Ventus  39










背中を突然殴られたように、目が覚めた。

黒くて重い、深淵から浮かび上がったみたいに、自分の輪郭が感じ取れなかった。

ずっと息をしていなかったのだろうか。

胸に手を当てなくても分かる。

激しい動悸が心臓を太鼓のように叩く。

脈打つ音は、体中に響く。






体を横たえたまま、脈拍が収まるのを目を見開いたまま待っていた。

先ほどまで見ていたはずの夢が、すっかり消し飛んでしまっている。

大切な夢だったように思う。

夢に大切だとか、そうでないとかそもそもあり得ない。
夢は、夢だ。
幻であり、脳内の想像に過ぎない。

でも、とても大切な。
思い出さなくてはならないものだったように思えて仕方がない。

とにかく今は、体が鎮まるのを待とう。




天井が目の前にあった。
黒ずんでいる。
まだ、夜が明けていないからだ。
もうしばらくすれば、カーテンを透かして太陽の明るさが見て取れるだろう。

今日は、いったいいつだろう。




そのまま再び目を閉じて、眠りの淵に落ちていけばよかった。
もう一度目を開いたら、朝になる。
いつものように。
だが、体は目覚めようとしている。

腕をベッドに立てて、体を起こした。
静まり返った室内で、掛布団が擦れる音だけがした。

吐く息は熱い。
脈が鎮まって、だるさだけが残る。

カーテンを開く気にならないまま、足をベッドから下ろした。
素足が床に触れる。
寒い。
ベッドの上で丸まった掛け布団を引き寄せて包まった。


闇に馴染んだ目で、薄暗い室内の輪郭に視線を這わせる。
みんな眠っている。
人も、物も。
微かに浮かび上がる物と物の境界線をなぞりながら、忘れ去った夢を掘り返していた。






目を閉じて見る夢。


集中しなければ、記憶の奥底に溶けてしまう。
流れる雑音のように、拾い上げなければ時間に押し流されてしまう。



瞬きする狭間。
目蓋の裏に映ったのは、黒い黒い闇の中蠢く更に黒い影だった。

地面から湧き上がるように、揺れながら立ち上がったそれは
ゆっくりと顔をこちらに向けた。

目は、何を見ている。
見開かれた目は、何を映している?

溶けている影が見つめている。
形が不定形で、揺らめいている。




ベッドの上で蹲りながら、クレイ・カーティナーは手のひらに顔を埋めた。

そう、夢だ。
これは夢。
現実じゃない。
取り込まれてどうする。

まとわりつく夢の残滓を振り切りながら、クレイは立ち上がった。
巻きついていた掛布団がベッドに滑り落ちる。

夜着を脱ぎ捨てて、簡素な私服に腕を通した。
朝はまだ来ない。
コートハンガーから上着を引っ張り、部屋を後にした。




誰もいない廊下。
誰もいない階段。
誰もいないホール。
誰もいない玄関。

静まり返っていて、すべての時間が固まってしまっている。
上着へ袖を通しながら歩く、クレイの足音だけが響く。

玄関の扉を押し退けて潜ると、冴えた空気が顔を包んだ。
冷たい空気を吸い込んで、霧の晴れない頭へと送り込む。




人の気配のない林は、考え事をしながら一人で歩くのに都合が良い。
散らばった夢の断片を拾い上げていく。


闇よりも更に深い影は、人の形をしていた。
地面や周りのの暗闇と溶け合いながら、不安定な形のままこちらに顔を向ける。
光る目。
そこに浮かぶ色は、恐怖。

吸い込まれるように、瞳の中に見入った。
影の、動揺に揺れる眼球の奥に何が見える。
何がある。


まるで、水面を見つめているようだった。
黒い水面。

漆黒の。
闇色の。


「川?」
冷たい空気を掻き混ぜ、熱い息が吐き出される。

黒い川だ。
粘るようにクレイの夢の中を流れ続ける川だった。
それが何を意味するのか、クレイ自身まったく分からない。
だが、これまでに何度も繰り返し見た夢だった。
幻だったとしても、忘れられない夢。

スライド写真のように、まだ繋がらない。




完全に道が見えなくなったところで、クレイは木の下に腰を下ろした。
幹に背を預け、細く地面から浮き上がった根の間に挟まっている。

言葉を持たない植物のように、固まったまま高く枝を張った木の葉を見上げていた。
少し、寒かった。
だが、それがここは現実だと知らしめてくれる。

そうでなければ、どこまでが現実なのか区別がつかなくなりそうで。
怖かった。



そう。
きっと、目覚める前の瞬間も、怖い夢を見ていたに違いない。

ひどく、怖ろしい夢。




黒い影。
その黒い瞳の中に蠢く影。

あれは、何だ。
見覚えのある。
シルエットで分かるだろう。
知っているはず。
見慣れていたのだから。

クレイは瞬きを繰り返す。
その度に記憶の中のシルエットが鮮明になる。

肩まで届く黒い横髪。
暗幕にメスを入れたような大きく鋭い瞳。
知っているだろう。
誰よりも知っているはずだ。
だって、あれは。


クレイ・カーティナー。

それは。


「私」










「クレイ?」

驚いた目で、セラが振り返った。
立っているのは、彼女の自室ではない。
今まさにノックしようと腕を上げている目の前の扉は、クレイの部屋に繋がる。

「散歩してた」
「珍しい」
本気でそう思っているようで、一言呟いた後、数秒間セラは固まっていた。
頭の中では、クレイが散歩に出ようと思った心的要因を何パターンかシミュレートしている。

