Silent History 191





月が斜めに掛かる。
満月ほど白々した眩い光ではなく、微かに歪な月だった。

「不完全な月だ」
タリスはそれとなく口にして、空を仰いだ。
目に焼き付けてから時を迎える。
完璧であってはならない。
不完全の中に美がある。

歪な姿を称賛する人間たち。
彼は神徒に何を見たのか。
美しいヒト。
しかし彼らは神のもの。
手の内に在り、手に入れられないもの。
彼らを神と切り離し、檻の中に閉じ込めた。
物理的に処置してもなお手の届かないもの。

「虚ろな。人形」
彼らは土を探し続ける。
神徒がその身を沈めるべき土。
彼らが選んだ居場所を。

神と共にある彼ら。
ヒトであるはずだが、ヒトとは性質が異なる。
情緒の起伏、穏やかなるヒト。
それは神のもたらす豊穣の土で育まれた精神か。
従順なるヒト。
それは神に尽くすべく育まれた精神か。

「従順、ね」
ラナーンを思った。
常々、彼の性質は穏やか過ぎると感じていた。

あるいは逆説。
従順で保守的な人間が神に集った。
その真実は分からない。
しかしそうして神徒の血は紡がれた。

月がヴェールで顔を隠すように、薄い雲を纏った。
タリスは目を閉じる。
位置に就こう。
そこからはもう、今夜の月は望めない。
闇に、目を慣らさねばならない。
息を殺して、ただその時を待つ。




指示通りに車両を配備した。
時間をカウントしつつ、車の速度を維持。
角を曲がれば、目の前に停車していた一台の暗色の車と鉢合わせた。
相手のヘッドライトがパッシングする。
道幅はあったが、こちらの車は後ろに引かない。
なおもライトは点滅し、相手を威嚇し続ける。
一方通行の道に、こちらが頭を突っ込んでいるのだ。
相手が怒るのも無理はなく、徐々に苛立ちは増しているようだった。
こちらの車はヘッドライトを高くして、相手を照らし続けて応じる素振りはない。
我慢比べに熱を持ったのは相手の車だった。
ヘッドライトでも気づかない鈍感め、とクラクションを鳴らしたが、それも数度で途絶えた。
建物の間を反響する音に、頭が冷えたのだろう。
人が集まるのが一番まずい。
だが、このまま事態に人が立ち入るのもまずかった。
早く、この障害を取り払わねばならない。
ライトを点けたままでとうとう、硬い扉は開いた。




タリスは二階の窓辺に待機していた。
微かに濁りはあるものの、階下を見通せる滑らかなガラス板を前にしている。
特殊加工されたガラス板は、タリスが注文した以上にできの良い品だった。
短時間で、望む以上のものを調達できる男の手際を信頼していた。

ライトの点滅が早くなり始めると、タリスは右手へと目配せした。
男は頷いて、ガラス板に手をかける。
ライトからクラクションに切り替わる。
車の中の焦りが手に取るように分かる。
予定通りだ。
タリスは弓を持ち上げた。
焦るな、まだだ。
緊張が腕に走る。
筋肉が固まり重かった。

外からはこのガラス板は、隣のガラスと同じように見える。
違和感はなく仕上がっているはずだが、気づかれないかと背中が寒くなる。
内側からの視線に、彼らが気づけば終わりだ。

クラクションが静まり、一瞬の沈黙が落ちる。
ガラス板に手をかけながら、男もタイミングを読んでいる。
一連の鍵となる、彼の手の動きに掛かっている。
弓を構えて、ゆっくりと絞っていく。
車の扉が微かに開いた。
それを目で捕らえた男は音もなく、タリスの横でガラス板を手前に引いた。
タリスの視界が取り払われ、風が吹き込んだ。
開け、扉。
眼下、車から一人の男が滑り出した。
開いた扉と車体の僅かな隙間を狙い、絞った弓を解放した。
矢は空気を裂く。
矢先は見事、車内へと滑り込んだ。

タリスは息を殺して後退した。
外界と彼女との間に、再びガラス板が嵌められる。
成功か、すべては予定通りに?
震える指が、弓を取り落としそうになるのを、握りこみ奥歯をかみ締めて下界を見下ろした。




一方通行を無視して突っ込んできた非常識な車。
頑固にも動こうとしない車に、仕事を阻害され車から飛び出した。
男は背後で風を切る音を耳にし振り返る。
だがそこで彼の記憶は途絶えた。

もう一人の男は運転席にいた。
車内に何かが飛び込んできた。
鳥かと思い、それとも外に出た男が何か投げ入れたのかと、助手席を探った。
手を伸ばして布の包みに触れたところで意識が落ちた。




