Silent History 189





甘い匂いがする。
脳の芯が痺れて緩む感覚だった。
ほの明るい部屋、暖色のカーテン。
靴は柔らかく毛の長い絨毯を踏み締める。
雲の上でも歩いているように体が浮き沈みする。
部屋の中は暖かで、静かで穏やかな音楽が床を滑るように流れる。
雰囲気が人を酔わせていく。
体の内側、深いところからじわじわと溶かしていく。
空気にゆっくりと同化していく、身を任せる心地よさがあった。
隣から、気遣う声が忍んで聞こえ緩んだ精神を引き締める。
律しろと奥歯を噛み締めた。
袖口に潜ませた錠剤のざらざらとした感触を指で触れ、現実を確認した。



重い影を落とし迫り来る巨大な城を前に、冷たい汗が顎を伝う。
緊張と動悸とで血のめぐりが良くなった脳は、光と情報を呼びこみ、現状を目覚ましく分析し始めていた。
車両が敷地内に入る際に一度、家屋に運び込む際にもう一度と、二度の検閲を受ける。
定期納入は二日に一度行われる。
豪奢で重厚な鉄門と検閲を潜り、裏庭の脇へ滑らかに滑り込んだ車両はエンジンを止めた。
門扉での検閲の時には一つしか見えていなかった頭が、停車時には二つに増えている。
車両から流れ出た台車は、舗装された地面の上を肉付きのいい作業服の男に転がされて砂粒を踏み潰しながら進む。
裏口の搬入扉の前につけた。
上には紙箱が並び、果物に野菜、穀物などが詰まっている。
裏口の脇に立っている警備員と一瞬視線を擦り合わせ、中に台車一台と搬入作業員二人が通された。
薄緑の作業服の一人が先を行き、もう一人が後につく。
小柄な方の運送業者が後ろ手に扉を閉めてすかさず、荷から体を離すと柱と壁の陰に身を寄せた。
一人は野菜をいつもの作業手順の通り、一定のリズムで箱から取り出して指定されている搬入用の台の上に並べていく。
壁際で作業服の上下を手早く脱ぎ腕の中に制帽ごと丸めこんだ。
作業服の下には肌に張り付く黒服を着こんでいる。
丸めた作業着をボールをパスするように、野菜搬入作業中の男に投げ渡す。
受け取った男はすぐさま空箱の底に押し込むと、果物のベッドに使っていた緩衝材を被せた。
最後の箱が空になるのを見ることなく、身を翻してその場を離れた。



胸が高鳴る。
ほんの少しの甘い緊張。
一つでも手順がずれれば、少しでも気が緩めば、捕らえられてしまう。
ぎりぎりのところを爪先立てて。
息を殺して、身を伏せて、猫のように、体中のあらゆる神経を解放して。
舞踏のようにしなやかに、繊細に。
読んで聞いて見るのは空気の流れ。
匂いで、触れて、感じて。
目立つ長い金糸の髪は布で纏めた。
深紫のヴェールに蘇芳のドレス。
紅を引き、情欲を煽る。
色香というのは慣れていないと使いこなせないものだと言われた。
十七八の小娘に自在に操れと言われてもと笑い飛ばしたものの、それが役割とあらば全うせねば女が廃る。
スイッチを切り替えて、女優になること。
仕草に視線に声色に、手解きは受けた。
踊りの心得があるなら大丈夫だとお墨付きも貰った。
後は、呑まれない度胸。
壁伝いに忍んで、扉に体を滑り込ませて見張りをかわして。
部屋に辿り着けば、腕に上着を引っ掛け胸元を大きく開いた半裸の男がソファから身を起こしていた。
夢に融けかかった目がこちらに向いている。

「ディーバはどこだ。歌を所望した」
「夢なら私もみせてあげる」
薄絹のヴェールを光に透かせて、腕を高く持ち上げた。
綺麗な色だ。
月に馴染んだ夜の空。
悠然と流れる闇の雲。
指はたゆたう。
腕は柔らかくたなびく。
美しい流線型を描く身体を捻らせて、重心をぶれさせぬように長い脚を上げた。
際どく、妖しく、欲情の上を掠めていくような危うさ。
軽やかに艶かしい脚が床を跳ねる。
音は厚い絨毯吸い取って、部屋に流れる音楽に同調して身体は筋肉や間接の硬さを忘れていた。
風の精のように自在に空気を泳ぐ。
片腕をソファの背にかけていた男は食い入るように見つめていた。
脚がふわりふわりと宙を切る。
体が回り、軽いヴェールも流れる。
ヴェールが男の頬を掠める。
胸元を撫でる。
漂う煙のように、ヴェールに戯れる、男を視線で弄ぶ、妖しげな女の姿が男の心を絡め取る。
右手で左頬を隠すように動きを止めた。
肘の先から濡れた視線を流す。
成熟より少し前の可憐さと大人の艶やかさの交じり合った新鮮な色香が刺激的だ。
女が目を閉じた。
男が瞬きをした。
気がついた時には男の目の前に女の腕があり、白い指先は男の硬い顎鬚に触れていた。
頬骨、耳、指が上に上がっていくにつれて男の息も上がっていく。

