Ventus
51
黒い水は真実を映し出す。
その時のクレイの姿を見た人間がいたら、夜に彷徨う生ける屍と見紛い、息が止まるだろう。
一点を見つめ、瞬きも忘れて、クレイは闇の隙間から出てきた。
どこに行く当てもなかった。
真っ赤に染まった体のまま、どこにも行けるはずがない。
見知らぬ道を、人を避けて歩いた。
寂れた路地の角を曲がると、小さな水音がしていた。
まるで喉が乾した人間のように、浅い水路に駆け寄る。
闇を含み流れる、石油のように黒い水にクレイは手を浸した。
手に染みた血液は、皺の隙間を埋めて粘性を強くして乾いている。
付着した皮膚を引っ張り、黒く変色を始めていた。
手を水の中で動かして擦っても、気持ちの悪さは拭えない。
乾いても、鉄の臭いは風に流れることはなかった。
浴びた男の血は、クレイの頬を汚し、服に死の臭いを染み付けた。
髪は房になり、堅く固まっている。
洗い落とさなければならない。
両手で水をすくい、頭に振りかけた。
何度も、何度も、何度も、水が滝のように髪を伝って流れてもまだかけ続けた。
水底に手を沈め、鼻先が付きそうなほど水面に顔を寄せた。
黒い水面に白く月のように朧な顔が映る。
手で囲われた水盆の中、緩やかな水の流れで歪む白い虚像の中にクレイは見た。
大きく見開いた眼。
恐怖、不安、孤独、憎悪。
明らかに言葉で表現できる感情はない。
ただ、 あるのは破壊欲。
すべてを消してしまいたい。
終わらせてしまいたい。
その先に期待するものはない。
再生は望まない。
そして、知ってしまった。
「私は、帰れない」
もう自分が戻れない場所にいることを。
なぜなら、その瞳。
そのときは分からなかった、知らなかったその眼。
それは、獣(ビースト)の眼だったから。
生を拒み、死を望む。
世界のすべての消去を願う。
その眼は冷たい人工物のようだった。
どうすれば全部がきれいになるのか、クレイには分からないまま両手を水の中に沈めていた。
爪の間も皺の間も洗い流し、水の尾を引く手を引き上げた。
鼻先に両手を寄せる。
「血の、においがする」
刃が肉を抉った感触は二度と忘れない。
被った血のにおいはクレイの鼻から離れることはない。
きっと、赤に染まりきったこの精神は、白に戻ることはない。
生の重みを知り、死の軽さを知った。
知りたくはなかった。
好奇心でのことではなかった。
知るにはあまりに幼すぎた。
そして世界を知らなすぎた。
不運と一言で終わらせてしまうには、重すぎる罪を背負う。
心が壊れてしまいそうな、過去。
記憶が刻み込まれたままだったらきっと、クレイは崩壊していた。
纏わること総てを受け入れるには、まだ器が育っていなかった。
両手を引き上げて、まだ染みとにおいの残る、水にぬれた体で、水路沿いに歩いた。
水が滴る肩の下まで伸びる髪は、やがて乾いていく。
どこをどう通ったのか、分からないまま鉛の足を動かしていた。
どことも分からないまま、顔を上げればヘレンの家に辿り着いていた。
ヘレン・カーティナー。
病に身を侵される彼女。
クレイ・カーティナー。
罪に心を侵される少女。
過去は塗り替えられなくて、時間は巻き戻すことは適わなくても。
今は、そうあるべき姿のクレイでいなければならない。
彼女ができることはそれだけだった。。
「苦しくて、苦しくて堪らなかった」
罪を犯した。
あれほど人というものが脆いとは、知らなかった。
「私は、人を殺めた。私は」
重い鎖がクレイに絡みつく。
過去の記憶の鎖が、クレイを締め付けていく。
「獣(ビースト)」
理解できない自分を抱えて生きる恐怖。
また、あの時のように誰かを殺めてしまうかもしれない。
きっと、いつか誰かの命を奪う。
血の記憶を塗り潰すように、クレイはジェイ・スティンの元へ通った。
毎日、毎日彼女の歌を聞いた。
透き通って清浄な声、闇に光を当てるような音に触れている間は、醜いクレイを忘れていられた。
怖いものは、目映い光の前から姿を隠していた。
永遠にこの時間は続かない。
夕暮れ、ジェイが歌をやめたとき、クレイはまた孤独を感じる。
ヘレンの体は弱っていく。
クレイは、あの事件があった以前と変わりなく。
いや、変わりがないように過ごしていた。
他に彼女が逃げられる世界などなかった。
クレイの世界の登場人物など、ほんの一握りだった。
主人公であり世界の中心にいる、クレイ・カーティナー。
彼女の同居人で彼女を育てた、ヘレン・カーティナー。
当時、クレイの唯一の友人といえた、ジェイ・スティン。
そして、クレイが生活していく上で、仕事上接点のあるその他人物。
その他である彼らに、クレイは関心を持つことはなかった。
