Ventus  43










夜に向って走る貧民街の住人たち。

人込みの中、壁際で影に溶けるように座り込む子どもや大人がいる。
その一方で、狂ったように笑い声を上げながら、つるむ女と男がいる。


饐えた臭い、商売女の安く甘ったるい香水の臭い、離れていても分かる体臭、腐敗した水の臭い。
色々な臭いが、人の中で掻き混ぜられていく。


疲れきった祭りのような賑やかさに、少々飽いてきたのかもしれない。
人の流れから外れ、クレイ・カーティナーは細い路地裏に足を向けた。

人の叫び声や笑い声は僅かに遠のき、排気口が地響きのような低い唸り声を上げている。
錆び付いたファンが回り、金属臭と共に生温かい風を外に排出していた。

むせ返るような食べ物の臭いが、歪んだダクトを通じて道に吐き出されている。
複雑に交じり合ったその空気を、記憶の深い場所でクレイは知っていた。

それまで思い出すことは無かったが、ここに来て、それがかつて自分のいた場所なのだと再認識した。
懐かしさは感じない。
思い出といえるほどの思い出を、抱えてはいなかった。

クレイの中にあるもの。
それは、ヘレン・カーティナーとの生活。
手伝った仕事。
触れるスクラップの冷たさ。
鉄臭い手のひら。
薄暗い部屋。
埃の臭い。
軋む家の床。
ヘレンの皺の寄った手。

小さな世界だ。
本当に何も知らなかった。
小さな小さな世界だ。

ヘレン・カーティナーといた以外に何があったのだろう。
ただ母代わりだった彼女との共同生活以外にも、他の世界を抱えていたはず。
それを探しに来たというのに、未だほとんど収穫はなかった。

ヘレンから隔離された別の記憶。
あの、医師との数日間の記憶だ。
白い診察室での僅かな時間。
しかしそこにヘレンの姿はない。
クレイと医師、そしてクレイを助けたという誰か。
三人だけだ。
ヘレンはどこに行ってしまったのだろう。

記憶と記憶を繋ぐものが、一つとしてない。



崩れかけた石組みの壁に挟まれて歩く。
床がはがれても、誰も直すものはいない。
足元まで届かない光のせいで、何度か爪先が抉り出された石を蹴った。
誰かが気まぐれに立てたとしか思えない、間隔が不均一な外灯の幹が凹んでいる。
酔っ払った誰かが足で蹴り上げる様が想像できる。
ちょうど、クレイの腰より少し低いあたりに凹みがあった。
道の先が仄明るく光の手をこちらに伸ばしている。

一本道の路地裏が切れると、歪な四角に区切られた空間が現れた。
それまでビルに阻まれ空を仰ぎ見ることができなかったが、幾分視界が開けた。

目の前で建設途中で放置されたクレーンが、固まったまま黒い影で浮かび上がっている。
石段の上に置き去りにされたまま、忘れられている。
建物に囲まれた空間で、何年も首を垂れたまま朽ちるのを待っている。


眠ったように動かないクレーン。
もう二度と目を覚まして、彼の役割を全うすることはないだろう。
ただそこにあり、この小さな空間に佇み、濁った空を見つめて、静かに朽ちるのを待つだけ。

寂しげな姿を、灰色の空に焼きつける。
黒いシルエットは、硬く冷え切っていた。

見覚えがあった。
確かにその光景は、かつて目に染みつけていた。
何気ない光景のはずなのに、黒いクレーンの輪郭が記憶の中の輪郭と重なっていく。

いつか、どこかで。
何かが、繋がりそうで、繋がらない。
静電気のような、細い光が頭の中を駆ける。
必死で脳内を探る。
しかし、通り過ぎていった一瞬のイメージ、閃きは掴み取れなかった。

クレーンの乗っている石の段を、視線でなぞる。
耳の辺りで、脈が打っているのを感じる。
掴めそうなのに、まだ指先は届かない。


幼い頃見た、石段。
もっと大きく感じた。

その石段の角から白い足が垂れている。
足は振り子のように、段の角でリズムを刻んで揺れている。
服の裾から伸びるそれは、幼い丸みを帯びていた。
石の壁面を蹴るようにして、伸ばしたり曲げたりを繰り返している。

