Ventus  47










白い光が丸まったクレイの背中を照らす。
肩は小刻みに震えていた。

クレイは口を閉ざして何も話さない。



幼い頃、いつもの場所で。
ジェイの拙い話も、一人の観客と自分のためだけの歌を静かに隣で聴いてくれた。
興味がなかったら、隣に座って日が暮れるまで側にいる必要などなかったはずだ。
何も言わず、ただ隣にいるだけ。

だから、今度は私の番。
ジェイは黙ったまま、クレイの隣に腰を下ろしていた。




手の下の温かい感触を握り締める。
毛の短い、合成繊維のソファだ。
光沢が抑えられ、手を包む柔らかな繊維。
質の良いものだと、クレイにも分かった。
体すら優しく包み込むソファだが、その中でクレイの体は硬直していた。

体中の血が泡立つ感じだった。
胸が痛い。
肺は苦しい。
空気の中にいるのに、上手く息が吸えなかった。

左手はソファの上で、ソファの色に溶けそうなほど白く血の気を失っている。
クレイは右手で自分の顔を掴んで、ジェイからは表情がはっきりとは見えない。


「頭が、痛い」
クレイのこめかみに、薄っすらと汗が浮かぶ。
手のひらの端から覗く顔は、死人のように青白かった。

「ジェイ。私たちが最後に会ったのはいつだ」
まるで恐ろしいものを見るかのような瞳だ。
強張った頬と見開いた目。

「はっきりとは覚えていないわ」
「どこで、私たちは別れたんだ」
「本当に、何もかも忘れてしまったのね」
記憶の奥に奥に押し込めるほどのことがあったのだろう。
育ってきた場所も、友人だったジェイのことも忘れなければならないことが。
大きな変化はきっと、その日を境に。
そして、クレイは消えた。

「月が、浮かんでいた気がする」
クレイは目を閉じた。

「雲が、灰色の雲が掛かっていた」
固まった両手の指と指とを硬く結び、震えを押し殺そうとしていた。

クレイがジェイのところにやって来た。
それだけでもまるで夢を見ているようだった。
幼い頃の友人を忘れたことはない。
しかし、ある日突然まるでそれまでそこにいなかったかのように、消えてしまった。
また突如戻ってきた事実を、夢を見ているように眺めてしまっても不思議ではない。
しかも、彼女は過去を見失っている。




「ちょうど、今頃の季節だったわ。夜になると、少し肌寒くなる。そして、夜が来るのが早くなる」
ジェイは、クレイと出会って別れた最後の夜を忘れてはいなかった。

「前日も、その前の日も、クレイはいつもの場所に来ていた」
壊れたクレーンの広場。
冷たいコンクリートで固められた一角。

「覚えてたね、ちゃんと。そう、月が浮いてた。藍色の空だった」
言葉にした空を見上げるように、ジェイは天井にぶら下がっている電灯へ顔を上げた。
深く息を吸い込むと、最後の日の光景が鮮やかに蘇る。
何年も前の、幼い頃の記憶だというのに、クレイは忘れジェイは忘れられない。

「白っぽい雲が、時々月の光を遮っていた。満月までまだ時間がある。半月より少し膨らんだ月だったわ」
ジェイは崩れかけた石段の上から、足を下ろしていた。
大人が二人か三人分の高さのある段だった。
クレーンがいったい何の建物を造ろうとしたのか知らない。
基礎のコンクリートと太いワイヤーを垂れた小振りなクレーンだけが残されてた。
その機械も、当時のジェイにとっては大きく、容易に触れられない物だった。
過去誰かを乗せていただろう座席に座ったこともない。
風雨に晒され、指でシートをなぞることもできないほど劣化して裂けていた。

その広場を守っている主みたいなものだ。
一番高い場所で、広場を見回している。
奥まった場所だったので、寄り付く子どもはいない。
ジェイとクレイだけだ。

「ずっと待ってたわ。いつもみたいに」
必ず来ると信じて。

「ちゃんと、クレイは来た」
覚えてるわよね。
クレイの目に問いかけた。
答えは、迷い。
擦り切れた記憶しかなかった。

「顔色は良くなかったわ。ちょうど、今みたいに」
今にも倒れそうな血の抜けた顔をしていた。
もとより表情が豊かな方ではない。
笑うことが奇跡だと思えるくらい、顔の筋肉は固まっていた。
その顔が、その日は氷で固められたように青白く引きつっていた。