「甘い香りは、お好き?」
瑞々しい声が大人びた紅い唇の奥から流れ出る。
女はゆっくりと胸を息で満たした。
膨らんだ白い胸が、男の視覚を奪う。
男が応える間もなく、男の鼻先で脳髄を溶かすほど甘く痺れる香りが弾けた。
息を止めたままカウントが始まる。
動かないで三十秒。
男が落ちたのを確認して、壁際に身を離す。
右耳の耳飾を指で挟み込むと、強く押し潰した。
爽やかな空気を鼻腔から吸い込んだ。
大丈夫、意識は正常。
手のひらを開いた。
中には小さな鍵が握りこまれている。
男の左尻から掠め取ったものだ。
合致する戸棚はどれだ。
見回した中で、ガラス棚が目に留まった。
鍵の飾りと棚の蝶番の装飾が重なる。
穴にそっと鍵を挿し進めた。
奥で小さく音を立てる。
琥珀の酒瓶が並ぶガラス扉を開いて、小さな引き出しを端から順に指を掛けた。
煙草、ライター、お気に入りを詰め込んだ男の小箱。
そして、宝物の地図。
頂くのはその絵柄。
黒い棒を広げた紙の端に押し当て、慎重に左から右へと転がしていく。
一度、二度、三度。
三枚の書面、漏らさぬよう頭の中にも文字と図柄を叩き込む。
元のように丸めてそっと引き出しの中に戻した。
ガラス戸を閉めて、鍵は夢の中を泳いでいる男の尻へと押し込んだ。

「ディーバは来る、二分後にね。私は夢の中だけに」



赤紫色の縦に長いシルエットが廊下を滑るようにこちらに向かって歩いてきた。
妖艶な腰を抱き、細い手首を強引に引き寄せて、空き部屋に引きずり込みたい衝動に駆られるはずだ。
彼女の姿を知らぬ男ならば。
劣情をぶら下げながら間合いに踏み込んだが最後、花の蜜を吸おうと近寄ったことを後悔することになる。
どこに護身用の刃を仕込んでいるか分からない。
明朗快活で柔軟な思考を持つ女ではあるが、彼女が決めたある一線を越えた者には容赦はない。
慣れない者には非常に扱いにくい代物である。

「どうだった?」
「実に順調。二階、十八号室手前のワードローブで回収して。あとこれと」
長く黒い棒を手渡された。
人の肘までの長さ、直径は親指二つ分、これに情報が詰め込まれている。

「私は回収班を大人しく待つ。一番先に星空が拝めそうだ」
娼婦の扮装を脱ぎ捨てる彼女を清掃員の男が連れ出しに来る。

「色気、剥げてきてる」
「後少し、気を引き締めないとな」
子どもっぽい無邪気な笑いは紅い唇には似合わない。

二階に上がる足取りは重い。
預かり物は目立たぬよう腰に結えた。
衣装の下に収まる計算だ。
指定された部屋に侵入し、ワードローブの中にあった衣装を広げる。
暗色のヴェールとドレス。
よかった、まだマシだと胸を撫で下ろした。
衣裳部屋から引っ張り出してきたものだ。
黒い髪が目立たぬように、深い色のヴェールを持ってきた機転に感謝した。
露出度の低めのドレスを上から被り、三階への階段を探す。
廊下の突き当たりに吹き抜けを半周する螺旋状の階段があるはずだ。
左右の手首には腕輪が鈴の音のような澄んだ音を立てる。
大扉を横目に、右にある重厚な扉を微かに開けてみた。
中で男が本を読んでいるのが見えた。
顔は本の影で不明、ベッドの上で片膝を立てて横になっていた。
素足の指が開いたり閉じたりと動いているのだけが見える。
扉の隙間から、手のひらより小さいボールを慎重にかつ丁寧に転がした。
一、二、三。
命中精度は何度も練習したが、投球速度には絨毯の毛並みの抵抗を考慮しなくてはならない。
ボールは絨毯の上を走り、具合よくベッド脇へと潜り込んだ。
四、五、六。
止まれ、止まれ。
絨毯がボールを捕らえてひとまずは安心。
七、八、九。
ふわり、とボールから薄く細い煙が立ち上った。
花のような匂いは幻惑の香り。
無色の煙は静かに床から天井へと危うい香りを運んでいく。
手先の感覚を奪い、筋肉を弛緩させる。
カウントしながら、時間が三十まで刻んだのを待って、ヴェールで鼻から下を覆い隠した。
徐々に灯りを絞り、部屋の隅が暗闇で濁った。
足音を殺して部屋に踏み込む。
本を胸に落とした男が、泳いだ目で天井を見つめていた。
男が横になっているベッドの傍らに腰を下ろした。
沈み込む方向に目だけを流して、男は口を薄く開く。