「夜明け前に目が覚めて、二度寝しようと思ったけど眠れなかったんだ」
事実だ。

「今日はお休みなんだし、声を掛けてくれたら散歩、一緒に行ったのに」
「せっかく眠ってるんだ。起こせない」
「何か、考え事?」
図星を突かれて、頬の筋肉が強張った。
クレイのポーカーフェイスがどこまでセラに通用したのか分からないが、感情を押し殺す。

「頭の中を空っぽにして散歩するのはいい。いつもは見えないものが見えてくるからな」
「悩み事じゃなかったら、それでいいんだけど」
セラはひとまず、納得したようだ。
悩むほどのことではない。
ただの夢だ。
流れていくただの、雑音。
気になったとしても、取り上げて頭を悩ませるものではなかった。

現実は、目の前にある。
セラがいる。
それでいいじゃないか。
そこに、悩むことなど何もない。
セラこそが、クレイの現実だった。


「マレーラとリシーとの約束、覚えてる?」
「ああ確か、三日前だったか」
「そう。街に買い物に行こうって」
「覚えてる」
「朝食が終わって、部屋で一休みしたらリシーとマレーラに声を掛けましょう」
その頃には、マレーラも起きて食事を終わらせているはずだ。
セラに先導され、クレイは廊下を引き返した。








円形ホールの両脇には壁に沿って階段が弧を描いて二階と一階を繋いでいる。
階段を下りながら、ホールにいるだろうマレーラとリシアンサスを探していた。
ホールは広い。
二本の半円状の階段には、間に巨大スクリーンが壁に張り付いていた。
ちょうど、階段の終わりと二階との接合部がスクリーンの上部に当たる。
スクリーンの前、階段と階段の間にあるスペースは、ホールの中で最も混みあう場所だ。
行事や学内の速報などが、真夜中の数時間以外、絶えず流れ続けるので学生が群れるのだ。

食事を終えたリシアンサスが、再集合に指定した場所は、その学生の一群とは反対側。
玄関の脇で待っていると言っていた。
巨大な高等部女子寮だ。
休校日の午前とはいえ、人の出入りは激しい。
薬草摘みよりも難しい人探しで、才を発揮したのはクレイだった。

「いた」
階段を下ってきてしばらく、ホールが見え初めてすぐにクレイが反応した。

「どこ?」
クレイの指は玄関に向って右側の壁を示す。

「待たせちゃったわね」
セラは大きく手を挙げた。
しかし、リシアンサスとマレーラの視線は、反対側の階段に注がれている。

「気付かないみたい」
振り向いたセラの肩に、クレイが手を掛ける。

「行けばいい」
この距離で気付いてもらおうと思えば、喉が壊れるほど叫ばなくてはならない。
流石に、同じ屋根の下で生活している人たちの、記憶に染み付ける奇態を晒すわけには行かない。

「そうね」
焦る予定でもなし。
約束した時間にはあと十分以上余裕がある。


階段を下りきり、玄関付近に近づいたところで、マレーラが先にセラとクレイに気付いた。

「早かったね」
「そう?」
「もう少しゆっくりしてもよかったのよ」
玄関の真正面で落ち合い、クレイとセラ、リシアンサスとマレーラの四人は肩を並べて表に出た。
重厚な造りをした玄関は、大回廊に直結している。

大回廊は円庭を一周している。
円庭の中央には巨木が根を張っていた。
低木が所々寄り集まっていたが、背の高い樹は中央の巨木だけだ。
四人の視界には、等間隔に埋められた回廊の柱と、その向こうに静かに佇む巨木と回りに群れる学生の姿が入っていた。

石造りの大回廊を歩く。
大回廊とそれが囲う円庭を胴体としたら、放射状に伸びる数本の直線回廊はまるで蜘蛛の脚だ。
その脚を伝って、四人は学園内を巡るシャトルバスの停車駅に向った。
向こうからはバスがこちらに来る。
マレーラが停車駅に駆け寄ると、バスに向って大きく手を振った。






シャトルバスは、園内を観光しているかのように、ゆっくりと停車駅を巡る。
ともすると、全力疾走する陸上競技者の方が速いかも知れない。
だが、誰もバスに文句をつけるものはいない。
少なくとも、クレイら四人が知る限りでは。

シャトルバス専用道路が敷かれておらず、各所の停車駅を効率よく回ることができる。
また、歩けば街にでるまでに疲れきってしまいそうになる。
それほど園内は広大で、シャトルバスに頼るしかないということだ。

