Ventus  09





待ち合わせ場所は、寮から少し離れた林の中。
木漏れ日が降り、風は緩やかだった。

一昨日まで降っていた雨は上がり、昨日と今朝の太陽で
芝生の湿りは拭われていた。

待ち合わせ場所を指定したのは、セラ。
クレイはそれに頷いて、わかった、と短く答えただけだった。



今日の授業はすべて終わり、いつもならば
図書館へ寄るか、寮へと直行しているはずだった。
そのセラが、クレイやリシアンサス、マレーラたちとは別行動。
一人で草むらの中で、本を広げた。

うるさいくらいの人の声も木々に遮られ、耳に障らないほど、遠のいている。








本日最終の授業が、終わりの鐘を迎えた。

立ち上がった生徒の内では
まだこの後も授業を受ける者もいたが
大半が、この後の自由時間に歓喜の声を上げていた。

騒音にかき消されながら、若い教師がドアから顔を覗かせた。

広い教室内、最前列で教科書を束ねていた男子生徒に、教師は話しかけている。


セラは教卓の向こうのボードの文字が消えていく様を、ぼんやりと見つめていた。

その視界の隅に映った教師の一部始終とともに。

振り向いた男子生徒の視線に導かれて
教師はセラのいる方向へ顔を向けた。

この授業を終えたばかりの教師とすれ違い様に
短い挨拶を交わしながらも、真っ直ぐに目的地に向かう。


彼の授業は受けている。
顔も知っている。
しかし、わざわざ訪ねられる用はないはずだ。

だとすれば、用があるとすれば、クレイか。

クレイに顔を向けたところで、教師の声が耳に届いた。

「カーティナー」

クレイは教科書を一まとめにし、机の上へ乗せていた。

「ちょっといいか?」
「話は、ここでですか」

これから教室を空けなければならない。
十五分もすれば、次の授業のための生徒が
流れ込んでくるはずだ。

「いや。面談室を取ってるからそこで」
「クレイ、荷物持って帰るわ」
「少しだから、荷物にならない」
帰る用意はできている。
それを認めた教師は、行こうか、と声をかけた。

