Ventus  46










水面を抜ける風のようだ。
空気を荒立てることなく、滑らかに表面へ波紋の跡を残していく。

温かみを帯びた声は、空気に溶けるように店の隅まで行き渡り、灯りで淡い琥珀色に染まった壁に吸い込まれていった。
糸を真っ直ぐに張られたように、乱れることのない声音。

体深くにある軸を、小さな舞台の上に立つ黒の歌姫が静かに動かす。
両肩を掴んで揺さぶる激しさではない、内から解していく浅い波の感応だった。
満足のため息をついたときのような、体の深い部分で感じる静かな感動だ。


人の声は、歌という音調の波に乗ることで、人の心に届く音が作り出せる。
クレイはその事実に、驚いていた。
また、自分が音楽に対して何らかの感心を抱いている、事実についても。

黒のロングドレスに包まれた痩身から、琴線に触れる音を紡ぎ出す。
初めて聞いたはずなのに、この温かさは何だろう。

クレイは薄く目を開いた。






セピアの小さな舞台で、歌姫が細い両腕を開いている。
降り注ぐ光を受け止めようとでもしているかのようだ。

人を酔わせる声。
同時に、自分も自我の境界を曖昧にしている。
歌の神というものがあるとするならば、それに同化しているかのようだった。

ただ美しい声というだけではない。
人の心を揺さぶるにはそれだけでは足りない。


聞き入っていたので気付かなかった。
歌手の唇から流れ出る歌詞は、耳に馴染みの薄いものだった。
曲が半ばまで過ぎたところで、思い出した。
他国の言葉かと思っていたが、違う。
これは、古語だ。
授業で掠る程度にしかまだ学んでいないので、聞き流すところだった。

他国を飲み込み、文法の複雑なディグダ本来の古語はほぼ絶滅してしまった。
ごく古い書物にのみ、その痕跡がある程度だ。
国文学者でも、容易に読み解ける者は限られている。
国文学を専攻していないクレイには、文化的価値があまり理解できてはいないが、その音は美しいと感じた。


難解な古語を、いったいどこから掘り出してきたのか、スラムの酒場、簡素な舞台の上で若い歌手が歌にしている。
彼女は若い。
少女というには青臭さを感じさせないが、女性と言い切るには艶やかさが薄い。
きめ細やかな肌がヴェールの下から覗くが、女としての甘い匂いはない。
年齢は読めなかった。
クレイより年上であるのは確かだが。

歌声に意識を戻すと、深みのある歌声は静かにフェードアウトしていた。




閉じられていく唇に、目が釘付けになった。
体の血が熱くなる。

何か大切なものを忘れてきてしまった気がしてならない。
割れた爪の先が、毛布の繊維を一本引っ掛けたように。
か細く、すぐに千切れそうな記憶の糸を手繰り寄せる。
何だ、この感じは。

黒い歌姫が観客に向って微笑み、観客は拍手で以って賞賛する。
クレイは彼女の仕草の一つ一つを追う。

拍手が鳴り終わると、舞台の上の彼女は右手の方へ視線を流した。
それを合図に二曲目の前奏が流れ出す。


音楽にほとんど触れたことのないクレイだったが、彼女が素晴らしい歌声の持ち主だということは理解できた。
観客を引き込む表現力は、歌の作り手が伝えたかった情動を最大限に引き出している。
現に今でも、店内にる観客すべてが舞台の二人に集中している。
囁きあう言葉すらない。

四曲目も終わり、舞台の中央で歌手が深く下げた頭を持ち上げ、周りを見回した。
その目が、一点を捉える。
瞬きを繰り返し、店の角を震えた目で焦点を合わせようと固定される。
数秒間硬直していた後、呪文が溶けたかのように息を取り戻した。
舞台を後にし、控え室の扉に消えた。
舞台に残された伴奏者も、愛器を抱えてゆっくりと立ち上がった。
二人の去った舞台は灯りが消え、店内にはざわめきが戻る。


クレイは完全に氷の解けたグラスで、乾いた唇を湿らせた。
指先が震えている。




怖いんだな。
忘れてしまったものを取り戻すのが。
消えてしまった自分が戻ったとき、自分が自分でいられる保証はないから。
隠れているものが、隠さなくてはいけないほど醜悪な記憶だということは分かっている。
だから、全部のピースが戻って完成した自分が、きれいな自分でいられるとは思わない。
そうしたら、セラは。
きっと、セラは幻滅するだろう。
離れていってしまうかもしれない。

