Ventus  10





「ずいぶん変わったと思うわ」
グラスの中の氷を、マドラーで掻き混ぜる。

「あれでもね」
テーブルに肘を突き、軽く握った拳にあごを乗せている。
マレーラは、空になったグラスを斜めから見下ろしながら
右手は氷を砕くのに忙しかった。




晴天。
陽が柔らかく降る午後、ぼんやりと周囲の賑やかさを傍観するのは気持ちいい。
セラは久々に歩いて疲れた脚を、テーブルの下で揺らしていた。

マレーラの言う「あれ」は、黒瞳黒髪加えて冷淡の名高いクレイのことだ。

「いつも一人。誰とも関わろうとしなかったのよ。面倒臭かったのかしら」
リシアンサスは、半分残っているタンブラーを左手で持ち上げた。

「人間関係が」
傾けられたオレンジ色の水は、リシアンサスの口へ吸い込まれていく。

「愛想はない、笑わない、怒らない、泣かない、しゃべらない」
ないことづくしの、クレイだった。

「ま、今だって愛想がいいってわけじゃ、全然ないんだけどさ」
マレーラは、氷砕きに飽きたらしい。
手を上げて店員を呼び、温かい飲み物を注文した。
冷えた飲み物を胃に流し込んだ直後に、熱い物を入れる。
考えると腹の辺りがおかしくなってきそうだが
そのマレーラの嗜好に、リシアンサスは既に慣れている。

「やたらと愛想ばかりで、軽薄なのよりはいいと思うわ」
ねえ、とリシアンサスは目の前に座るセラに同意を求めた。

「クレイにとって、大切なものって何かしら」
「何かに執着してるところなんて、見たことないわ」
答えたリシアンサスは昨年、クレイと同じクラスだった。
ほぼすべての教科をともに受講し、席は違っても教室は一緒だった。

ディグダでは珍しい漆黒の髪と、触れたら切れそうな空気が、クレイをより目立たせる。
誰の目もクレイを追っていた。
リシアンサスも、その一人だ。

「寮の部屋も離れてたからかもしれないけど、私服姿すらほとんど見かけなかった」
「そのクレイを変えたのは、リシーでも私でもなく、セラなんだから」

凍り付いて見据えることしかしなかった目に、灯りを点した。
動かなかった口元を、ほんの僅かに緩ませた。
返ってこなかった問いかけに、言葉を口にするようになった。

「変わろうとしたのが、クレイ自身だったから。でも」
「でも?」
伏せた目を、マレーラが覗きこむ。

「何か、見えてないの。何か、足りない気がする」
誰かの気持ちが、完全に理解できるわけじゃない。
わたしと他人は違うから。
繋がってないから。
すべてが理解できるわけじゃない。

それでも、わかりたいという気持ちがあるなら。
痛みを、喜びを、わかりあえるかもしれない。

「まだ、見えないの。クレイが、何を抱えているか」
わたしはまだ見えないの。
クレイの大切なものが。



「クレイにとって、失いたくないものって、何なんだろう」
心からあふれ出した独り言が、言葉で漏れ出した。










街に行こう!
言い出したのは、マレーラだった。

このところマレーラ、リシアンサス、クレイ、セラの四人でいることが多い。
何かを発案するのは決まってマレーラだった。
その手綱を握っているのが、リシアンサス。
セラは人間関係の面白さも、ディグダクトルで知った。

マレーラは、週の最終授業が終わり、扉を出て行く学生の流れに逆らって
すり鉢鉢上に並ぶ講義室の階段を上ってきた。

開口一番が、街に行こうの一言だった。
いつも隣にいるはずのリシアンサスがいない。
首を伸ばしてマレーラの背後を探したが、姿は見えない。

「リシーはすぐ来るわ。先に走ってきたのよ、私」
きっと授業半ばからはディグダクトル市街に出て遊ぶ計画で、頭が埋まっていたに違いない。
チャイムと同時に、弾丸のように廊下を駆け抜けるマレーラを想像して、セラは笑った。

「息が切れてる。リシーが来るまで待ちましょう。からかわれるわ」
「もう笑われてる」
肩を小さくすくめて見せた。
くせのあるショートカットの金髪が小さく揺れた。

「クレイも行くでしょう?」
学内をセラと歩き回っているクレイだ。
笑顔でイエス、とはいかなくとも、首を縦に振るだろう。

「リシアンサスだ。ここは話をするにはうるさ過ぎる」
外に出ようと、促した。
マレーラを追ったリシアンサスが、ゆっくりと段を上って来た。

「お茶でも飲みながら、ゆっくり決めればいいでしょう? 焦ることはないんだから」
リシアンサスが、マレーラの鞄を胸の前へ持ち上げた。

「忘れ物よ。それとも貰っていいのかしら?」
「今日の課題は抜き取って、リシーに差し上げるわ」




図書館の裏にひっそりとある喫茶室へ遠出することにした。
校舎の近くでは人が溢れているし、林の中ではお茶は飲めない。

人声より鳥の声の方が大きく聞こえる。
深い緑と、浅い緑が重なり合い、触れ合う。
霧状の水を散布するスプリンクラーだけが、この環境は造られたものだと思い出させてくれる。

