Ventus  42










「戻っては来ないだろうというのが、正直な思いだった」
唸るようなため息を、彼は砂埃が降り積もった階段に落とした。
ひびが走る、割れた石の段に彼は腰を下ろしている。
クレイは 彼の斜め前にある、朽ちた柱を支えていた基礎に座っている。


「戻って来ない方がいいとも思っていた」
大きな体を丸め、俯く姿は昔と変わらない。
光の差す、温かな診療所。
彼と過ごした数日間は、それまでの短い人生の中で一番穏やかな時間だった。
その場所はまさに家庭という空間に類似していた。



父を知らない。
母の温もりは感じたことがない。
その淡い光に包まれた場所が、投げかけられる温かい眼差しが愛情だということすら、クレイは気付かなかった。


「あまりいい思い出が残っていないことは分かっていたからな」
「いいも、悪いもない。ほとんど覚えていないから」
伏せた目の先には、自分の爪先があった。
水溜りを跳ねたのだ。
黒い染みが靴の上で乾いている。

「それほど幼くもなかっただろう?」
たかが数年だ。
劣化して消し飛ぶには早すぎる。


「後遺症か?」
まさか、と跳ね上げるように医者がクレイの顔へ振り返った。

「特に異常はない。ヘレンのことも、街の風景も、あなたのことも覚えている」
脳に異常はない。
日常生活で困ることもない。

「でも、思い出せないっていうのは、ある意味心に残った傷跡かもしれない」
いつか完全に忘れてしまえると思っていた。
しかし何年経っても、傷口は膿んだままだ。
記憶は劣化しても、不快感や嫌悪感、その感覚だけは溶けずに残っている。

「きみが運ばれてきたとき、満身創痍だった。骨に異常がなかったと分かったとき、奇跡すら感じたよ」
誰が瀕死のクレイを診療所まで運んでくれたのか、クレイ自身覚えていない。
医師も、話そうとはしなかった。


目覚めたのは、淡く色を落とした小さな診療所だった。
記憶の始まりは、光差す部屋だった。

クレイは、救われる直前とそれに連なる記憶を失っていた。
それまで何をしていたのか、どこにいたのか、誰といたのか、何をしていたのか。

「私が直接見たわけではないがね。きみは路地裏で倒れていたんだと」
腐った水の匂いに抱かれて。

「一人じゃなかった。きみの両脇には」
男が二人。

彼の言葉が、古い記憶を少しずつ浮き上がらせていく。
昔は思い出せなかったというのに。
深く深く沈んだ過去の景色が、一枚、二枚と写真のように取り出されていく。

「まあ、恐らくその二人に因縁でもつけられたんだろう。体にぶつかっただとか、睨んだだとか」
よくある話だ。
子どもが薄暗い路地を一人で歩き回っているなど、格好の餌食だ。

「昼間から酒を飲んで酔っていたのか、虫の居所が悪かったせいか」
そう、あいつらからは酒の臭いがした。
体臭と入り混じって吐き気がするほどに。

「それにきみは巻き込まれた」
ボールのように蹴られ、飛ばされた。
壁に背中を叩きつけられた。
襟元を持ち上げられ、投げられた。

「そして、きみは」
クレイは頭を抱え込んだ。
核心に触れようとして、脳が拒む。
思い出そうとするのを阻む。

「きみは」
地面が崩れるみたいだ。
地面が揺れている。
記憶が揺さぶられている。

「大丈夫。きみは、悪くないんだ」
寒くなる自分の体を抱きしめた。
なぜか不安で仕方がない。

「ちゃんと、助けてもらったからね。そして、私の診療所にやってきた」
抱えられて連れられてきたとき、クレイの意識は無かった。
彼女を抱えた、窮地を救ったその人物は、医師へ丁重に治療し介護するようにと申し付けた。
言われなくとも、治療はする。
少し衰弱しているようにも見える彼女を、放り出すことなどできなかった。
何よりも、眠っている間の彼女のうなされようは異常なほどだった。
それも、目が覚めたときには嘘のように静まり返ってしまった。
そのときに、彼は思ったのだ。
彼女の記憶は、彼女の無意識によって封じられてしまったのだと。

