Ventus  44










黒いガラス。
真夜中のショーウィンドウのように、不気味に静かだ。

美しく磨かれた表面には汚れも傷もない。
闇の中、クレイを前にして鈍く光る。

クレイ・カーティナー一人きり。
人影も、気配も皆無だった。




背中では、外灯がガラスを弾くような高い音で小さく鳴きながら、瞬いていた。
途切れ途切れに、喘ぐように、終わりの近い灯りで最後のときを待っている。

雨が降った後のように湿って暗い道。
土の匂い、湿気の匂い。
風雨に晒され劣化したまま放置された石畳は、踏みしめる度に砂が鳴る。

吸い込まれそうに目の前に広がるガラス。
顔を近づけると、体温を感じない大きな瞳が無感動に見つめ返す。
白い輪郭に小さな唇が引き結ばれている。

何かを見ているようで見ていない。
自分を見つめているようで、見つめていない。
ガラス玉のような、作り物のような目が、黒のガラスに映りこんでいる。


動かない世界を振り払って、クレイが瞬きを繰り返した。
ガラスの奥に神経を集中させると、暗い向こう側に影が見えた。


あれは、何だ。


丸く床に蹲っている。
微動だにしない。


ひと?


目を凝らして朧な輪郭をなぞっていく。
丸まった背中。
肩まで伸びた髪。
膝を抱え込んだ腕。


子ども、か。


黒い頭が動いた。
ゆっくりと首を持ち上げ、髪の間からこちらを伺う。
向こう側からもきっと、こちらにいるクレイはほとんど見えず、黒いガラスなのだろう。
立ち尽くしたクレイを視線に捕らえることはなく、ガラスに顔を向けるだけだった。



しばらく見つめていると、クレイがそうだったように、あちらもこちらに人がいることに気が付いた。
重い足を立たせ、弱々しい足取り体を引きずり、ガラスに身を寄せた。

流れるような黒髪は、真っ直ぐに切りそろえられていない。
服は簡素な白地のワンピースだった。
細い手足は、まだ大人のものではない。
紙に刃を入れたような目は、目尻が細く切れている。
扁桃形の瞳が一際大きく開かれていた。

ガラスの中の少女が口を開いた。
クレイに対して何か言おうとしているが、硬いガラスに阻まれ、音はまったくしない。




「聞こえない」
ガラスが音を遮断していると分かっていても、何かを返さずにはいられなかった。
少女はまだ、こちらに向って唇を動かしている。

「だめだ。聞こえないんだ」
少女は微かに首を振りつつ、クレイに伝えようとしているが、唇の動きからも読み取れない。
彼女の指がガラスにかかる。
爪で引っ掻くように、指先を強く押し当てた。

「ガラスが邪魔で」
クレイも彼女と同じようにガラスに手を押し当てた。
少しでも近づけば、彼女の声が聞こえるかもしれない。

「これさえなければ」
このガラスさえなければ。
少女は眉を寄せ、必死にこちらに向けて声を上げているが、一つとして声は届かない。

クレイの中の血が沸き立ち、心拍数が上がる。
ガラスの向こうにいる少女が叫べば叫ぶほど、彼女の声を聞かなければならない気がする。
理由も根拠もなかったが、彼女が大切なことを伝えようとしている気がしてならない。

「今、行くから」
クレイが手の下にあったガラスを拳で叩く。
少女が不揃いな髪を乱して首を左右に振る。
両手でガラスを押し、怯えたように口を大きく開けて叫び続ける。

「行かなくては」




地響きがした。
大きくて硬いものを落としたような音だった。
床を伝って振動と音を足に感じた。



そしてまた、一回。

等間隔で響く、太鼓のように、体に重みが掛かる図太く低い音だ。


「今すぐ、そっちに」
クレイがガラスを何度も叩く。
中の少女は痛みを伴うように、悲痛な表情で声を上げている。


遠くから聞こえてきていた等間隔の音は、徐々に重みを増してきた。
こちらに音が迫ってきていた。
地響きは足音だ。

クレイは背筋が冷えていくのがわかった。。
少女と言葉を交わせない焦りと、近づいてくる何者か分からない足音に。

クレイが強くガラスを叩いた。
手が壊れるか、ガラスか。
どう考えても、声を弾いてしまう強固なガラスに、クレイの拳が叶わないことは明らかだった。


「早く」
壊れろ。
手が軋むほどにガラスを叩き続ける。
割れるはずはない。
素手で、ガラスに傷一つ付けられるはずがなかった。
それでもクレイは叩き続ける。
背後からは得体の知れない足音が一歩一歩こちらに向ってくる。


