Ventus  52










白い影は始まりの記憶。




体が酷く重く、苦しかった。
何があったのだろう。
どれくらいここにいるのだろう。
今は、いったいいつだろう。
そして、ここはどこなんだ。




「安心していい。ここにきみを傷つけるものは何もない」
天井を眺めていた。
真っ白な天井と、真っ白な壁と、真っ白な電灯。
それに灰色の髪をした男と白い服。

「少し眠って、食事にしよう。落ち着いたら家に送っていくから」
見開いて、正面を見る瞳から堪らなく熱いものが流れて止まらなかった。
真上を向いた顔の目尻から零れ落ち、こめかみに川を作った。
拭うこともできず、理由も分からないまま、流れていた。
それが涙だということにすら気付かなかった。

まどろみと、現実の狭間を何度も行き来した。




「家の場所は分かるね」
何時間だったのか、何日だったのかすらはっきりとは覚えていない。
意識していなかったのかもしれない。
洗濯された衣服を着せられ、寝台に座らせ短い足を垂らしたクレイの正面に医師は椅子を寄せた。
小さな椅子が隠れてしまう大きな体をクレイと向かい合わせにし、両手を細い肩に乗せた。

「このままではきみは壊れてしまう」
医師の声は遠かった。

「体の汚れは落とせても、心に染み付いた血の匂いまでは消せないか」
医師はクレイを飾られた人形のように持ち上げて地面にそっと下ろした。
体の軸を見定めながら、地面に立たせるとゆっくりと手を離した。

「大丈夫、きみは歩ける。こっちを見て」
操りの糸のように、言葉の糸に体が動かされる。

「さあ、帰ろう」
医師が手を伸ばしクレイの手を取った。
そのまま口を開かないクレイを部屋の出口へと導いていく。

「道を教えてくれるね」
ずいぶん長く歩いた。
病み明けの体には負担で、何度も立ち止まった。
それでも医師は黙って側にいてくれた。
放り出すことも、手を離すこともしなかった。
慣れない道だった。
目に馴染んだ場所に出るまで、半ば探りながら歩いた。

家が見えたとき、足は自然に止まっていた。
帰りたいのに、帰れない気がしていた。
帰ってはいけない場所のような気がした。
その資格がないと感じた。

医師はクレイの隣に屈みこみ、彼女の両手を大きな厚い手で包み込んだ。

「思い出さなくてもいいことだってある。さあ、帰りなさい。何も、変わってはいない」
クレイの背中を押した。






心から忘却を願ったのは、いつだったのだろう。
明らかな意識なんてなかった。
ただ、総てを捨ててしまいたい気持ち。
世界なんて要らない。
そう感じた心。


いつか来ると分かっていた、そのとき。
来てほしくなかった。
いや、何も理解していなかった。
過去も、未来も。
現実すら正面から向き合おうとなんてしていなかった。

自分という存在。
個であるクレイ。
それらを否定していた。

それゆえに、今という瞬間も感じられない。
無意識の生だった。








ヘレンがいなくなった日。
雲がかかっていた。
重い朝だった。

目を覚まして、ヘレンの様子を見に寝台まで歩み寄る。
昨日から呼吸が不規則だった。
クレイを見ているようで、何も見ていない濁った瞳が天井を彷徨っていた。

予感というのは、あらかじめ分かるものではない。
後で振り返って、それが予感だったのだと理由付ける。

空気の感じが違った。
静かだった。
クレイのいる空間だけが切り取られたような、静寂だった。

ヘレン。
名を呼んだのかも覚えていない。

毛布から飛び出し、寝台から垂れた手を握った。
もしかしたら、初めてのことだったのかもしれない。
ヘレンの手は、乾いていた。

酷く冷たいだとか、怖いだとかすら感じない。
生命の感覚はない。
ただ、そこにある「物」となっていた。

ヘレンはどこにいってしまったのだろう。




魂の存在を信じない。
神がいるとは思わない。
天国も地獄も知らない。

ただ、生きている者、死んでしまった物。
その重みは、どこに散ってしまったのだろう。

分かることは少なかった。
ヘレンはもう、ここにはいない。
戻ってもこない。

それ以上、クレイにはどうすることもできなかった。




待つ者のない家は、ただの箱だ。
帰る場所を見失ったクレイは、街に踏み出した。
当てなどない。

何もなかった。
何もいらなかった。
心も、それを入れる器も、感覚も総て。
必要を感じなかった。


雨が降り始めた。
一粒一粒の雨の雫が、クレイを溶かしていく。
いっそ真っ白になればいい。
嫌なものすべて、溶かしてしまえばいい。










眼を開けば、新しい世界が広がっていた。
柔らかい朝の光。
体は温かく包まれていた。
安らぎの瞬間だった。
永遠に、このままこの瞬間という点が続いていればいいのに。
終わりのない一本の線であればいいのに。

ここには怖いものは何もなかった。
そこは、太陽の匂いがした。


おはよう。


男の人の声がする。
視点の定まらない揺らいだ視界の中で、眼球だけを動かした。

灰色の髪が見えた。
銀色の丸眼鏡を掛けていた。
髪と同じ灰色の髭。

体は磁石で引かれているかのように、寝台から動かない。
拘束具でも付けられているのかと思うほど重い腕を振り上げた。
死体のように指先まで力が抜けている。
重力に抗うこともできないまま、腕は落ちた。


気分はどうだね。









繋がった記憶の鎖。

パズルのピースが埋まっていく。












go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page

















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送