Ventus  19










大きな瞳の中で、茶色の瞳孔の花弁が見える。
滑らかな表面は、鏡のように姿を映す。

見たくはない。

朧げに映る姿は、過去のクレイ。

囚われて、離れられない、昔の姿。



セラの目の中に、クレイはクレイを見た。
セラは、クレイを映す。

誰かに触れることで、人は、自分の輪郭を見ることができる。
クレイは、セラの反応で、比較でクレイという個を見出した。
クレイ自身が、意識するしないに関わらず、変化は足音を立てずに始まっていた。









「クレイの目に映っているのは、本当にわたしなの?」
お願いだから。
セラの願いも、言葉も通り抜けるだけ。

「何もない?」
何もないとクレイは、そう言った。


本当に?


だったら、あまりに悲しすぎる。

クレイの世界に、セラは存在しない。
それがクレイの真実だとしたら。

手を握っても、目を見つめても、言葉を交わしても。
心は遠く、届かない。


わたしを、消さないで。

セラは叫ぶ。
しかし言葉にならない。
言葉になど、できない。

ただ手の内にある、クレイの指を堅く、放さないように握りこむしかできなかった。




「クレイにわたしは、いらない存在なの?」

「セラ、私は。わからないんだ」
こんなことは、初めてだから。

クレイはこれ程まで近くに、他人を意識したことが無かった。


「セラは、必要だと思う。セラに会って、いろんなことを知った」
自分のことを考えるようになった。
わからないことがあることに、気付いた。
いままでは、関心もしなかった。
自分のこと、なのに。






「みんなが、クレイを守るわ」
静まり返った、訓練施設の廊下に、温かなセラの声が染み入る。

脆い心。
初めは気付かなかった。

閉ざされた心、覆われている硬い外殻はクレイの強さだと思っていた。

「弱いクレイを」

でも、違っていた。
セラの洞察は間違っていた。

「不安にならなくてもいいの」

それは、強さではない。
触れたくない、触れるのが怖い。
一番弱い部分を隠すための、殻。

「わたしがいるわ」

見せたくない、見たくない。
目を背けるための、殻。

半年掛けて、確信に至る。









「話を、聞くべきじゃないのかもしれないと、思ってた」
クレイが頑なに隠している自分のことを、無理に引き出すのは嫌だった。
それは、クレイのためではない。

セラ自身のために。



「わたし、クレイに嫌われたくなかった」
クレイの領域に踏み込んで、拒絶されるより、一定の距離でも側にいられればそれでいいと。
ずるい。
卑怯だ。
結局は、利己的な感情と判断に過ぎない。


「逃げてたのね」
そう。
いつも、いつも。


「逃げてるのよ、わたし。逃げたかった」
だから、セラはディグダクトルに来た。

クレイに対しても、同じだった。
クレイに嫌われたくない。
その一心で、クレイの弱さに目を背け、手を伸ばさず逃げてばかりいた。


でも、クレイ。
セラの目はもう、逃げてはいなかった。

クレイが変わろうとしているのに、わたしだけ逃げてはいられない。

何もないといいながらも、セラを側に置いてくれている。
受け入れようとしている。


触れようと手を伸ばさなければ、触れない。
見ようと目を開かなければ、何も見えない。
わかろうとする心が無ければ、理解などできない。

たとえわたしとあなた、個体が違っても。


「話して。クレイの心の痛み、すべてをわかってあげられなくても」
わたしたちは、別々の一人だから。

「わたし、近づきたいの。すこしでも、クレイに」
その、心に。
もう、逃げないから。

「クレイはもう、一人じゃないのよ」



『ひとりじゃ、ない』



欲しかったのは、その一言だった。
彷徨う手を、堅く握ってくれる、安心できる場所が、欲しかった。
確かな、言葉が、欲しかった。

「クレイがわたしを少しでも必要としてくれるなら、わたしはクレイを一人にしない」








「怖い、のは」


ああ、子どもが。
叫んでいる。
悲鳴が。

泣いている?

「怖いのは、私自身」
「クレイが、クレイを?」
セラが焦点を手放したクレイの黒瞳を射る。


「そして、セラ」


セラが怖い。



言うべきか、逡巡した。
言ってしまったら、セラは離れてしまうかもしれない。

住む場所が違う。
生きてきた場所が違う。
それが、人と人を別つ理由にもなり得る。
その理由だけで、存在すべてが否定される。
悲しむべき事実が、ある。

今は同じ学園の地に立ち、同じ施設の空気を吸い、白い訓練室の壁に囲まれていても、セラとクレイは違う。



セラを失ってしまう。

それが、怖い。

失ってしまうには、余りにもクレイの中でセラの存在は大きくなりすぎていた。
もう、遅すぎる。


でも、引き返すことなど、できなかった。



「私は、ディグダクトルのスラム街で育った」

家はあったが、暖も満足に取れず、雨は床を濡らしていた。
夜になると酔っ払いの奇声が響き、風の抜けない路地には悪臭が滞留していた。

「それでもまだいい方だ。ヘレンは手先が器用だった。仕事があったから、私も生きてこれた」
へレンがどのような人生を送ってきたのか、クレイには一度も話したことがない。
白髪交じりの髪でいながら、添い遂げる者もいなかった。
ただ彼女の目は、尋常ならぬ深みを帯びていた。
彼女の過去を想像すらできなかったが、黙して語らぬ様は、経験の深さを物語っていた。

