Ventus  41










見たことがある風景。
記憶の奥底から、掘り返すような感覚だ。

断片を見つけては、丁寧に周りの砂を払い落とし、骨格を浮き立たせようとする。


錆び付いた外灯。
湿った外壁。
崩れて砂となっているコンクリートの壁。
暗くなれば足を取られそうな粗悪な石畳。
排水性が悪い路地は溜まった水が悪臭を放つ。

視覚情報が沈み込んだ記憶を刺激する。


殊、嗅覚は記憶と密接に結びついている。
ここに踏み入れて、それがよく分かる。
匂いというものは、奥深くに眠っていた過去に絡みつくように根を張っている。

コンクリートに染み付いている饐えた匂いが、かつて自分もここにいたことを再確認させる。
暗く細い路地を抜けていく。
何年、踏み入れなかったのだろう。

見慣れた角を曲がる。
ビルとビルの間を抜けていく。

建物に囲まれた広場というには余りに粗末な空間で、子どもが四人、ボールを蹴っていた。
夕飯が近いのだろう。
窓からは湯気と匂いが漏れている。
どこからか、赤子の鳴き声が小さく響いている。
この場所は、生に満ちている。
人が必死で生きようとしている。

かつて、クレイも必死だった。
生きるために働き、食べる。
そのための手段を、母代わりに教えてくれた。
ヘレン・カーティナーだ。

スクラップ置き場と家との往復。
ヘレンの皺の寄った硬い手が、見捨てられた機械部品を選別し、生き返らせる。
家は、オイルの匂いがした。

ヘレンと過ごした家に未練があるわけではない。
ただ、他に知っている場所がなかっただけだ。

下流市街は、華やかな新市街、古く落ち着いた旧市街の裏の顔。
街の一部でありながら、存在を消されたに等しい場所。
どこにも属せない、孤立した空間。
奥深く広く、迷う森のように広がっているが、クレイの知っているのはごく狭い区域だけだ。
小さな子どもが歩きまわれる世界など、そう広くもない。

見慣れた景色を辿っていくと、半壊した石造りの家に辿り着いた。
昔いた家だ。
小さい。
そして風が隙間を抜ける、寒い家だ。
雨は何とか凌げるだけましといったもの。
周囲を調べ、割れた窓から中を覗いた。
誰もいない。
クレイが去ってから、誰も入っていないのだろうか。
傾いたドアを揺すって開かせた。
戸を押し開けたと同時に、蝶番が捻じ曲がる軋む音がした。
錆び付いた部品で、しがみついている戸をそのままに、中に入って探索することにした。
幸い、夜にはまだ早い。
まだ空に残る日の光で、電気の通わない部屋の中を見て回る。

住んでいたときから、最低限必要なもの以外、家具や道具を排除した部屋だったが、物がなくなっている。
壊れて座れない椅子が放置されていた。
戸棚は板が腐り、動かせば崩れてしまう。
机は脚が立たず、床に倒れている。
気をつけて歩かないと、床板に足を突っ込んでしまいそうになる。
腐っていない場所を確かめつつ、足を運ぶ。

歩き回って気付く。

埃っぽい匂い、廃墟になったかつての住処、割れた窓ガラス。
時間が形あるものを壊し、崩して、変化させていった。
しかし、一番変わってしまったのは何だろう。

「私自身、か」
指先に付いた砂埃を人差し指と親指で磨り潰した。

足の下の床。
住んでいた頃は、どんな凹凸でも指でなぞるように感じ取っていた。
底の薄い靴で部屋の中を行き来していた。
それが、今。
きっと、落ちているガラスや釘を踏んでも、ほとんど何も感じない。

空気が鋭さを増す、この時期。
上着を着ても、風が布地を抜け、肌に突き刺さったのを思い出した。

部屋は、もう少し広かったように思う。
天上も、もっと高かった。

「やはり、変わってしまったのは私だな」
何が、変えた。
セラは、人が変われるのは自分の意思だからだと言う。

「だけどやっぱり、私が今の私でいられるのは、セラがいるからだ」
過去を捨てきれず、過去に怯え、自分の中で蠢く自分の影を怖れる。
そんなクレイもすべて、セラは受け入れてくれた。
クレイが拒絶しても、日溜りの柔らかな温かさでクレイの心に触れた。
こじ開けるのではない。
氷を溶かすように、ゆっくりと。

