Ventus
45
照明の柔らかい室内は、柔らかなざわめきが浸透していた。
疎らに配置された木の丸テーブルを客が大人しく囲んでいる。
黒の前掛を腰に巻きつけているウェイターが、片手で器用にグラスを運んでいる。
学園に入ってからずっと、園内に引き篭もっていたクレイだ。
こういう場所も当然、初めてだった。
いきなり殴られるように背中を押され、前によろめいた。
不意打ちでバランスを崩して転倒するところだったが、咄嗟に右足を踏み出して軸を立て直した。
顔を引き上げると、斜め上から髭面の男が鈍い目で睨み下ろしている。
長い眉毛の屋根が掛かり、顔に半ば埋もれた細い目が一瞬火花を飛ばしたが、すぐに興味なさ気に反らされた。
クレイも内心構えた拳を下ろす。
確かに、戸口に突っ立っていたクレイが悪い。
改めて室内を見回した。
叫べば十分端から端まで声が届く。
戸口も小さければ、中も小さいが窮屈さを感じない。
正面には横に長いステージが左右の壁を繋いでいる。
緞帳もなにもない。
一段高く床板を積んだだけの、背の低い簡素な舞台だった。
数人がラインダンスを軽く踊れる広さなどなく、せいぜい三人が乗れればいいところといった狭さだ。
だが、これはこれでいい。
納得させる、穏やかな秩序が部屋に満ちていた。
店の広さと、ステージを照らす淡いライトがそうさせる。
客は順調に席を埋めていく。
擦り切れかけた服の男もいれば、長いスカートの裾を揺らした女も店に流れ込んでくる。
クレイも流れに乗って、後ろの壁際のテーブルへと遠慮がちに腰を下ろした。
制服を身に着けてはいないにしても、クレイの小柄で未熟な体は学生だと簡単に悟られる。
目立つことは避けたほうがいい。
今はじっと椅子に体を沈めて、絡まりあった頭の中を整理して鎮めたかった。
そのために、ここに逃げ込んだ。
誰かと睨み合うためではない。
天井から降りてくる灯りを避けて壁際に座ったが、ウェイターはしっかりとクレイに気付いて寄ってきた。
酒を注文すべき店なのだろうが、未成年な上に、一度たりとも口にしたことがない。
見覚えのあるソフトドリンクを指差して注文し、テーブルに寄り掛かった。
木の丸テーブルは、学園の喫茶室に似ている。
屋外にある喫茶室は友人リシアンサス・フェレタお気に入りの場所で、何度となく連れて行かれた。
彼女がセラを引っ張って行くものだから、セラは側にいるクレイの手を取って連行していく。
マレーラはほとんどリシアンサスと行動を共にしているので、彼女も並んでついて行く。
結局、リシアンサスを先頭にマレーラ、セラ、クレイの四人がお茶の時間に浸ることになる。
選んだそれぞれの道により、専攻する科目が違っていても、授業一単位あたりの時間は同じだ。
空き時間、授業の終わりに落ち合っては、午後を一緒に過ごすことは少なくない。
積極的に関係を持とうとする。
一年前には考えられなかった状況だ。
手のひらでテーブルの木目をなぞりながら思い返していると、手の側にタンブラーが下りてきた。