立ち上がったクレイが、物言いたげに動きを止めた。
同時に立ち上がって道を空けたセラを、じっと見つめている。

「すぐに終わるの?」
クレイは頼りなげな教師に視線を合わせた。
「そうだな、一時間くらいかな」
「待ってるわ。ここと寮との間にある林。知ってるでしょう?」

林の中に小さく開けた場所がある。
セラとクレイ。
マレーラとリシアンサス。

彼らは時間が空くと、そこで過ごしていた。

密閉されたような教室と寮で、夜までの時間を過ごすより、よほどまし。
そうリシアンサスは言っていた。

髪を緩く束ね、下がった目じりの柔和な顔でいて
賑やかなマレーラを御しているのは、リシアンサスの方だった。


その小さな空間。
クレイもよく知っている。

「そこにいるから」
クレイは頷いて、教師の後を付いて行った。








綿地の立ち襟を、かき寄せた。
少し首元が寒くなってきたからだった。

読みかけた本は、終わりに差し掛かっていた。

本の世界へ深く沈んでいたから気づかなかったけれど
あたりは陰が濃くなってきていた。

読みづらさを覚え、曲げたまま動かさなかった脚が疲れを感じていたので
本を閉じ、セラは腰を上げた。

そういえば、生徒たちの声もほとんど聞こえない。
そろそろ外灯が灯る頃だろう。


クレイはまだ戻ってこない。


本を読むのは諦めた。
続きは寝る前にでも読める。

上着を、持ってこればよかったかもしれない。

支給された、薄い色の上着は自室の壁に
裾を長く垂らして掛かったままだった。


暑季へと向けて温度は駆け上がっていくからと、油断していた。
今の季節、陰れば温度は下がり、夜も近づくと
薄着で外にいれば、体も冷える。

せめて歩いていれば、体も温まるだろうが
動かしているのは、頭だけだった。


最終時限も終わった頃だろう。

林の隙間を通して見える白く浮かび上がる歩道。
寮へ戻る流れは、まばらだった。

一人でいることに、不安になり始めたときだった。



「セラ」



声を、温かく感じた。

踏みしめる草の音、擦れる布の音。
クレイが戻ってきた。

「だいじょうぶ?」

一瞬の停止。
クレイが、その言葉の意味を受け損ねたからだった。

「ああ。何も問題はない。春を越したから、いろいろと手続きが」
「涼しくなってきたみたい」

足元に置いてあった教科書の束と、本を拾い上げた。

「聞かないのか」

クレイの今までの時間を。
待たせてしまったセラには、その権利はある。

「聞いてもいいのなら。それに、クレイが話したいのなら」
クレイの嫌がることは、無理に聞き出したくはない。

「とにかく、歩こう」








土を固められて作った歩道。
わずかに残っていた夕日は、闇に押されていた。

等間隔に刺さっている両側の外灯は、背を高くして頭の光を燃やしている。

やがてこの歩道は目の前を横断する、長い直線の回廊に交わる。

「奨学金を受けているんだ」

初耳だった。
クレイからはもちろん、他の誰からも聞いたことのない話だった。

一年間の学費は、法外なほど高額ではない。

それも、人材を学内で養育し、そのまま軍なり、国の施設なりに
就かせる、独立一体型のシステムだから。


畑のようなものだ。


国は、独自のプログラムで育てた畑の人間で、帝国を動かしている。

自給自足、といったところだ。


必要な人材の確保が目的。
学内の収入で国を動かしているのではない。
欲しいのは金でなく、よりディグダのために効率よく動ける人間だ。

成績の一定条件を満たせば、奨学金を受けられる。
更に条件を狭めれば、学費が免除されることもある。


逆に言えば、金を積めば誰でも入学できる、といったわけではない。


「ただ、私は国直下の奨学金を受けているわけではないんだ」
ならば、どこからその学費はでているのだろう。
尋ねる前に、クレイの口が開いた。

「個人が出している」


直線の廊下を、風が吹き抜けた。


丸い庭を囲む、円環構造の廊下への結節点が見える。
寮は近い。

「学費を、だれが」
「学費だけじゃない。生活に必要な金を貰っている」

クレイの家族を、聞いたことがない。
どのような家に生まれ、どのように生きてきたのか。

分かるのは、彼女が初等部からこの学園で学んでいたということ。
クレイは、ずっとディグダクトルにいたと言っていた。
それだけだった。

家族はいるのかどうかすらわからない。
ただ、家に帰ろうとしないのは、クレイが戻るべき場所がないから。


まだわたしは、知るべきではないのかもしれない。
セラは静かに目を伏せた。

「だれからなのか、わからない」
「どういうこと? 直接会わないから、なの」
クレイは地面を滑っていた視線を持ち上げた。

「私の学内のデータは、教師を通して相手に伝えられる」
「それが、特別?」
「私がそれほど成績がいいと、思っているか」
細められた目が、セラを見た。

飛びぬけて優秀というわけでもない。
セラと同じ。
ディグダクトルでは、中程度の成績だった。

「それでも出してくれる人間がいる。教師に呼ばれたのは、学内生活の報告書を書いただけだ」
「会ったこともない人に」
「本当は、会ったことがあるんだ。ただ、私はその人を覚えていない」

ここまで踏み込んで話を聞いたのは、初めてだった。
クレイ自身も、他人にこれほど深く自分のことを明かすのは、初めてのことだった。

「報告書を書いて、書面では書ききれない諸々のことを口で説明した。それだけだ」






「ありがとう」

セラが足を止めた。
円庭に沿って、回廊の弧を歩いてきた。
寮の入り口、一際明るい光はもう目の前だ。

セラの足音が消えて、クレイも立ち止まった。
振り返ったクレイの目に、拳を握り締め、真っ直ぐこちらを見るセラが映る。

「ありがとう。話してくれて」
「私は、別に」
珍しく目をセラの肩口に泳がせて、言葉を詰まらせた。

「うれしいのよ、わたし」


『あなたは、本当に不器用な人ね』


セラは、ヒオウの言った言葉を思い出す。

「そう、不器用なんだわ。生きるのが、とても」
うまく人の心と交わることができない。

だから

「触れるのが怖いのね」

クレイは、心臓を貫かれた気がした。



「わからない。考えたことが、なかったから」
見つめるセラの目が、痛かった。
今まで、自分が何であるのか、考えたことがなかった。

「わたしはね、怖いのよ。一人が、怖い」
ディグダクトルの人の波に囲まれて
大勢の人間と言葉を交わしてきたけれど
寂しさや不安を吐露したことはなかった。

「わたしとクレイは違っていて、わたしはクレイになれなくて」

セラの細い指は、ゆっくりと前へ伸ばされた。

「だからわたしはクレイの気持ちを、完全にわかることなんてできない」

回廊の柱に埋め込まれた人工灯が、セラの頬を白く照らす。

「クレイは言ってたわ、灰色館で」


『私とセラは違う人間。わからなくて当然だ』と。


「それは、正しい。どんなにがんばっても、わたしはクレイの心を、わかってあげられない」


でも、それでもクレイ。
祈るような気持ちで、一歩を踏み出す。
近づくのではない。
触れるために。

「でも、言葉がある。目がある。わかろうとする心がある。わかりたいと思う」

クレイの心を、悲しみや苦しみを、思うことはできる。

冷たくなった指先。
それは、外気のためか。
それとも、緊張のためか。

「わたしはクレイと一緒にいたいと思ったのよ」
これは、わがままかもしれない。
一人がいやだから、友だちが欲しかったという、エゴかもしれない。
何度もセラは、考えていた。

もっと悪く言えば、跳ね除けようとしないクレイを
利用しようという、汚い心かもしれない。

寂しいから。
この広い世界で、ひとりはいやだから。

でも、少しわかった気がしていた。

わたしはわたしが、よくわからないけれど、ただ。
これだけは、確か。

他のだれでもない。
クレイだから一緒にいたい。
クレイだから知りたいと思う。
それは、本当だから。

守りたい。
クレイを。
彼女が生きている、空間を、世界を。
側にいることで、守りたい。

壊れそうに繊細な、クレイの心を。
他人を拒絶して、ひとりで生きてきた、クレイの心を。

いやなら、拒絶して。
今までクレイがしてきたように。
わたしを拒絶して。


セラの氷のような手が、クレイの指に触れた。
ガラス細工に触るように、ゆっくりクレイの指先をすくい上げる。

たった一センチの接触点から、クレイの思いが流れてくる気がして
セラは指を離さなかった。






長い間、動けなかった。
クレイは、指を離さない。

静止した音の中。
最初に動いたのは、セラだった。

固まったようにくっつき合う指先とは逆に、緩やかに、目を細める。


クレイは、セラがそのとき何を言ったのか覚えていない。
言葉など、思い出せなくてもいい。
クレイをセラが溶かしてくれた。

白い光の中、凍りついた心を、溶かしてくれたのだ。




















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