「そのときは、どうしてそんなに怖い顔をしているのか分からなかった」
一緒に住んでいると聞いていた、ヘレン・カーティナーに叱られたのか。
ジェイが気に障ることを言ったのか。
しかしジェイの行為が原因ならば、ここにはこないはずだ。

「でも、今なら分かる。あれは不機嫌でも怒っていたのでもない」
不安げに視点が定まらず揺れていた。
口はますます縫いつけられたように閉ざされていた。
息を詰めて、周囲を絶えず警戒しているのは無意識だった。

「恐怖」










黒い扉だ。

炭のように黒い、扉だ。

闇の色だ。

夜のスラム、建物の影の色だ。

電灯の光も届かない、限りない黒。

漆黒。



クレイの髪の色だった。

大きく開いた裂け目の中に浮かぶ、黒い月の色でもある。

水面に映ったように、揺れている。

瞳が映す先に、あの扉が。

夜闇。


決して開かれることのない、扉が薄く口を開いている。

錠前は外され、ただの金具となり扉の端に引っかかっていた。

闇に溶ける扉の裂け目から、手が伸びている。

まだ伸びきっていない指と丸みを帯びた幼い手だ。

異様なほど白い。

生命の流れを感じない。

手だけが扉の向こうからこちらに伸びて、闇の中白く浮かび上がっている。


分かっている。

溢れ出した記憶は止められない。








「私はあの時、ジェイに」
縋ったのだ。
すべてを封じ込めるために。
忘れ去るために。
忘れられると思った。
忘れてしまいたいと思った。

「歌を歌って欲しいと言ったな」
洗い流してしまいたかった。
ジェイの歌は心地良いと感じていたから。

「覚えているか。その時の歌を」






白い手がクレイを招く。

逃げようにも、向き合おうにも、出口も帰る道もない。

逃げる場所なんて、最初からなかった。






「覚えているなら、歌ってくれ」
「いいの?」
辛そうなクレイを隣で見ていて、ジェイの胸が痛む。

「私が戻ってきたのは、過去は消せないと分かったからだ」
傷は、膿み続ける。
胸は、痛み続ける。

「だとしたら、すべて飲み込むしかない」
あの時受け止められなかったものも、今なら受け止められるかもしれない。

セラ。

帰る場所はあるから。






「あの時、あの場所に戻ろう」

ジェイが唇を噛み締めた。
喉が強張るなど、久しぶりだった。
初めてステージに立ったときでも、こんなに緊張はしなかった。
声を出すのが怖かった。

最後の日の感覚が、ジェイをも飲み込んでいく。
深紅の唇が重々しく開かれていった。

細くも美しい清音が紡がれる。






クレイは闇の裂創から飛び出している青白い手を掴んだ。

握りこんだ手は恐ろしく冷たく、クレイの体温が奪われていった。

あちらの手とこちらの手の体温が同化していく。

繋がった間から、生温かいもう一つの温度が流れ出した。

真っ黒な水が二つの重なった手のひらから漏れ、手首を這い、腕まで伝う。

ただただ、不快だった。

湧いて流れる黒い水は微かに粘性を帯び、下に向かい滴を落とす。


黒い水。

同じ黒の地面に落ちては波紋を残す。

クレイは繋がった腕を引っ張った。

勢いで扉が完全に開かれる。

黒い水が繋ぐ先にいたのは、不揃いな髪が肩まで届く少女だった。

固く結ばれた手を振り払おうとしない。

少女の瞳が真っ直ぐにこちらを見上げる。

瞳は闇の色。

髪も、漆黒だった。


夢の中に出てきた少女。

ガラスと共に砕けたはずの少女。

何度も語りかけ、何度もクレイを苦しめた少女。


しかし、彼女は。

少女は。

クレイの過去。

「これは、私」


幼いクレイは瞬きすらせず、クレイを見つめている。

二人の間から、留まることのない水の流れが長い滴を垂れる。

異質な匂いを感じ、クレイは視線を二人の手に落とした。

黒かった水は今、赤黒く鈍く微かな光の中で流れている。

鉄の匂いがする。

押さえつけてきた一番嫌なものが、匂いに導かれ、目覚めていく。






「         」



声にならない叫びが、クレイの喉から溢れた。












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