Ventus  13





眠れない夜がまた来る。



思えば、自分のことをここまで深く考えたことなどなかった。
考える必要などなかった。

他人に触れると、自分が見えてくる。

ただの壁紙だった周りの環境を意識し始めて
ひと塊だった人間の集団を、一人一人の個と認識して
無関係だと信じていた他人から、自分に影響を与える価値を見出す。

彼女は、鏡だ。

私を映す、鏡だ。


私は今、私を見ようとしている。

目を凝らし、耳を澄まし、神経を尖らせて、体全体で感じようとしている。


こんなことは、今までなかった。


他人を受け入れ、見据え
誰かに価値を見出すことなど、今まで、なかった。

そして感じている。
確信している。

彼女のように鮮明に、私を映し出す他人をもう得ることはできないことを。
女が最初で最後の人間になるだろうと。




そう。
そうだ。

私は恐れているんだ。
私を知ることを。

知った先に見える、私自身を。
それを見るセラを。

怖い。


闇が圧し掛かってくる。

重く、苦しい。

黒い川が流れている。
私はまた、走るのか。


引きずり込まれるように、意識は溶けていった。










「クレイ!」
高い声が、よく響く。
ディグダクトルの空は、今日も快晴で白い雲が眩しい。

太陽に透けた雲のように、セラの髪も陽に透けて光っていた。
息を弾ませているのは、走ってきたという理由だけではなかった。

「ああ、重い」
書籍ですらデータ化されて、手のひらサイズのハードで持ち運べるというのに
いまだ人間は紙媒体に固執している。

セラは上腕ほどの厚い書物を抱えていた。
重いはずだ。
しかもそれを寮の裏まで運んできたのだ。
非力ではないセラでも、息は荒くなる。

「だろうな」
「何だと思う?」
クレイは数秒黙り込む。

「課題はまだ出てなかったな」
クレイと同じ授業を受けている。
大量に資料を集めなければならない課題は、まだ出ていない。

「歴史書か」
「違うわね。ジャンルが」
文学分野でもなさそうだ。
文化でもない。

他にセラが興味を持つものなどあっただろうか。
クレイはそれまでの数ヶ月を振り返ってみるが、思い当たらない。

「降参?」
「ああ」

勝ち誇ったように、満足そうにセラは顎を上向ける。
しかし下手な役者のように、どこかずれた仕草にクレイの口元がわずかに振れる。

セラは胸元に伏せていた真新しい表紙を表に向ける。

「植物辞典?」

わからないはずだ。
今までセラが生物学の本を開いているのを見たことがなかった。

確かに植物辞典と書いてある。
飾ることなくそのままの表現で。

「草が好きなのか」
セラは笑っていた。










ゆっくりと息を吸う。
目を開ける。

視界一杯に広がる緑、緑、緑。

街から幾分も離れておらず、繋がった空間と同じ風が抜けているはずなのに
空気が澄んでいると表現してしまいそうになるくらい、視界は緑だった。

事実、風が木々を抜けるときに浄化されているから、喉を通る酸素が爽やかに感じるのか
クレイには判断しかねた。
そこまで深く分析するほど、興味も抱かなかった。

焦点を外したまま重なり合う草の葉を眺め、擦れあう音に耳を澄ませていた。
コンクリートに囲まれた生活をしていると、たまに光を受けた樹木で目を休めたくなる。

寮や学舎だけでなく、学園内至るところに植林されている。
舗装された道の脇にあるのは堅く冷たい外灯だけではない。

それでもそれは自然林を模したに過ぎなかった。
何かを模倣することは悪いことではない。
林を模してさまざまな種類の樹木を植えたとしても、やはりどこか作りめいたものを隠せない。

人間が作った秩序が見え隠れするからかもしれない。

ここにはそれがほとんどない。
人間の世界に飲み込まれかかっていても、作ったような秩序は感じられなかった。
風も、音も、匂いも、景色も。

生徒が遠くで騒いでいる。
遊びに来たわけではない、これは校外でしか学ぶことができない学習の一環だ。
その目的も大義も、はしゃぐ学生の前では建前となってしまった。

生徒を縛る校則はない。
学べと圧力をかける冷たい教室の壁や硬い机は目の前にない。
林の木の陰に、教師の痛い監視の目は隠れてしまった。

久々の解放感に、気持ちも口も軽くなる。

それでも課題は出される。
薬草についてレポートを提出すること。

その課題に沈むことなく元気なのは、課題さえ済ませてしまえば後は一日、自由時間が与えられるからだった。
協力し合うもよし、他人に聞くのもよし。
五枚の紙にまとめられた「河岸の薬草、草原の薬草」の一覧を見ながら、教科書の絵と照合して特徴と生態を調べる。
格別難しい課題ではないので、学生たちの解放感を奪うことはなかった。

セラはマレーラやリシアンサスと一緒だった。
他クラスの生徒と合同で行われるため、彼女たちの友人ともセラは知り合うことができた。



交流を深めるため。


誰が考えたのだろう。
それもこの行事の一つかもしれない。
しかし、その明らかにされてはいない目的も、クレイにとっては煩わしいものだった。
人と話すことが苦手だった。
近づいて視線を合わせるのも好きではない。
話す話題などないし、共有する興味もない。
自然、他人と距離を置くことが多くなった。

