Ventus  04





この音は、嫌いだ。

風の音。

雨の音。

違う。

水の音だ。

闇の中で、まるで石油のように黒く流れる。

目の前で、白く鈍く光を反射して。

風が止まっている。

気分が悪い。

水の音で、気分が悪い。

他に音がない。

水音だけが、不気味に響いている。

急がなくては。

急いで。

何に追われているのか分からない。

汗が額を伝って、顎を滑り落ちた。

ここは、どこだろう。

黒い水面で揺れるのは、何なのだろう。






目蓋を引き上げる。
勢いよく息を吸い込んだ。
肺が痛くなるくらいに。
水中から引き上げられたように。

喉が引きつって、胸は激しく上下しているのが分かる。
瞬きを忘れた目は、顔の真横に投げ出された右手を見つめていた。

しばらく動けなかった。
何の夢を見ていたのだろうかと。

麻痺していた体がようやく現実を認識し、上半身を起こすことができた。

血液が、こめかみを流れている脈が、体の中で反響している。

夢の記憶はすでに、現実の視覚情報に上書きされていた。
拾い出そうとしても、頭痛がするばかり。
何も、思い出すことはできなかった。

それでもわずかな引っ掛かりでいい。
思い出したくて、夢と現実の狭間で見た手を持ち上げた。



布に包まれた膝の上

開いた両手は、白だった。









私は、何?

夢に殺されそうになりながら、目が覚める。

それだけは、忘れないでいよう。

私は、何。














「セラ! クレイ!」






入り混じった笑い声を貫いて、声が耳まで届く。
マレーラだった。

中二階から一階へ、階段を駆け下りながら手を振っている。
リシアンサスも一緒だった。






「どうしたの、マレーラ?」

先に振り向いたのは、セラだった。
長い髪が、さらりと音を立てる。

「あれあれ」

手すりに右手を預けたまま、マレーラは顎をロビーの奥へと向けた。
緑の文字が流れていく電子掲示板が、淡く光っていた。

最後の一段を残して立ち止まったマレーラの左を、リシアンサスが追い越した。

「まだみたいね」

メレンゲみたいな口調での結論。
リシアンサスは正しい。
セラもクレイも丸一日、掲示板に近づいてすらいない。

「二回目の校外授業」

マレーラの横について、三人は天井近くまで伸びる掲示板へ歩いていった。






「苦手なの」

セラは人が群がった長角板の前でため息をついた。

「掲示板が?」

いくつか瞬きした後、目じりの下がった瞳をリシアンサスが向けた。

「大きくて頭からかじられそう?」

リシアンサスの向こう側からマレーラが首を伸ばす。
はっきりした顔立ちだ。目が大きなせいだろう。

動物を連想させる。
マレーラは猫のようだ。



「食べられないように上を向いて威嚇してるの。首が痛くなって困るわ」

首が痛いのは事実だ。
怖くはないけれど、上ばかり見なくてはいけなくて首が疲れる。
だから、苦手。


「ほら、あそこ」

リシアンサスが流れる文字に、人差し指を立てた。
滝のように下に下りていく中で確かに「一年校外授業のお知らせ」の文章を見つけた。
初回はクレイがセラと出会った。
今度は第二回となる。





「いつかしら」

詳細は表題の下にまとまっていた。

「七月だ」

セラが発見すると同時に、クレイが口に出していた。

「あと二ヵ月」



クレイの発言はいつだって文章になっていない。
セラがクレイとの会話の中で発見したことの一つだった。
クレイの特性を羅列したら何番目になるだろうかと、過ぎていく文章を眺めながら考えた。


「授業じゃなくて、息抜きよね。一種の」

笑いながらセラのほうを向いたマレーラ。
その声で、セラは現実に引き戻された。

「無かったら、不完全燃焼。空気穴なのよ、私たちにとってはね」

リシアンサスがセラとクレイをへ微笑んだ。
クレイへは同意を求めて。

クレイはちらりとリシアンサスへ目を向けたが、何も言わなかった。
怒っているわけではない。
それも、セラがクレイに出会ってからはいつもの反応だった。





全寮制で、ディグダクトル外部に出ることはほとんどない。
首都が広大だという理由もある。
大抵の物はディグダクトル内で揃う。
偏りすぎているアンバランスを、外部からの編入者は感じずにはいられない。

首都の外れの森林や草原で校外授業は行われる。

「今回も、やっぱりそこだわ。前回のすぐ側よ」

完全に遠足よね、とマレーラが付け加えて説明した。

不必要なものなどない。
完全に無駄が弾かれた場所なのだと、セラは感じていた。

「計算された場所なのね、ここは」

口の中で噛み締めるような呟きを、クレイだけが聞いていた。




湾曲する外壁
広大な敷地
蜘蛛の巣のように放射状に張り巡らされる回廊と交通網。

そのすべてが揺らぎを持ちながら、同時に完全に計算されて作られている。

誰が築いたのか分からない。
このシステムを、この構造物を。

知らないまま、クレイもセラも軌道を踏みしめている。


いや、本当にクレイもその上にいるのだろうか。
セラはクレイへ目だけ向けた。





クレイはまだ、直立したまま掲示板の文字を追っていた。
リシアンサスとマレーラは雑談を始めている。





流れている。





常に動き変化していく世界の中
クレイはまるで点だった。



動かない。
変わらない。





変わろうとしない。

触れようとしない。

交わろうとしない。




干渉を拒み、自己の領域に絶対を求める。

それが美しいほど、完璧だ。






点は、決して流れて線にはならない。






それは、セラでさえ受け入れないものなのだろうか。



寂しさと不安が入り混じった瞳で、クレイを見る。

彼女は、振り返らない。


一緒にいても、この距離は変わらないのだろうか。

クレイは、何も言わない。


「課題が」

マレーラとリシアンサスの会話に混じった単語に、セラは反応した。

「そういえば、出てた気がするわ」

「気がする、じゃないわよ。確かに出てますって」

首をセラへ伸ばしてきた。マレーラの眉間にはくっきりと皺が寄っている。

「どうしようかな。まだ、何にも決めてない」




複雑な課題ではない。
百冊余りある課題書から二冊を選び、解釈をつける。
期間は一ヶ月。



「私も古典文学のファイルに閉じたまま」

リシアンサスが小さく息を吐いた。
これほどにまでマイナーな作品ばかりにしなくてもね、と。






「私はリシーとするの」

一人で仕上げるより二人のほうが、良案も浮かぶ、互いに意見を研磨し合える。
古典文学担当の教師は反対しなかった。






「決めたわ。それならわたし、クレイとがいい」



どうかしら? と笑いかけてみる。
どうでるの? クレイ、と目は挑戦している。




「構わない」

沈黙でも、視線を反らすでもなく、OKサインが出るとは。

「もう、何にするのか決めているのか」

まだよ、と笑顔で首を振るセラの表情は
雲一つかかることなく晴れやかだった。




並んでやり取りを見ていたマレーラの目は、落ちそうに見開かれていた。
リシアンサスは、右手を口元に持っていき、カメラのシャッターのように瞬きを繰り返している。









ようやっと、一歩。

いえ、三分の一歩にも満たないかもしれない。

それでも少しだけ、セラはクレイに近づけた気がした。



確信ではなく、可能性、希望。

そんなものかもしれないけれど。




前に進めた気がした。












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