周りの大人が硬貨と引き換えにグラスを受け取っていたので、それに倣いクレイもウェイターに硬貨を手渡す。
彼は前掛けのポケットに硬貨を滑り込ませると、クレイに背を向け次の客へと歩いていった。
滑らかにくびれの作られたガラスタンブラーの中で、噛み砕くには大きすぎる氷が氷山のように浮いていた。
柔らかい暖色の光に染められた水は小さな丸い海の中で、セピア色に揺れている。
喉が渇いていたことに、クレイは今気付いた。
そういえば、セラやマレーラ、リシアンサスと別れてから何も飲んではいない。
三人は今頃食事の席にいるだろうか。
いや。
もう部屋に戻って就寝時間を待っているのかもしれない。
クレイは腕を持ち上げた。
銀色の細い時計を覗き込もうとして止めた。
時間を見ても虚しくなるだけだ。
まだ何も、始まってはいない。
すべてを終わらせるためにここに来たのに。
すべてと向き合うために戻ってきたのに。
思い出すために、またこの場所に帰ってきたのに。
グラスを右手で握り締めた。
冷たい氷が手のひらの皮膚を焼く。
思い出さなくても分かる。
記憶の場所に触れようとするだけで、拒絶反応が起こる。
激しい嫌悪感。
気持ちの悪さ。
何もかもを遮断し、己を消し去りたくなる衝動。
寂しくて、痛くて、苦しくて。
なのに誰にも触れられたくない。
外部から来る視覚的刺激、聴覚的刺激、触覚的刺激。
すべてが疎ましく感じる。
だから分かる。
そこは決して開けてはならない記憶の扉だということを。
それも変わってしまった。
セラが来て、彼女を受け入れた。
その時から何かが動き始めた。
きっとずっと止まっていたものだろう。
忘れていた感情。
何かを特別に思う気持ち。
人として、生きるために必要な心。
それを自分の中で見つけてしまった以上、もう立ち止まっていられなくなった。
ひとりでいられなくなってしまった。
暗く沈殿した記憶を抱えたまま、セラと生きてはいけないと感じた。
ずっと、ひとりでいいとおもっていたのに。
ガラスの中の水が揺らめく。
地を這うような生気のない声。
幻聴か。
高く細い声は、少女のものだった。
でも、もうだめなのね。
姿は見えない。
いや、待て。
瞬きを繰り返し、グラスの中に沈んだ幻影を捕らえる。
もうひとりでは生きていけなくなった。
だれかを深く受けいれてしまったときから。
大きな瞳がグラスの弛んだ水面で伸びては縮む。
赤に浮かぶ目は、真っ直ぐにこちらを見つめている。
長い睫毛に縁取られ、切り裂いた傷口のように鋭い目尻。
外殻に守られるように、眼球に埋まる瞳孔は何物も吸い込んでしまいそうな漆黒の孔が開いている。
自分をあざむくのをやめたのね。
過去に目を背けて生きるのをやめたのね。
おまえは誰だ。
黒いガラスの向こうにいた少女。
消えたはずの少女。
夢の中にいた少女。
ガラスとともに砕けた少女。
いるはずのない少女。
姿はない。
だが声は先ほど聞いた、少女のものだった。
彼女が恐ろしい。
彼女は、真実だ。
だから、彼女がこわい。
だから、消えてくれ。
でも、あなたはそれでいいの?