マレーラやリシアンサスと出会うことができた。
大切なことだと思う。
いろんな人との出会いが、この先訪れる未来の分岐点になる。

セラは、いろいろなことを教えてくれた。
クレイを大切に思ってくれた。
だから、向き合う気になったのだ。

「ここが、始まりの場所」
朧げな記憶の始まり。
砕かれた断片が残る場所。





何のために、ここに来たの。

黒く鈍い光を弾く、ガラスの破片に姿を見る。



忘れたままでもよかったのに。

映っている、自分の姿。



夢は、夢のままでよかったのに。

小さく写る姿は、俯いている。
近づこうとした。
手を伸ばそうと。





薄氷の割れるような、高い音が響いた。
ゆっくり、自分の右足に目を移動させる。
床に落ちていたガラスの破片が踏み砕かれていた。
足が乗る箇所からひびが伸びている。

ガラスに映った幻は消えていた。








「そこにいるのは誰だ」
叫ぶわけでも、大声で怒鳴るわけでもなく、はっきりした発声で厚みのある声が向けられた。

「ここの入居者か?」
重みのある足取りで、一歩一歩部屋に踏み込んできた。
大きな男だ。
薄闇で細部まで見えないが、中年、いや初老の男か。
一歩進むたびに、床が抜けそうな危うい音を立てる。

「いや、そういうわけでもなさそうだな」
男がクレイを上から下まで眺める。

「どこからか、迷い込んだか? およそここには似つかわしくない風情だな」
「ここに住むつもりはない。迷ってもいない」
すぐに出て行こうと思い、男を一瞥して横を通り過ぎた。

「咎めているわけじゃない。ここは私の家でもないのでね」
特に行くあてはないが、学園の閉門時間までまだ時間はある。
記憶を頼りに一回りして帰ろうか。
そう考えていたときだった。

「待て」
入り口まであと三歩といったところで、呼び止められた。

「どこかで見たことがあるな」
熊に似た男は、首を微かに傾け、考え込んでいる。

「その目」
薄い闇の中で、クレイの大きな瞳が濡れて漆黒に光る。

「そう、クレイ」
「なぜ」
訝しくも疑問を口にしてから、しまったと唇を閉ざした。

「やはりか」
迂闊だったかもしれない。
身元も分からない男なのに。

「私を、覚えていないかもしれないな」
顔を、改めて見る。
ここは、学園の外だ。
今までに関わった教師、というわけでもない。

となると、学園に来る以前か。





「医者」
「そうだ」
クレイが知っている人間は少ない。
セラと出会い、初めて交友関係らしい人間関係を持った。

彼は、クレイがいた外と、学園という内を繋ぐパイプだった。


「覚えていてくれて嬉しいな。白衣を着ていないから、あまり期待していなかった」
医師の診療所兼自宅は、ここから近い。
通りがかっても不思議ではない。

「この家。きみたちがいなくなってから、何人かが移り住んできた」
年月が、屋根を抉り取り、天井には空を覆う物が一部欠けている。

「ここは変わったが、きみはあまり変わっていないようだな」
「そう、かな」
「確かに、見かけは変わったかもしれないが、中身は」
「変わった、つもりだったけど」
少し前のクレイだったら、今ここにいない。

「この街に、帰ってきたわけではなさそうだな」
戻るつもりはない。
戻ったところで、何もない。
ヘレン・カーティナーは死んだ。
他にここにいる理由はない。
主を失った家は、ただの箱だ。

「過去を掃いに来たのか」
「さあ」
欠けた記憶。
それそのものが、クレイの過去だ。
そして、闇。

そんな過去を、そのまま切り捨てられるのかは分からない。

「まだ、重い荷物を背負っているようだね」
クレイは真意を探るために、医師の顔を見上げた。
だからこそ、クレイが変わらないと彼は言ったのだろう。

過去の思い出が噴き上がる。

光に満ちた、白濁した白の空間。
純白のベッドの上。
優しい医師の手。
見下ろす、慈愛に満ちた瞳。
すべてを見抜く力は、セラの強さに似ていた。

ただ彼からは、消毒液の匂いが微かにした。





「覚えていないほうが。忘れてしまった方がいいのかもしれない」
無理に掘り起こして、今の自分に戻れなくなるくらいなら。

「でも」
セラの言葉がクレイの唯一の希望だ。
ずっと側にいるから。
その言葉、だけが。

「大切なものはあるか?」
クレイは瞬きを繰り返す。

「ここを出て、大切なものは見つかったのか?」
「ある。だから、外に出てみる気になったんだ」
医師は静かに、満足そうに頷いた。



「なぜ、分かったんだ」
クレイが欠けた記憶を未だ引きずっていることを。

彼とはごく僅かの時間しか一緒にいなかった。
期間にして、数日間。
だがそのほとんど、クレイは昏睡状態で過ごした。

「私だって何十年と医者をやってきた。体の傷口、患者の目、仕草を見ればおおよそ分かるさ」
詳細までは見て取れなくとも、その人が抱え込んだ内なる傷の重みくらいは察することができる。

「外に出よう。夜が近い」











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