それでも不都合はなかった。

そして、今も。
喧騒から遠く離れている。
気を楽にして、揺れる木の葉を眺めながら、今はそうした自分を考えることが必要だと感じていた。

ヒオウに言われたことを思い出している。
セラに自分のことを話せ、と彼女は言っていた。

不都合は、ない。
そのはずなのに、眠れない夜は続く。
黒い何かが、腹の中に巣食っているように、体も気持ちも重かった。

一人になれば、人工の手が入っていない自然に身を浸せば晴れるものだと思っていた。
でも期待は儚く散った。



「課題はもう終わったの?」
「この間、腕に抱えていた辞典は役に立ちそうか」
「ええ。提出日までにはデータをまとめられそう」
「課題は、まだだ。そっちは」
セラに限って、川辺に来てから一時間を何もせず過ごしていたとは思えない。

「終わった。クレイはまだのようね」
「これから始める」
腰を下ろしていた木陰から、立ち上がった。
木の葉を貫いて、白光が降る。
クレイは眩しさに目を細めた。


「最初に会ったときを思い出すわ」
「最初」
クレイの目は、セラを見ない。

「そうよ。前の校外授業のときだった」
「ああ」
「こうして、クレイの横顔を眺めていた」
「どっちから、話しかけたんだろう」
「あのときわたし、思ったのよ。消えないでって」
セラは冗談で言ったわけではない。
そこにいる、確かな存在感。
なのに、まるでガラスの人形のように、空の蒼に溶けてしまいそうに思えた。

「きっとあのとき目が合わなかったら、わたし、クレイにとっては存在しなかったのね」
「私がセラといようと、いまいと、セラはセラだ。変わることはない」

それは違う。

セラは、確信していた。
クレイがいるから、今のわたしがあるのだと、言いたかった。
でも、言い切ってしまうのが怖い。
クレイが重く感じて、突き放されてしまうのが、怖い。

「クレイは、そうなの? わたしが側にいてもいなくても、変わらない。クレイにとってわたしは」

わたしは何なの?

「わからない」

クレイが堅く目を閉じた。
息をも閉じ込めるように。

「わからないんだ。私は、私のことがわからない。思ったことがなかったから。自分がこうしたいだとか、こうなんだとか」
主張することがなかった。
その必要はなかった。
対象となる人間がいなかった。
誰もいないから、相手の気持ちを推し量ったり、自分の気持ちを伝える必要がなかった。

「私はセラじゃない。セラみたいにはなれない」
他人との触れあいを厭わない。
クレイにだって積極的に自分を晒す。
怖れず他人を受け入れられる。
クレイには、できないことだ。

「そう。クレイはクレイよ。私じゃない。私と同じじゃない」
クレイがセラになる必要などない。

セラは屈みこみ、小川の小さな囁くような流れに手を触れる。
冷たい。

「そうしてずっと生きてきたの? 一人で。孤独で。他人を拒絶して」

目を見ては言えなかった。
でも、言わなければ何も始まらない。

セラは立ち上がった。
クレイに正面から向き合う。

「クレイの見ているのは何?」
「セラが、いる」
「そうよ、わたしがいる。クレイはわたしを見てる。自分の気持ち、わからないなら向き合えばいい。ぶつかればいい」
それは、セラも同じだ。
触れないで、優しさで包み込んで。
でも、それでは先に進まない。
わかり合えない。

「クレイの怖れているのは何?」
「セラ?」
呼びかけても、諦めない。
ヒオウの言った通りだった。
セラは、受け入れてくれる。

「なぜなのか、わからない。真っ暗な闇、黒い川。滑りを帯びた壁。それが夢なのか、現実なのか。ただ私の脳にこびり付いて離れない」
「思い出せない思い出? 怖いのは、過去?」
「その先にある、私だ」
知られたくない、クレイ自身。
でも、誰に?
セラに、だ。




「怖いのは、変わってしまう自分。そして」



湿りを帯びたクレイの目に、セラは引き込まれそうになる。

「クレイはクレイよ。過去に何があって、未来にどんなことが起こっても。クレイはクレイだわ」

今あるクレイは、失われることはない。

「街に、行きたくないって」
「ああ」
「過去に関係しているから」
だから、近づきたくないのでは?

ディグダクトルで育ち、学園へ入ったクレイ。
彼女が生きてきた街をそこまで拒むのは、意味があるはずだ。



「わからない」
そう、クレイが言う通り頭では理解していない。
ただ、体は。
ディグダクトルを拒絶している。
閉鎖された学びの庭に留まっている。

「わからなくていいのよ。考えればいい。時間を掛けてね」
すぐに答えがわかるわけもない。
自分が何者か、なんて答えのない自問だから。
ならば、考えればいい。
時間は十分ある。

「クレイの前にはわたしがいる。周りを見て。誰がいる?」
「マレーラに、リシー、ヒオウ」
「そう。わからないなら、聞けばいいの。わたしたちには、言葉がある」

小川の先を、セラは見据えていた。
その横顔をクレイが見つめる。

「あれ、マレーラだわ。見える? 手を振ってる」
セラは胸の前で小さく手を振り返す。
隣にはリシアンサスがいる。

「川の中に入ってるじゃない。気持ち良さそう」
言うと同じに、もうセラは靴を脱ぎ始めていた。

クレイはセラの楽しそうな背中を眺めていた。
素足が浅い水を跳ねる。


「クレイ」


コートの裾を持ち上げて、セラが振り返る。
手を伸ばした。
手を放せば裾は水に浸ってしまうというのに。
それでもセラは、真っ直ぐにクレイへ手を差し出した。





一人じゃないのよ



クレイを引き寄せるその手は細かったけれど、とても力強かった。











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