クレイは瞬きを繰り返した。
自分の中に浮き沈みする断片と、現実とを重ね合わせる。

揺れる白い足の向こうには、変わらず動かないクレーンが対照的に黒く染み付いている。



大切なことだったはずだ。
忘れられるはずのない、当たり前の光景だったはずだ。
なのに、思い出せない。

「私はここにいた。ずっと、ずっと」
顎を上げ、三百六十度回りながら首を巡らせた。

折れそうなフェンス。
ビルの上から垂れるように辛うじてぶら下がっている。


さび付いて、字が隠れてしまった看板。
金具は劣化し、地面に突き刺さるように落ちている。

苔の生えた石の壁。
影は影のまま、光を浴びることなく苔が少しずつ手を広げていく。

ビルとビルに、奇妙な形に刳り貫かれた空。
周りの建物はここだけ比較的低いために、午後の僅かな時間だけ弱い光が落ちる。

いつも同じ場所、同じように座っていた石段の上の少女。
記憶の中の彼女は、擦り切れた服の裾から手足が伸びる。
何かを言っているようだが、言葉は消えてしまった。


脈がどんどん速度を上げていく。
指先から冷えていく。
震える指先を慰めるように、唇に持っていった。
その唇も、震えている。

たまらない不安が襲う。

少女の足が止まる。
長く、癖のある髪が風で浮き上がる。
石畳を支える両腕は月のように白い。
クレイを見下ろす瞳は淡く揺らいでいる。

クレイは堅く目を閉ざし、沸き立つ脈を押さえ込む。
酔ったように回る頭を押さえつけ、息を整えた。



無理に記憶をこじ開けようとするから、歪みが生じる。
戻るべきではなかったというあの医師の言葉の意味が、分かる気がした。


「あの子」

息が苦しい。
鎮まれ、動悸。
再び目を開いたときには少女の姿は消え、消えていたはずの喧騒が遠くに響いていた。


まだ、抜け出せない幻惑の中を、探るように歩く。
クレイはそのまま石壁の側をすり抜け、さらに奥の路地裏に足を踏み入れた。
もう戻れないことは、自分が育った場所に戻る前から分かっていた。
ならば先に進むしかない。
今引き返したらきっと何も動かない。
代謝し、変化し続けられないものは静かに死を待つだけだ。
大切なものを見つけた以上、生きなくてはならない。
大切なもののために。
何より自分が変化を望み、受け入れようと決めた。

狭い、道と呼ぶのも憚るような建物と建物の間を歩いていく。
すれ違う人間は皆、他者に無関心だった。
ここは混沌としている。
その中でも時折絡みつく視線には、疑問符を含んでいる。
年若く、しかも明らかに女が一人、治安の悪い区域の中でも指折りの場所を歩いているのだ。
それでも声を掛けようとしないのは、クレイの目や湧き上がる空気が身を切るように冷たかったからだろう。
今のクレイを見ればセラは思うはずだ。
まるで出会ったばかりのクレイのようだと。
そしてここがクレイを育てた場所なのだと、納得するに違いない。


看板が折り重なるように垂れ下がっている。
店の明かりが漏れて、道が薄明かりに照らされる。
いくつ角を曲がったのか、数えていなかった。
記憶の糸を辿るように足を勧めていく。
最後の角を左へ折れたとき、目の前が開けた。

「水路?」
川というには浅く、川幅も然程広くない。
闇の中で墨のように水が流れている。
淀んではいないようで、悪臭はほとんどしない。
修復されることの無い地面。
足場は相変わらず良くない。
水路に近づくのを阻む障害物は何もない。
縁まで近寄り、むき出しの水路を上から眺めた。

壊れかけた外灯が、後ろから弱々しい光を上から投げかける。
満月の月の方がよほど強い光を放つ。
だが生憎、まだ薄く浮かび上がったばかりの月は齧られたように大きく抉れている。

川の中に、人影が映る。
水の流れるせいか、それともまた過去に囚われて幻を見ているのか。
映っているのは自分だ。
自分自身。
クレイ・カーティナーの顔だ。
水の中の影は、クレイを見つめ返してくる。

石油のように真っ黒な水は、緩やかな動きを止めた。
静止した空間が広がる。
いつの間にか、クレイは黒いガラスを前にしていた。

夢と現実が交じり合う世界の中で。











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