Ventus  08





深く息を吸い込んだ。

外気は湿り気を帯び、潤う髪が心地よかった。

水は草木と混じり、独特の香りが漂う。




セラは、このにおいが好きだった。

目を閉じると、細やかな雨の音が際立つ。








「ホームシック、かしらね」

そんな年でもないのに。

冷たい窓の縁に頭をもたせかけていると、故郷を思い出す。



故郷。



そう呼べてしまうほど、生まれ育った町が遠くなってしまった。
気づいて、静かに息を吐き出した。







離れた友人、置いてきた母親、大切なもの。



毎日顔を合わせていたのは、ほんの何ヶ月か前だというのに。

すべてが今は遠かった。

それも、今ここで過ごしていることが、当たり前になってしまったから。
ディグダクトルの風に、体が馴染んでしまった証拠。







ディグダクトルにあるものが、みんな怖ろしく感じていた。

高層ビル群は、見上げれば首が痛くなってしまうほど。
その谷間を埋めるようにして人が行き交う。

戸惑って、行き先を見出せないでいると
前から後ろから突き倒されてしまいそうになった。




さまざまな髪の色、肌の色。

ディグダが多くの小国から構成されている事実を、改めて思い知らされた。








忙しない学園生活で、ほっと息をつける瞬間。
セラは、園内に点在する林で座り込むのが好きだった。



今日は雨。



残念ながら、表には出られないけれど、窓から顔を半分出して
目の前の木々を眺めることができた。

一人で、こうしているのも久しぶりな気がする。

セラは腕に頭を預け、目を閉じた。





リシアンサスとマレーラは、外出していた。
ほぼ毎週、決めているかのようにディグダクトルの街へ遊びに出かけている。

細かな水が、葉の上で弾ける音を聞いていた。


最後に手紙を出したのは、一ヶ月前だった。
また、手紙を書こうか。



何を書こう。



学校のこと。
今見ている景色は、都会なのに、セラの町の周りに少し似ていること。



勉強のこと。
難しいけれど、とても興味深い授業が多いのだと。



そして、クレイのこと。
少し変わっている友だち。でも、とても魅力的な。



他にも、たくさん友だちができました、と。

書き出したら、あふれ出て止まらなくなりそう。










そっと、目蓋を上げる。

雨はカーテンのように視界を白く濁らせる。


体がすっかり冷え切っているのに、セラは気がついた。
顔を乗せていた腕に手のひらを被せると、冷気が手のひらに移る。



窓辺に寄せていた椅子から立ち上がると
両開きの窓に手をかけた。

滑らかにスライドし、霧雨の音は窓の向こう側へ閉め出された。






引き出しから取り出したタオルを、髪に当てる。




長く外に出てると、風邪ひくからね。
注意された母親の言葉が、リアルに頭を過ぎった。


もうすぐやってくる、夏の休暇。
たった一週間、しかし学生にとっては帰郷するチャンスだ。

学生の大半は、セラのような地方出身者で構成されている。
学生だけでなく、街全体がそうだ。

肌の色、髪の色が色彩豊かなのも、理由はそこにある。



セラは窓辺から離れ、机の前に座った。

勉強をする気にもなれず、タオルは頭にかけたまま
横に向けた椅子に座っていた。

入り口の隣にある、備え付けてあった本棚はもう
その三分の二が、本で埋まってしまっていた。


まったく同じ構図だが住む人間によって
小さな部屋も、ずいぶんと雰囲気が変わる。




以前訪れたクレイの部屋は、何もなかった。

勉強で使用する、生活する上で最低限のもの以外、何も。






灰色館を見つけてから、セラはクレイとともにヒオウに会いに行っている。

何もなかったクレイの部屋。
その部屋に、一冊だけ本が置かれるようになった。

一週間前から。






クレイが見つけた歴史書は、空っぽの棚の上に置かれていた。



たった、それだけ。



それだけだったけれど、セラは少し誇らしく感じていた。

誰に言うわけではないけれど、クレイが何かに興味を持ってくれたことが うれしかった。




クレイは、世界を知らない。

小さなこの学園以外の世界を、知らない。

ディグダクトルの外を、知らない。

ならば、わたしが連れて行ってあげよう。




手を握ろう。

人の手がこれほど温かいことが、わかるから。