「でも、このまま自分が分からないまま、他人を拒絶して生きてはいきたくないんだ」
取り戻すのが怖いから、自分が自分でいられない不安を抱えたまま。
夜の夢に怯えるのはもう止めにしたい。

「もうどうすればいいのか分からないんだ」
セラに触れて開き始めた記憶の扉。
外的刺激を一切遮断していたのは、他人が嫌いなわけではない。
頭が無意識に、封じ込めた記憶を引き出そうとする他人との接触を拒んでいたせいだ。
でも、それももう遅い。
セラという他者を受け入れることで、扉の鍵は解かれた。
記憶が徐々に漏れ出している。

「このまま中途半端ではいられないんだ」
両手でグラスを握り締めた。
複雑なのはもう嫌だ。
わずらわしさから開放されたかった。
さっぱりしたかった。

もう終わりにしたかった。








「あなた、クレイ?」
頭の上から声が降りてきた。
恐る恐る、確かめるように、柔らかい声がここの誰も知らないはずのクレイの名を呼ぶ。

「あの、ごめんなさい。私」
細い声の主は、クレイの隣にあった椅子を細い腕で引いた。
クレイの視界に、濃い色の髪が被った。
後頭部で一つに纏められた長い髪の下に続く、白い首筋。
髪と同じ色をした瞳が、クレイを真っ直ぐに見詰めた。

「私は、クレイだ。でも」
彼女のことを知らない。
知っているはずがない。
来たこともない酒場の、会ったこともない黒いドレスの歌姫など。

「信じられないわ。まさか、こんな場所で」
口調は穏やかだったが、見開かれた目は驚きの色をしている。
赤い唇は繊細な指先で覆われた。

「ジェイ」
ジェイ?
何のことか、クレイには思い当たらない。

「ジェイよ、私。忘れてしまったの? あんなに一緒にいたのに」
「さあ」
「ジェイ・スティン。子どもの頃ずっと。ずっと一緒にいたじゃない」
忘れてしまえるはずがないとでも言うように、ジェイと名乗る歌姫はクレイに顔を寄せた。

「ジェイ・スティン?」
「覚えていないの? あの、壊れた機械の広場。それに私の歌」




錆びたクレーン。
寂れて、大人たちに忘れ去られた空き地だった。
影がかかって見えない。
でも廃墟の石段の上に座って足を揺らしている彼女の髪は。

今目の前にいる彼女が、あの少女。
目尻の下がった、柔らかい瞳。




「ジェイ、歌っていた。歌が好きで、それで」
「思い出してくれた?」

壊れたクレーンのある広場は、二人の遊び場だった。
クレイは昼間、母親代わりだったヘレン・カーティナーの仕事を手伝い、夕方近くになると、その広場に来た。
特に何をして遊んだわけではない。
その場所で、ジェイは歌を歌っていた。




ジェイの家は壁の薄いアパートメントだった。
部屋の中では歌えない代わりに、広場で歌っていた。
話すのは嫌いではないが、人見知りが激しく内気な性格だったジェイの友だちはクレイだけと言えた。
そのクレイはジェイが歌っている隣で座り、黙って聞いているだけだった。
クレイがスラムを去る少し前までずっと続いていた。

「ある日いきなりいなくなって。私、何度も広場に行ったのよ。でも戻ってこなかった。もう会えないのかと思った」
ほぼ毎日会っていた、ジェイ・スティン。
彼女と出会ったきっかけは、偶然だった。
いや、幼いクレイが動ける範囲など知れている。
いずれは、出会うことになったのだろう。

会うべくして会った。
偶然でも必然でもどちらでもいい。




「でも、よかった。生きててよかった。また会えて、嬉しかった」
先ほどの大人びた歌姫とは違っていた。
懐かしい。
考えたことのない気持ちだが、昔に見た笑顔を見ると、胸がざわつく。
不快感ではない、気持ち。

「どうしてここに? ずっとこのあたりにいたの?」
「学園に、入ったんだ」
「そっか。私は、ずっと歌ってた。私、それしかなかったから」

歌。

歌。

歌。


最後に彼女と会ったのはいつだったか。




「いろいろと聞きたい。心配、してたの」
俯いたまま、胸の苦しさを覚えながら、ジェイ・スティンを見た。
両腕を机につき、覗き込むようにクレイを見つめている。

「すぐに分かったわ。クレイの髪、目、空気。話してみても思ったけど、変わっていないもの」
「変わって、ない」
「ええ、全然。昔のまま。あの頃のまま」
一緒に過ごした時間のまま。