近づいている、第二回になる校外授業のこと。
出される課題の種類や量のこと。
授業を担当する教師のこと。
取り留めのない話が流れては消えていった。

「どうしたの、セラ? 水ばかりみて」
「機械の方よ」
無意識にもリシアンサスの肩越しに、回るスプリンクラーばかり見ていた。

「よく見るだろう」
「だから、よ」
敷地内いたるところに設置された機械。
スプリンクラーだけではない。
あらゆるところに、今までセラが目にもしたことがなかった複雑な機械が使われている。
より円滑に生活が営めるように、勉学に集中できる環境を整備するために。

「そのエネルギーはどこから来るのかって、気になってたの」
「動力源?」
マレーラにセラは頷いた。

「地下に発電施設があると聞いた。地上だけではない。ディグダクトルは地下都市も発達している」
「見学できないかしら」
「セラ、それ本気?」
「見てみたくない? ディグダクトルを動かしてる心臓」
「面白そう。考えたこともなかったけど」

授業でも、ディグダクトルの中枢については口を閉ざしている。
避けようとあからさまなわけではない。
知る必要がないかのように、積極的に情報を与えないだけだ。

「立ち上るビル群、広大な国土、その心臓部に広がる地底帝国。ああ何て、コメディ」
「ジャンル、何か違うわマレーラ」
盛られた焼き菓子の半分は、話をしながらも四人に消化されていった。

「ところで、そろそろお話しさせていただいてよろしいかしら、お嬢様方」
「どうぞ、マレーラ嬢」
絹の白手袋が似合いそうな上品な仕草で、セラが手のひらを差し出した。


「明日のことよ。ディグダクトル市街で遊びましょう計画」
「昼前に出て、昼食は外で食べる。そうでしょう? マレーラ」
「その通り。新人君を案内してあげようかと思って。迷子になって探しに行く羽目になりたくないもんね」
「じゃ、二人がどこに行きたいかによって、デートコースを考えなきゃだめなんだけど」
「悪いが」

遮ったのは、クレイの声だ。

「私は行かない」
余りに穏やかに言ったので、聞き流すところだった。

「どうかしたの?」
「街に行きたくないだけだ。話が進んで、悪いけれど」

「いいわ。セラは私たちが案内するから。でも、クレイ。理由、セラには説明してあげて」
街に行くことを楽しみにしていたのは、セラだったから。

クレイは、返事とも呻きとも取れる小さな声を出しただけだった。








「クレイは結局、セラに話したの?」
「わからないけど、街には出たくない。マレーラやリシアンサスが嫌いなわけでは決してないって、それだけ」
「嫌われてない。そんなことわかってる。私たちが知りたいのは、街を嫌がる理由よ」

ディグダクトルで生まれ、ディグダクトルで育ったクレイ。
彼女がその街を、踏み入れるほど嫌うのはなぜだろう。

「わからない。クレイだってわかってないもの」
「そう、ね。私たちにわかるはずないわね」

どうしてディグダクトルの街に行かないの?
すっと聞けたらいいのに。
聞けないのは、なぜ?
それが、セラの弱さ。

自問自答が繰り返される。
問題なのは、クレイではなくセラ自身だった。
殻に閉じこもろうとしているクレイに、どう触れていいのかわからなくて。





当日も抜ける青空が広がっていた。

「クレイ。行ってきます。夕食には帰ってくるから」
閉ざされた扉の向こう。
机に向かっているだろうクレイを思って、目をつぶった。
クレイの肩に触ることもできず、二人を遮る冷たい扉に頭をもたせかけた。

「待っててね」

聞こえているのだろうか。
この隙間もないような扉が、セラとクレイの間にある壁を象徴しているように思えた。
殻は、破れないの?
わたしは、どうすればいい?

「ああ」

殻の向こうからの、短い返事。

「クレイ」
扉の奥は静かだった。
それでも、いい。
返事が聞けたから。
胸が熱くなった。

「次は一緒に行きましょうね」
頼み込んででも、一緒に行くから。

返事は聞かず、マレーラとリシアンサスの待つ階下へと走った。



わたしに、あなたを知る権利はあるのかしら。
どこまであなたに触れていいのか、わからないのよ、クレイ。
わたし、どうすればいい?


氷は完全に溶けてしまった。

「セラ」
呼びかけられて、顔を上げた。

「何? リシー」
「今度は、四人で来ましょう。セラがクレイを連れてくるのよ」
「そうね」

できるかしら。
嫌われたくないの。
だから、クレイの嫌がることはしたくない。

「クレイ、わかりにくいから。でも、私たちだったらきっともっとわからない」
「表情、あんまり出さないから」
「それだけじゃない」

マレーラが肘をついたまま、首を傾けた。
「氷の壁だよ。触れたら死んでしまいそうな冷たい壁。誰も近づけないし、もちろん触れようともしない」

クレイのまとう空気は、他人が領域に踏み入れるのを許さない。
拒否なんてものではなく、殺されそうな目で攻撃される。

「それに触ったのは誰? 呼びかけたのは誰? 変わったのよ、クレイは」
「変わろうとしてるわ。セラが来て」

初めての意思。
かすかな、でもポジティブな意識。

それは、セラも。
他人に積極的に向き合おうとしなかった過去。
それがすこしずつ、音を立てて変わっていく。

「わたしたち、成長していってるのかな」
マレーラやリシアンサス。
そして、クレイとともに。














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