外にいた一つの影が地面に崩れ落ちたのを見て、アレスが飛び出した。
黒衣を纏い、布で鼻から下を覆っている。
運転席を覗き込み、席に身を埋めて弛緩した姿を確認して、左手を挙げて合図した。
ラナーンが駆けつける間に、後部座席の鍵を中から開錠した。
ラナーンも同じく黒衣に顔の半分を覆った様相だ。
彼はアレスの背後を通り越し後部扉に張り付くと、扉を開け放った。
かなり怯え、暗いながらにも顔面が蒼白なのが見て取れる。
座席で身を寄せていたのは二人だった。
薬を吸い込んだのか、意識が薄らいでいる。
二人に布を押し付けて、ラナーンは覆った口を指差した。

「口、押さえて。大丈夫、怖いことはもうないから」
足がすくんで動けない、あるいは突如現れた二人組みを恐れているのか、口を結んだまま動こうとはしない。
どうすればいい。
このままではまずい。
ラナーンの背後でアレスは地面に転がった男を掬い上げ、助手席に乗せ終えた。

「大丈夫」
ラナーンは息を吸い込んでから、指で鼻先の布を引き下ろした。
二人はじっとラナーンの顔を見つめる。

「行こう」
二人の手を引くと、今度は二人とも素直にラナーンへと従った。
ヘッドライトは光を下に落としている。
待機していた車のライトはアレスが運転席に手を伸ばして消しておいた。
ラナーンが手を引く二人の背をアレスが支えた。
車は四人を収容すると、後退して夜闇と車の波へと融けていった。




「撤収だ」
アレスが車から飛び出すのを確認し、タリスは男に声を掛けた。
男は特殊ガラスを再び外すと、窓枠に本来の窓を嵌め始めた。
きちんと手順をシミュレーションしたのか、動きに無駄も焦りもない。
外した特殊ガラスはかなりの大きさだった。
抱えて夜道を走るには目立ちすぎる。
男は鞄から工具を取り出して、ガラスに線を引き始める。
格子状に手を動かすと、線の上を木槌のようなもので叩いた。
下に敷いた布が音を吸い取る。
あっという間に板は分断され、鞄に収まるサイズになった。
その間、三十秒ほど。
アレスが運転席の方に上半身を潜り込ませるとすぐ車のライトが消えた。
外に出たシルエットには、矢と袋が握られている。
回収も完了。

タリスの隣では男がガラスを重ねて布に包み、袋の中に収めた。
その建物の下ではラナーンが二人を車から引っ張り出していた。

「状況はいかがです?」
男が監視塔のタリスを呼んだ。

「良好だ。準備は?」
「完了。行きましょう」
聞いてタリスは先に部屋から出た。
男が部屋の出口で立ち止まる。
振り返って室内にボールを投げた。
手の上に乗るほどのボールは空中で高速回転しながら弾ける。
タリスはその機械仕掛けを見ていたかったが、その後を見届ける前に男は扉を閉じた。

「ボールの殻は?」
「溶剤に融けて気化、消失します」
痕跡は残らない。
完璧だ。

「毎回、すごい細工だ」
「そういうのが得意な者がおりまして。もともとは神徒の祭事で使われていた技巧で」
男は口を噤んだ。
扉の鍵が元のように施錠し終えたからだ。

「あのボールが欲しい」
「うっかり投げたら、部屋中が埃塗れになりますのでお勧めしません」
外でやれば目立つ上に大惨事になる。
一階に降りると、通りとは反対側の出口から外に出た。
外に出れば、二人は老紳士とその令嬢の風体となった。
老紳士の手にはブランド店の紙袋が下がり、娘は脇に白い皮のバッグを挟む。
男の紙袋にはガラス片が、娘のバッグにはまさか折りたたまれた武器が入っているとは誰も想像しない。
買い物と夕食を終え、時折談笑を挟みながら仲良く肩を並べて帰る親子の姿がそこにあるだけだ。




ふわふわと月が浮いていた。
水の中から見上げた空のように、頼りなく、おぼろげで。
水の中で泳いでいるのは、自分の頭なのかもしれない。
手が、温かかった。
優しい温もりを辿って、黒衣の袖を辿って見上げた。
フードの端から艶やかな黒髪が零れる。
車の灯りに照らされてきらきらと光っていた。
昔、本の中で見たのか、どこかで見たような懐かしい顔立ちをしていた。
信じていいんだと、体が気持ちより先に受け入れた。

背中に触れたもう一つの手の持ち主を見上げた。
整った顔。
見慣れているようで、神徒に近いようでどこか遠い。

「えにし」
口にして、すぐに唇を噛んだ。
歩みが遅くなったのに、手を引いた人が振り返った。

気分が悪い? そう覗き込んでくる。
小さく首を振り、救いの背中を見つめて月の夜を歩いた。











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