そのような小さな世界に、彼女の逃げ場などない。 人を殺めた罪を負い、自らを追い込んだとしても、背中にあるのは世界を閉塞させる壁だけだ。
彼女は、まだ本当に幼く、子どもだった。
十にも満たない、己という個を形成する前の、子どもだった。
それだけだ。
最後の夜は、終わりの夜は、鈍色の空をゆっくりと静かに闇色に黒く染めていく。
ジェイの声で作られていく世界は、透過ガラスのように煌き透き通っている。
普段の無口で大人しい彼女からは想像もできない、強く美しい声。
外灯が弱々しい光を灯すころ、彼女たちは別れた。
お互いに、その後ずいぶん長くの距離と時間を置くとは想像もしていなかった。
片割れは相手を思いながら過ごす数年、もう片割れは彼女ごと消し去ってしまった。
あれほどずっと側にいて、多くの時を過ごしてきたというのに。
また明日会えると信じていた。
しかし、二人が出会う明日はなかった。
冷たい夜道を、また一人。
一人になると、嫌なことを思い出す。
おぞましい姿を思い出す。
冷ややかに光る眼を思い出す。
闇に溶けてしまえばいい。
濡れたように黒い髪も、漆黒の瞳も消えてしまえばいい。
外灯が途切れ、光の手が届かない闇に、クレイは指先を伸ばした。
目に見えない肌と空気との曖昧な境界が広がる。
怖いものは消えてしまえばいい。
思い出したくない思い出は消してしまいたい。
すべてを、無かったことに。
クレイの願いだった。
道は短い。
建物の狭間を、体を横にして道なき道を進むような、無茶なショートカットは今はしない。
道として作られた道を歩いていた。
相変わらず人の流れにぶつかるまではしばらく歩かなければならなかったが、ジェイのいる広場まで歩きなれた道だった。
石畳の上を、平らな靴底が小さく叩く。
飲み屋が並ぶ歓楽街は通りが二つ向こう。
ネオンと女性の高い笑い声に飾られた華やかな空間は、祭りのようだ。
日が昇ったままの夕暮れ前とは、まるで世界が変わる。
その通りを駆け抜け、人の波を潜って、更に通路を縫うように進めば家に着く。
何が起こったのか。
過失の理由が見当たらない。
気が付けば三人の中年に囲まれていた。
クレイの眼が気に入らない。
クレイの髪が目に付いた。
言いがかりなど、その程度のものだ。
体が触れたわけでもない。
睨み付けようにも、目線が合わない。
ただ、狭い道ですれ違っただけだ。
二発目の拳を腹に受けたときには、意識が朦朧とし道にゴミのように投げ出された。
転がってからも、何度も蹴られた。
業務用のゴミ箱を巻き込んで、床を転がった。
金属のゴミ箱には、空になった瓶が詰まっていた。
それをゴミ箱ごと床に撒き散らす。
それでも迫ってくる、黒い人影。
せり上がる不快感が、クレイを内から湧き上がってきたとき、彼女は思い出した。
締め上げられ軋む、喉。
苦しく暗転する視界の狭間に見えた、短刀。
伸ばした手が、奪った命。
気分が悪かった。
呻き声も上げられず、壁際に横たわるクレイの腕を男の一人が引き上げた。
男の手に取られて、クレイの手首は力なく垂れ下がる。
倒れこんだクレイに気を抜いていた。
ガラス球のように生気の抜けた目を地面に放り投げている体を見て、意識の飛んだただの人形になったと、男たちは思っていた。
クレイが静かになった次の瞬間、彼女は自分の腕を掴んでいる男の腕へ逆に爪を食い込ませ、背にしていた壁に叩きつけた。
男の前傾姿勢と油断が、思わぬ結果を導いた。
電流が流れを換えるような一瞬の出来事だった。
小さな少女の力とは思えない力だ。
一人の大人を壁に叩きつけ、頭を割る。
側に落ちていた、半分に割れたガラス瓶の首を握る。
裂けた額から流れる血で霞む目を押さえながらも、クレイに掴みかかる。
手に握りこんだ、割れたガラス瓶の鋭い刃を、男の腹を目掛けて振った。
服を破り、皮膚を裂く。
男から飛び散る赤い飛沫が、クレイの頬に滴を垂らす。
生温かい血飛沫より更に熱い水が、赤の痕を消していく。
彼女は血を被りながら、泣いていた。
腹を抱えて丸まった男を見ることもなく、クレイは他の二人の男に殴り飛ばされた。
男たちも必死だ。
次に刺されるのは、自分かもしれないのだから。
彼らに殴られ、手にしていたガラス瓶が血と汗とで手から離れる。
痛む箇所も分からないほど殴られ蹴られた。
消えかけた意識の中で、クレイは光を見る。
淡く浮かび上がる、白。
まるで、ジェイ・スティンの歌が聞こえてくるようだった。
動かない体のまま、視界の端に映る白く光る影を、ガラス玉の眼が見つめていた。
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