低い唸り声を上げながら、バスは停止した。
目の前には巨大な門が迫り、両脇には守衛室と前に警備員が立っている。
堅牢で高い壁と門を見ていると、まるで学園が城のように思える。

学生証を提示し、IDを外出記録に残す。
一種の関所だ。

「ねえ、これって証明書を紛失してしまったら、外出もできないってこと?」
セラが返却された学生証をかざして見入る。

「再発行はしてもらえるよ。顔の照合も端末でできるから、外出できないってことはない」
マレーラがカードを胸のポケットに入れ、ファスナーを閉めた。

「ただ、いろいろと動きにくくはなるんだけどね」
即時再発行というわけにはいかない。
再発行手続きは厄介なことこの上ないが、一つ行動するにも証明書が必要になるシステムだ。
不携帯だとどこへ行っても、何をするにしても個人認証に時間が掛かる。


「さて、と。最初はモールから、だったかしら?」
マレーラが短い髪を揺らしながら、先を行く。
ここから歩くと二十分程。
電車に乗って行けないこともないが、マレーラとリシアンサスがショッピングモールへ出掛けるときは、決まって徒歩で行く。
今日は天気も良い。
朝のように刺すような寒さもない。


あの店に行きたい。
これが買いたい。
お昼はここで食べて。
疲れたらあの喫茶店で休もう。

授業はその先生が厳しい。
あの先生の授業が受けてみたい。
こんな課題が出された。

近況報告や情報交換の、他愛ない話をしていたらあっという間にショッピングモールにまで到着してしまった。
一週間、学生として授業の束縛からの解放感か、マレーラとリシアンサスとともに、セラもいつも以上に機嫌が良い。

「そういえば四人揃って買い物って、久しぶりな気がするわ」
手にさっそく一つ目の買い物袋を提げているマレーラが、三人を振り返る。

「それに、こうして集まることも少なくなってしまったものね」
リシアンサスも後の三人を見回した。
専攻した授業数が増え、時間もばらばら教室も違うようになってからは、自然に顔を合わせる機会が減っていた。
以前は、会おうと思わなくても会えたというのに。

「でも、わたしたちの関係がまったくゼロになるわけじゃないでしょう?」
絆は途切れない。

「そうよね。会おうって思えば、会えるんだし」
セラの一言で、マレーラの感情は浮上する。

「そうだ。リシー、確かミュージックショップに行きたいって言ってたわよね」
「ええ、確かこの並びにあったはずなんだけど。寄ってもらっていい?」
リシアンサスが所持するミュージックプレーヤーには、指の爪ほどの小さなチップがプレーヤーの中に収まっている。
このチップが大容量記憶装置だ。
投影装置に嵌めれば動画が、ミュージックプレーヤーに入れれば音楽が流れる。

ミュージックショップにある装置にチップが内蔵されたプレーヤーを接続するか、チップ自体を装置に嵌めこむ。
指定された金額を投入すると、音楽がチップの中に流れ込む。
音楽の自動販売機だ。

「そうなると、もはや店員は要らなくなるのよね」
「そうそう。店員も一つの検索する機械と化す」
もしくは機械を補助するための要員。
保守要員。

マレーラとリシアンサスの掛け合いの中、クレイが呟いた。

「人間が機械に食われていく、か」
扱うはずの人間が、機械に揺さぶられる。
たった一つの音楽自動販売機だが、考えてみるとクレイの表現は的確だ。
本人は、客観的な感想を述べただけだが。

クレイはある意味、そうした機器とは隔離されて生きてきた。
それは本人の望むところでもあったが、その彼女だからこそ、機械と人間との関係を見て取れるのだろう。
人間に対しても、機械に対してですら最低限の接触以外のものを、徹底排除してきた。

「そうね。たぶん、こうして急速に機械に呑まれていく場所は、ディグダクトルだけでしょうね」
ディグダは急激な発展を遂げた。
周辺諸国を食い潰しながら、膨れ上がってきた。
幼い頃のことで、周りが良く見えていなかった。
実感はない。
それに、リシアンサスが育った地域では戦禍がそう酷くはなかった。
目で見ていなくても、育っていくうちに分かる。
傷跡は各地に残ったままだ。

「悲観的になることはないと思う。実際、私たちの生活は、ディグダクトルがもたらす豊かさに頼っているんだから」
ディグダの首都であるディグダクトルは、中でもこの十数年で飛躍的に成長してきた。
成長と同時に、福利関係の充実と利便性が向上した。
成長で得た利益は、ディグダの民へと還元されている。

「でも、たまに立ち止まらなくちゃって思うようになったわ。これで本当にいいのかしら。最善の道を選択しているかしらって」
「そうして分かっていることが大切なんだよね、きっと。変えようとする人間、守ろうとする人間。要は、バランスなのよ」
言い終わるか終わらないかの内に、マレーラがショーウィンドウの並びを指差した。

「あそこだわ」
店員五名で管理している、ショッピングモール最大級のミュージックショップの看板が下がっていた。











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