「だとしたら私は、全部ここに置いてきてしまったんだな。過去も、時間も全部」

苦しい。

痛い。

どうしてだろう。

気分が悪い。





「顔色がすごく悪いわ。お酒を飲んだの?」
ジェイは卓上にわずかに残った飲み物に、鼻を寄せた。
アルコールの匂いはグラスからもクレイからもしない。

「立てる? 奥で休みましょう」
クレイの脇に手を入れると、立ち上がらせた。
何とか歩けそうだったので、腕を抱え込むようにして控え室の扉を目指す。

クレイを先に入り口に通し、後ろ手で木戸を閉めるとクレイの側に駆け寄った。

「顔が真っ青」
ジェイは邪魔なストールを鏡台に放り投げ、立っているのが辛そうなクレイをソファへと促した。

「風邪かしら。ええっと、薬は」
クレイに背を向けたジェイの手首を掴んで留まらせた。

「風邪じゃない」
「大丈夫って顔でもないわ」
酔っ払ったように力なくソファに背を預けるクレイの隣に、ジェイが腰を下ろした。



日が暮れるまで、ジェイはクレイの隣で歌ったり、ゆっくりとした口調で話したりしていた。
あまり話すのが上手ではなかったジェイの話を、静かにクレイは聞いているだけ。
それでジェイは満足していた。


幼い頃の思い出。
歌う度にクレイのことが頭を過ぎる。
クレイが消えて、それなりにいろいろなことがあった。
いろいろな人に会った。
それでもクレイのこと、あの時の時間を忘れたりはしなかった。

口数が驚くほど少ないクレイは、嫌がる風でもなく、ただ黙って隣にいた。
歌の感想を述べることは一度もなかった。

「いえ、あったわ。一度。たった一度だけ。それっきり」
それだけは、ジェイも忘れていた。






風化したコンクリートの上で、ジェイは座っていた。
両手を腰の後ろについて、雲を眺めながら歌っていた。

同じ形の雲。
同じ形のまま流れていく。
しかしよく見たら、溶けていくように少しずつ形状を変えて動いていた。
よく観察しなければ分からない、小さな変化が面白くて、歌いながら空を眺めていた。
夕方の空が好きだった。
日が傾き、少しずつ変わっていく色が好きだった。
誰を気にすることなく歌っていられる時間が好きだった。
同じ年の子どもが連れ立って走っていく姿を羨ましく眺めることもなく、寂しさを忘れられる時間が好きだった。

でも空から地上に戻ると、途端寂しさが戻ってきてしまう。
その瞬間は、嫌いだった。


まだ日は高く、建物に区切られた空の色もまだ変わらない水色をしていたとき。
砂を踏み砕く音がして、小さなジェイは大人にはまだまだ遠い丸みを帯びた肩を揺らして驚いた。


空から目を離し、小さな顎を引いて石段の下を見下ろした。
ジェイの膝の向こうに、黒い頭が見える。

大きくて、射掛けるような強い目が、黙ってジェイを見つめていた。
髪と同じ、黒い闇の色をしていた。

ジェイの髪も、暗い黒に近い色をしていたが、目の前にいる同じ背格好の少女ほど漆黒の髪と目は見たことがなかった。
見慣れないものを怖いと感じる以前に、自分の歌を聞かれたのが少し恥ずかしかった。


「続けて」
石段の下にいる少女が笑いもせずに、ジェイに言った。
声が出なかった。
返す言葉が出てこなかった。

いつもそうだ。
誰かを前にすると、頭では言おうと思っている言葉が喉で詰まってしまう。

「もう一度」
短いながらも、目の前の少女が言おうとしていることは分かった。
もう一度、歌って欲しいと言っているのだろう。


嬉しかった。
緊張で泣き出しそうだった。

それでも震える喉を押さえつけて、歌った。


「初めてのコンサート」
観客はたった一人。
それでもよかった。

クレイはその次の日も、次の日も、毎日来るようになった。
初めて出会った日は仕事が早めに終わり、ヘレンに先に帰るようにと言われた。
少し回り道をしようと思ったのが、ジェイ・スティンと出会う分岐点だった。




もう一度。

それがクレイの口にしたたった一つの感想だった。

クレイと共有した時間。
ジェイだって人間だ。
クレイと過ごした瞬間の連続すべてを覚えているわけではない。

しかし、クレイのようにジェイの存在そのものを消してしまうようなことはなかった。
突然いなくなったクレイ。
そして再び戻ってきたクレイ。
けれど、変わらないクレイ。

「ほかに、何か思い出したことはある?」












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