「工業地帯からスクラップを回収する。ヘレンがそれを修理する」
クレイの仕事は、ヘレンと共にスクラップ置き場へ行き、彼女が指示する「原料」を収集することだった。






顔を上げた。
セラは、二人が円環状になっている訓練施設の廊下を一周してしまったことに気付いた。

二人は連れ立って外に出た。
雨は、上がっていた。




「私は、あの狭く暗い路地裏が、忘れられない」

遠くを見つめて、クレイが呟く。

「忘れられないんだ」




外は、雨の残り香がした。

雨水の流れが、あの黒い川を思い出させる。
路地裏に流れる、浅い川。
転落防止の柵も無ければ、割れたコンクリート舗装は修復されることも無く放置されていた。

「川に、落ちたの?」
溺れて、だから怖いのか。

「違う。深くは無いんだ。手を差し入れれば、腕の長さほどの深さしかなくて」
水の温度を思い出す。


「私は、川の水に手を浸けた」

浸けて。
どうした?

「水は冷たいはずなのに」
不快感は拭えなかった。

「水は浅いはずなのに、呑まれそうになった」
黒い川、どろどろと流れる水が恐ろしくて。

「手を引き抜いた。水が、汚らわしく感じて」

そして。

「走った。走って、走って、走って」
後ろから、川が迫ってくるようだ。
あり得ないのに。
ただ流れるだけの川が、迫ってくるはずも無いのに。

「怖い。助けて、って言っても、誰も」

一人だ。
言葉を投げても、返ってこない。

「だれも」
一人が怖い。
周りを見たくない。
そして、心を閉じた。

「ヘレンは、いないの?」
「わからない。でも、いないんだ」




服の裾をはためかせながら、暗闇を駆け抜けていく。
本当に暗かった。
街灯はどこも切れるか、息絶え絶えに点滅しているかして、当てにならなかった。
家から漏れる光が、湿った外壁を不気味に照らしていた。

いつも聞こえているはずの、怒声や罵詈がまったく耳に届かなかったのは、自分の呼吸の音しか聞こえていなかったからだ。

「ひとりは、もう」
小さな磨り減った靴底が、石道を蹴る。
闇の中を、幼い呼吸だけが響く。
食い縛った歯の間から、引き攣った悲鳴のような荒い息が漏れる。




「どうして、そこに?」
「わからない。思い出せない」
触れたくない。
思い出したくない。
嫌だ、嫌。

「それが、クレイの闇なのね」
「私の、闇?」
「抱え込んで、忘れようとして、それでも忘れられなかった」
失くしてしまったたった一ピースの記憶の欠片に、酷く怯えて。
見えない自分を怖れて。
何より、初めて受け入れたセラを失うのが怖い。






「どうか、嫌わないで。私を、一人にしないでくれ」
目の前からいなくならないで。






「なぜ?」


雨の匂いは嫌いじゃない。
セラは大きく水を含んだ空気を胸に入れた。

「どうして、クレイを嫌いになるの?」
「私は」
「スラムで生まれたから? ずっと一人で生きてきたから? 人間が、嫌いだから?」

そんなの、嫌いになる理由にはならない。
ディグダクトルの人間の目が、嫌悪と好奇で歪んでいても、セラは真っ直ぐにクレイを見る。


「今のクレイが、クレイのすべて。クレイの過去が、今のクレイを作っているんだから」
「セラ」
呻くように、救いを求めるように、名を呼ぶ。

「その黒い川、そこで何があったのか、何を見たのか、いずれわかるときが来るわ」
だいじょうぶ。

「そして変わってしまったら。私は抜け落ちた闇を見て、私でなくなってしまったら」
「今のクレイが消えてしまうわけじゃない」
クレイは、ここにいる。

「わたしは、ここにいるわ。みんな、ここにいる。クレイの側にいるから」

だから。

「怖がらなくてもいいの。何を見ても、何を知っても、変わっても」

クレイは、細く息を吐いた。
静かな鼓動のリズムの中、セラの声だけが聞こえていた。

「ずっと側にいるから」
クレイを守るから。

鳥も、草も、木も、風も、今は声を潜める。

「帰りましょう」

帰る場所はある。
待っている人がいる。












「そろそろ解放してあげてもいいんじゃない? 自分を」

声が、聞こえた。











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