一緒に、世界を見よう。



誰かの心を変えることは難しい。
でも、変われるきっかけになれれば。









違う。

そう、違う。







「変わりたいのは、わたしだわ」





目を閉じ、握り締めた柔らかいタオルに顔を埋めた。


何のために、故郷のファリアを出てきたのか。


平凡な日常を壊したかったのかもしれないと、思い始めていた。

思い切って、ディグダクトルにやってきて。

それでも何も変わっていないことに、気づいていた。










ディグダクトルの発展は、諸外国を大きく引き離している。
胎内の小国との格差を見ても、それは明らかだった。



急速な発展は、物流に大きく影響した。


まるで、血の行き届かない毛細血管のように
辺境は、いまだ満足に交通網さえ整備されていない。




首都と故郷の小さな町とを比較して、見てよく分かった。

まだ、ファリアは恵まれている。

気候は温暖だった。
鉄道もディグダクトルに通じている。
恵まれているから、感じていたのかもしれない。


このままでいいのだろうか、と。








ディグダクトルに来て、周りを見回した。

見えていなかった、大きな溝を目にして、知ろうと思った。

なぜ、これほどまでにディグダクトルとそうでない国の差が生まれたのか。




見なければいけない、世界を。

知らなくてはいけない、歴史を。



セラは歴史に干渉することなどできないけれど、知ることはできる。




目を開いて。

世界を見て。



そのための環境が、ここにはある。






何もないわたしだから。

何もできないわたしだから。

せめて。







世界を見よう。


クレイと一緒に。




























「セラ」



呼ぶ声に、目を開けた。

温かく感じていたタオルも、冷え切っていた。



ここはどこだろう。


薄闇に視界を塞がれて、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなった。


「セラ」


眠っていたのかしら。
明かりをつけなければ。



立ち上がろうと、机に手を置いた。

目の前の扉が、薄く開かれる。
細い隙間から、眩しいほどの白い光が漏れた。


「眠っていたのか」

「クレイ」

クレイの手が、入り口の壁を撫でる。
目に痛いほどの光が、部屋に満ちた。



「考えてたの」

クレイは、何も返さず黙ったままだった。
いつものように。



「わたしは、どうしてディグダクトルにいるんだろうって」

きっと、クレイは言うだろう。

わからない。
もう食事の時間だ、と。


それも、いつものこと。




無関心。

無感動。


それは、セラのことでも同じ。

わかっている。







「もう、そんな時間かしら」



食事に。

言いかけて、クレイの手が伸びてくるのに、セラの言葉は途切れた。


クレイがセラのタオルを引っ張った。







「セラがここにいたいと思ったから、だろう」

奪われたタオルは、立ち上がったばかりで温もりが残る椅子の背へ掛けられた。





「わたしが、いたいと思ったから」

クレイの目を見ていられず、セラはクレイの手を見ていた。





「わたしは、逃げてきただけよ」

ファリアのように、真っ平らで何もない世界から。




でも、結局わたしも何もないことに気づかされたけど。

その事実が、セラの胸を重くする。






「外に出ようとする勇気がある」




勇気。




「変えようとする、力だろう」






セラの中で、小さく。
それでも何かが確実に、動いた気がした。






「夕食の時間ね」






セラは、クレイの腕に触れた。


たった一言の言葉で、胸に火が灯ったように温かくなる。



「ねえ、クレイ」

扉を閉じて、賑やかな廊下に出た。
マレーラもリシアンサスも、食堂に行っているはず。


クレイはまた、黙ってセラの後ろを歩いていた。







「ファリアにいつか、一緒に行きましょう」






振り返ったセラの笑顔は、曇りなく、きれいだった。




「わたしと、一緒に」














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