Ventus  48










指先一本さえ、自由にならなかった。
湿った地面の上に、壊れた陶器の人形のように生気なく腕が投げ出されている。
むき出しの腕は色を失い、人の匂いは消えてしまっていた。

建物に遮られ、空気は淀み、光は遠い。




持ち上がらない手のひらの向こうに、薄明かりを見た。
物の形を溶かして奪っていく闇の中で、仄かに揺れる光を見た。

手を伸ばして触れる気力も体力もなかった。
心も体もぼろぼろで、時間の流れも感じられない。
ただ寒く、ただ痛い。

きっとこうして個としての意識も、個体としての身体の輪郭も闇に奪われていくのだ。
静かに、誰の目にも触れず、誰の記憶になることもなく。


光は揺れる。
焦点の定まらなくなった目は、目蓋が開いただけのガラス球だ。
白い光は少しずつ大きくなってくる。

感覚という感覚は鈍っていても、足の裏が砂を磨り潰す音と体重移動による振動は堅い地面を伝わってきた。






神はいない。

しかし、もし信じていたとしたら。
次第に大きくなる白の影と、心音のように穏やかで規則正しく刻まれる足音を前にして、何を思うだろう。

祈り。

手は組み合わせられず、膝を立てることすらできなくても、心を澄ませて神を感じ取ろうと意識の手を伸ばすのだろうか。
救済を求め、安らぎを掴もうと。

それとも、死を。

何も無くなるのが怖い。
真っ白になるのが怖い。
今感じている、個という存在が消えてしまう、ゼロになってしまうのが怖い。
それが、死。

苦しみも、悲しみも、喜びも、幸せも、すべてが一つにまとまっているのが、生。




だがそこに横たわる死に瀕した幼い肉体は、その意味も価値も知らない。
裸足の足は傷だらけで、白く湿った身体は人知れず朽ちていくのを待つばかりだった。

白の影は耳に心地の良く、この場所に似つかわしくない微かに乾いた衣擦れの音を立てて、目の前に立ち塞がった。

頬に張り付く黒髪を払う力も残っていない、満身創痍の壊れた人形を見下ろしていた。
小さな身体は視線を上へ伸ばすこともできないまま、動きを止めた靴を眺めていた。
上質の糸で織られて作られただろう白布の靴は、埃と土と汚れた水を跳ね上げ汚れてしまっていた。




裁かれるのか。
いけないことをしたからだ。


痩せた小さい体の足元には、動かなくなった肉の塊が地面に丸まって転がっている。
地面の冷たさが気持ち悪い。
湿った身体も気持ち悪い。

見下ろされる視線で、横向きに転がった体の側面が焼かれるようだった。
薄く開いた唇の間から、わずかに空気が出入りする。
胸を押し上げる力強さはなく、思い出したように息を肺に入れては、風船が萎むように空気を押し出した。


目の前に立ちはだかった、白い影が何かの言葉を口にする。
緩やかに遠のく意識の中で、耳に入った声は言葉としての形を留めぬまま溶けて消えた。

意識は途切れ途切れでも、わずかに生き残っていた感覚器官は小さく反応する。
声に、指先が振れた。



      生きたいか



生も死もわからないというのに?



      時間をやろう



袖の長い腕が伸び、襟元を掴まれた。
身体が仰向けになった。
長く純白のローブで頭から足まで覆われている。
深い混沌とした闇の中で、ただ一つ白く濃く浮かび上がっている。

首から地面の堅く湿った感触から開放され、身体が浮かび上がる。
ローブの人が近くなる。

ローブの縁の奥。
朧げながらではあるが、強く穏やかで、透き通った瞳を見た気がした。

重力から解き放たれたように軽くなった身体の感覚を噛み締めながら、意識は完全に沈黙した。






遡っていく。
このまま過去へ戻っていって、辿り着く先には。






甘く透き通った感覚。
匂いではない。

身体が痺れるような、肌が沸き立つような感覚。
歌だ。

人の声がする。
高く細く、芯の通った張りのある声。
誰かが歌っている。

壊れたクレーンの下、小さな足を揺らして穏やかなリズムを刻みながら。
長く緩やかに波打つ深い色の髪の小さな少女。


彼女は、ジェイ・スティン。
幼いジェイ。
コンクリートで造られ、放置された基礎の上に腰を下ろし、甘い歌を歌う。

宙を掴むように伸ばされた手は白く、丸みを帯びている。






「泣いているの? クレイ」
少し低くなったジェイの声がする。


「思い出したんだ。なぜ私が、きみを忘れてしまっていたのか」
震える指先を顔に押し付けたまま、声を押し殺している。


「忘れたままでいたかったんだ。だから、きみごとすべて記憶の中に押し込めた」
幾重にも幾重にも鍵をかけ、堅く扉を閉ざした。


彼女は安らぎだった。
彼女の声に救われていた。
聞き入っていると、心が軽くなった気がした。

彼女の歌が好きだったのだと思う。

少しでも嫌なことから離れたかったから、いつものようにジェイに会っていた。
ジェイは何も聞かなかった。
クレイは何も話さなかった。

でも、だめだった。

「だめだったんだ」
ジェイと一緒にいれば、その記憶は、嫌なことからひと時離れられても、切り離すことはできなかったから。

すべてを捨てるには、ジェイも捨てなくてはならなかった。






ジェイの歌声が溶けて消える。

ジェイの手も足も、溶けて消えた。



また、闇がやってくる。

また、時間が逆巻いていく。

きれいな時間も、汚れてしまった時間も。

まとめて封じ込めたものが、目を覚ましていく。








小さな少女が一人、破れて汚れた服のまま壁際に立ち尽くしていた。
服の裾から真っ直ぐ伸びた両足を地面につき立て、両腕は力なく垂らしている。

風も抜けない路地裏。
彼女を取り巻く闇は濃い。

漆黒で不揃いの髪は彼女の頬の輪郭をぼかし、夜闇に同化している。


彼女は一人だった。




私は、一人だった。




「違う。私は一人じゃない」




消えてしまった。

全部、全部。

嫌なものは、全部。




私が消したから。

すべて、消してしまったから。


周りを見て。

何があった?

何を見ていた?


「見たくはなかったもの」


手が重かった。

とてもとても重かった。

うなだれるように下がった手に目を落とした。
見慣れないものを握っていた。

いらない。

こんなものいらない。




振り落とそうとしても、握りこまれたまま離れなかった。
自分の手のはずなのに、指の感覚が無い。

この気持ちの悪いものを早く放り投げたいのに、腕も動かない。
このまま、叫んで地面に声を叩きつけたかった。

でもできない。

喉は引きつって、呼吸もまともにできない。

それに地面は。


「濡れていたから」




雨?

違う。

川?

いいえ。

じゃあ、何?




黒い水。

真っ黒な水。




手には何を握っているの?


尖っていた。
黒く濡れてはいたけれど、鈍く光っていた。




そして、黒い水。




「私が」




周りを見て。

何がある?




地面に転がるものは何?

あれは動かない。

もう動かない。

私が止めてしまったから。

もう怖いものはなくなった。

私が消してしまったから。

なのにどうして?

どうしてこんなに寒い?

「いけないことをしたんだ」

いけないことだったから。

これは、罪の痛み。








「私が殺したんだ」












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