヘレンを失ったクレイ。

彼女に残された道は、彼女がそのとき歩めた道は、一つだった。

再び家に帰ったクレイは、そこがただの箱になってしまったことを知る。

もはや、彼女にとって意味の成さない場所だった。








最後の選択。

唯一の選択は、クレイをセラへと導いた。




かけがえのない、失いたくない、大切なものへと。

そしてすべてを失った幼いクレイが築いてきた、己を守る防壁。

それを突き崩し光ある世界を見せた、大いなる存在へと。












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