「大丈夫かね」
掠れた声が耳を突いた。
動かすと軋む音が聞こえてきそうなほど硬直した首を捻り、目を左に向けた。
指先が血を失うほど強くグラスを握り締めていた。
震える手のひらを引き剥がすようにグラスから引いた。
身を乗り出し、遠慮がちに手を差し伸べた老紳士が、皺の寄った目尻に更に皺を寄せて、心配げな視線を投げている。
「気分が悪そうだが」
クレイは鼻の先から顎先へ、顔を洗うように右手で撫で下ろした。
「大丈夫です。ちょっと、考え事を」
「だったら、いいが」
老人もそれ以上踏み込むつもりはないらしい。
スラムの中にある酒場。
しかしここは似つかわしくないほど、空気が澄んでいる。
吐き気が催すような、淀んだ酒の臭いもこもっていない。
早々に酔いつぶれた男は、店先にも店内にも見当たらない。
それぞれ貧富を窺わせる服装をまとい、一種混沌とした空間ではあるが、暗黙の秩序のようなものが確かに存在する。
それは一言で言うならば、干渉せず、干渉させずといったものだろう。
どこからそのようなルールが生まれているのか、何がその規律を作っているのか分からない。
だが、この店に一歩踏み入れた瞬間から、暗黙の規律を遵守しなければならない。
そう思わせる空気が流れていた。
隣にいる彼だって例外ではない。
彼の奥に座っている中年の男は、伸びきったズボンの脚を机の下で組んでいる。
腕は胸の前で組み合わされ、木椅子の背が軋みそうなほど背を凭せ掛けていた。
一件、凶暴そうな風貌だが、今は押し黙って舞台を見つめていた。
「もうすぐ始まる」
老人は小声で一言だけ囁くと、クレイから顔を外した。
真っ直ぐに伸びた背筋は板を沿わせたように垂直だ。
腕は直角に卓上へ乗せられている。
さまざまな人間がここに集まる。
無秩序の中の秩序。
取り留めのない存在であることを、今ここで望む。
手の中のグラス、浮かぶ氷はいつの間にか半分溶けてしまっていた。
切れそうだった鋭角の角は、今は丸く光を反射している。
舞台の端で身動きする音がした。
自分の背丈の半分はありそうな弦楽器を抱えた男が、ウェイターが舞台の左端に置いていった椅子の前で止まる。
左手と脇腹で上手く楽器を支えながら、椅子の位置を微調整した。
他人に分かるか分からないかの違いにも、彼にとっては大きなことなのだろう。
優しげな風貌であるが、後ろに撫で付けた髪のように中は神経質なのかもしれない。
腰を据えて、右足で楽器の下部を支える。
斜めに傾けた楽器の上部を左ひざの上に乗せ、弓を片手に調弦を始めた。
満足したのか、しばらくしてカーテンも何もないむき出しの舞台袖に顔を向けた。
口は開かなかったが、準備が整ったと視線が語っている。
壁際に立っていたウェイターの男が僅かに首を縦に振り、背にしていた扉の中へ体を滑り込ませた。
いつの間にかクレイの周囲から話し声が消えていた。
客の視線が舞台に注がれている。
沈黙。
だが、張りつめた痛みを伴うものではない。
微かな期待のこもった視線だということは、クレイでも分かった。
それから一分も経たないうちに、再び扉が開いた。
出てきたのは先ほど扉の向こうに消えたウェイター。
その影に隠れてもう一つ人影が覗く。
歌姫がウェイターに続いて扉を抜けた。
滑るように舞台への段を上る。
後ろで緩やかに纏められた少し茶のかかった黒髪。
下に続く細く白いうなじ。
卑猥さを感じさせないのは、彼女が持つ静かな空気の流れのせいだった。
まるで月夜の海のようだ。
神々しいほど光り輝く白の月ではなく、薄雲に濾過された穏やかな光。
慈愛。
その言葉が似合う静かな海。
彼女の痩身を包む、黒のロングドレスが連想させたのもあるだろう。
肩に掛けられた薄絹のストールは露出する肌を覆っている。
同じ黒のヒールが、空気を切り裂かないよう落ち着いた足取りで床を叩く。
舞台中央へ進み出た。
舞台上にはマイクスタンドはない。
舞台を照らすライトによって、踝まで届く裾と床が影で黒一本に繋がった。
明るい舞台の上に、黒い一本の線が縦に伸びる。
客席に下げていた頭を持ち上げた。
光の下に戻った、柔和な微笑。
額にはは癖のある前髪がかかる。
表情の柔らかさを引き立てているのは、微かに下がった目尻だった。
瞳は小さくはないが、クレイのものほど見開かれ、磨いだばかりのナイフのように鋭くはない。
両手を腰の辺りで組み、背筋を正して舞台の左を見た。
始まりの合図に合わせて、弦楽器の頭を膝に寝かせた男が弓を引いた。
目を細め、細く吸い込んだ息を腹に流し込んだ。
赤の口紅を引いた唇がゆっくり開かれる。
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