しかし、握り締めた拳の下で、氷が割れるような音が走る。
尖った音を立てながら、クレイの手の下でガラスに筋が入っていく。

足音はすぐ側だ。

向こう側にいた彼女の顔や体にヒビが重なっていく。
強張った顔の中に、見開かれた目が埋まっていた。

手の下の亀裂はクレイが拳をたたきつける度に広がっていく。
近づく足音と共に、重苦しい気配を感じた。




ガラスの溝は深さを増していく。
最後の一打を叩きつけた。

少女の額から広がった亀裂。
ガラスが砕ける、その瞬間。
諦めた瞳、絶望を見た少女の空虚な目を、クレイは見た。

砕け散る破片と共に、少女の姿もまた崩れ落ちていく。
ガラスを破壊し広がった空間には、もはや何もない。

クレイはガラスを叩き壊した両手を持ち上げた。
足元には、もう二度と元には戻らないガラスが散っている。
クレイは両手に目を落とし、愕然と立ち尽くす。

クレイの手のひらから、鮮血が流れてはガラスに落ちていった。
一滴、二適。
上向けた手のひらでは留まらない血液が、指の間から流れ落ち床に跳ねる。








戻って来ない方がいい。

ここにいるべきではない。

クレイの闇なのね。

弱いクレイを。

どうして、そこに。

それでも忘れられなかった。

思い出せない思い出。

怖いのは、過去。

怖れているのは何。

クレイの見ているのは何 。

カーティナーの中には、何が入っている。

お前にだって、守りたいものがあるのだろう。








あふれ出してくる、言葉の波。
追い立てられ、押し潰されそうになる。

「私の中。守りたいもの。私は」

頭が痛い。
世界が回る。
膝が立たない。
気持ちが悪い。

「私、は」








ずっと閉じ込めていたのに。




静寂の中、不気味な足音だけが響いてくる世界で、誰のものでもない声が混じった。
弾かれたように、顔を上げた。




開けてならない、扉。



「とびら?」




だから、鍵をかけたのに。








冴えきったその声が、クレイを狂気の渦から引き上げた。
目の前には闇に染まった黒い水がほとんど音を立てることなく流れている。

背中には背の高い建物が迫っている。
水路はクレイの前で、石油のように黒く揺れ動いている。


ここは、紛れもなく現実だ。


周りを見回した。
黒いガラスと少女と足音。
それだけで作られた世界は消えた。

耳の側で脈が打つ音が聞こえる。
血の気が下がり、崩れ落ちる体を両腕で必死に支えた。
地面に座り込んだまま、しばらくは動けなかった。
頭の霧が取れるまで、そのまま座っていた。


少女はもう、どこにもいなかった。





何とか立ち上がれるまでに体力が戻る。
頭はまだ重いが、いつまでもここでじっとしているわけにはいかない。
夜闇が建物を包み込み、冷気が忍び寄る。

腰を上げ、壁伝いに一番見慣れた道を進んだ。
細く、先は小さく灯りが漏れる。

記憶の一番深くに押し込めてあった記憶だ。
頼れるものは今、それしかない。


体がだるかった。
息が荒い。
酸素が欲しくて、薄く開いた唇は乾ききっていた。


建物と建物の間を抜けると、喧騒の波が打ち寄せてきた。
女の高い笑い声が頭に響く。
中年男の怒声に似た口調が脳を揺さぶる。

とにかく逃げ出したかった。
正気に戻ったはいいが、代わりにクレイを襲う疲労感に苦しむ。
今できるのは、騒音から離れることだけだ。


目の前に、淡い色に照らされた木の看板がぶら下がっている。
電飾眩しい店ばかりの場所に、珍しい外装だった。
中からは溢れ出す音も聞こえない。


クレイは扉に手を掛け、ゆっくりと押し開いた。











go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page

















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送