「失くしてしまった記憶は、取り戻したいほど大切なものなのか?」
過去を失ったまま。
空白の思い出を抱えたまま生きてきた。
それが今、その空白を埋めようとしている。

「過去は、今に連なる。だから」
クレイには上手く表現できない。
だが、このままではいけないと思った。

「今、が大切に思えるようになったというわけだ」
大切なものができたから。

「ここを出て、学園に行った選択はよかったのかもしれないな」
それだけわかって満足だといったように、医師は四角い大きな鞄に手を掛けた。

「それで、これからどうするんだね」
「考えていない」
「私はもう診療所に戻らなくては。いつ患者が駆け込んでくるか分からないんでね」
日も暮れかかる。
医師は闇の薄いヴェールが掛かる空を見上げた。

「帰りなさい。きみはもう、ここにいるべきではない」
もう間もなく完全に崩壊する、クレイのかつての住処を背に、医師は立ち上がった。

「ここには何もない。きみの記憶とともにすべて消えてしまった」
思い出そうとしても、何も出てはこない記憶。

「それでいいじゃないか」
クレイは沈黙を続けている。

「きみはここで育った。ここで生きた。そして去っていった。それではだめか?」
医師の眼差しは、数年前と変わらず優しい。

「分からない。ただ、いつの日か」
他人に自分の気持ちを話すことは苦手だ。
そもそも、自分のことについて深く考え込んだことはない。
ただ、あるものはあるままに。
他者は他者であるままに。
自分に組み込まなければ、関わらなければ生きてこられた。

「大切なものがもっと大切になって、それ無しでは生きていけないほど存在が大きくなったとき」
クレイにも大切なものができた。
守りたい、と思うものが。
それが、何よりも大きなものとして自分の中で占めたとき。

「そんなときに自分が見たくなかった、恐ろしい過去を思い出してしまったら?」
過去の流れの先に、今がある。
記憶が紡いできた糸の先に、クレイがいる。

「そうしたら、私が私でなくなるかもしれない」
一番怖れているのは、その先にあること。

「変わってしまった私は、大切なものの側にいられないかもしれない」
大切なものを、失ってしまう。

「だから、大切なものがもっと大切になる前に」
過去を暴くために、ここに戻ってきた。
記憶の原点だからだ。

「人間はそう簡単に変わってしまわない。たとえ何を思い出しても、きみがきみであることは失われないんだ」
それでもクレイが探し求めるというのであれば、彼には止めることはできない。

「私はもう行く。きみも、気をつけて」
もう幼くはないといっても、少女が一人で歩き回るにはあまりに物騒な地域だ。
クレイも立ち上がった。

「それでは、ここで」
クレイの言葉に、医師は頷いた。
短い時間だった。
二人の間にあった時間からすれば、本当に瞬くくらいの時間だった。
次に会うことはあるのだろうか。
お互いに、それは分からなかった。

去っていく医師の背中を見送ると、別の方向へクレイは歩き出す。
クレイの帰る場所は、もうここにはない。




子どもたちの声は消えた。
大人たちの笑い声が響いてくる。

ゴミが風に押し流され端に溜まった広場を、仕事を終えた労働者が疲れきった顔で横切る。
少年たちがゴミに並ぶように固まって、話しこんでいる。
中央にある涸れた噴水の周りにも、若い仲間同士で群れている。
これからが彼らの時間だ。

さまざまな人間が交じり合って流れる人の川に、クレイも混じった。
広場から伸びる大通りは、見たことがあった。
店には夜のための灯りが灯り始める。

歓楽街への道が、一際目映いネオンで客を手招きしている。
自分がどこに向っていこうとしているのか、分からないままに進んでいた。
流されるままに、流れ。
記憶が僅かでも騒ぐ場所を手繰るように歩く。
自分ことのはずなのに、反応を試すように先へ先へと足を伸ばしていく。
そこがこの街の中核への道なのか、外れへの道なのか、それも流れ着くがままだった。











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