「お前か。なぜ」
硬い箱の中に押し込めたはず。
決して外に出さぬようにと。

「こわいの」
高い掠れた声が男の耳元で囁く。
大きな瞳からは熱い涙が流れる。

「邸宅の男は無茶をする人間じゃない。傷はつけさせない」
「でも、こわい」
「お前と月の光をお望みだ」
「月」
「装飾ガラスを透かして注ぐ月光が美しいのだそうだ」
男は手を持ち上げようとするが力が入らない。

「何とも美しい、神徒の容。神々に愛された種族、人に疎まれた種族」
指先は震えて、空気を掻く。
香りは男に効いているはずだ。
神経は麻痺させてあるはずだ。

「愛しく憎い、決して手に入らない、決して穢れない」
男を見下ろしたまま、動揺を握りつぶす。
捕らえられ、ヴェールを剥がされたら男は夢から覚める。

「不完全な月、あと僅かに満たされないもどかしさが愛しい」
右腕を持ち上げた。
男の耳の側で腕輪を振った。
息を止めて三度。
煌く白い粉が男の鼻先を掠める。
揮発性で粉は空気に溶けた。
完全に眠りの底に落ちた男を確認し、ベッドの脚に転がっていた空のボールを潰して回収する。
静かに立ち上がるとドレスをはためかせて、足早に部屋を横切った。
喉が痛い。

巡回警備の動きに注意しながら隙を縫って半螺旋の階段を駆け下りる。
一階への階段を目指すと、階段下の部屋へと身を滑らせた。



「手ほどきがほしくてね。彼はこう見えてなかなかに硬派が過ぎるところがある」
中年の男が気さくに肩を叩いてきた。
シナリオ通りだ。
緊張した面持ちで背筋を伸ばせと言うト書き。
緊張しているのは事実。
だが男の台詞にあるように女への緊張ではなく、任務遂行への緊張だ。

「私の仕事の一端を任せるとなると、女性の扱いにも慣れてもらわねば」
この男がどのような役者なのかは不明だが、ここはただ黙っていればいい。

「後は君に任せよう」
男は別の女を伴って続きの部屋に消えた。
それを横目で見届けて、娼婦が手に手を重ねた。
生温かい感触が手を包み込む。
軽く立てた爪がこそばゆく、じらすように肌を撫でる。
手に手を取り、女が自分の滑らかな肩へと導いた。
首を微かに傾けて、色事の間合いを探る。
左手をそっとこちらの頬へと押し当てる。
顎を伝って、首の筋を辿る。
鎖骨の窪みに指を這わせて、その骨のラインを愛しげに行き来する。
あまりここで時間を取りたくない。
手早く仕事を。
女の肌の湿りに別れを告げ、細い腰へと手を這わした。
白い顎を反らせて、か弱い首が露わになる。
動脈に舌を押し当てて口付け、舐め上げる。
攻守交代。
不意打ちの仕掛けに、手練れの女が翻弄される。
胸元が露わになる頃には息が上がっていた。
耳から攻められ、鼻先に唇が掠める。
視線が重なるところで、目が逸れた。
じれったい、焦らされる、と女が熱い息を吐いた。
頃合いだ。
袖口に備えていた錠剤を左手で摘み出し、女の頭を腕が回りこんだまま、彼女の耳の傍で前歯の間に挟み込む。
薄く開いた女の赤い唇。
そこに舌を押しいれた。
錠剤は下の先端から挿しこまれ、女の上顎を滑って喉へと運ばれる。
舌で舌を弄り、娼婦らしからぬ慄きを思いだした彼女を強引に捩じ伏せる。
少女のように頼りなげに胸元に縋りつく彼女の背中を支えて、肩から背中へと愛撫した。
上半身を肌蹴た女は、湿らせた目を天井で泳がせながら腕の中でゆっくりと力を失っていった。
薬の効き目は約一時間。
女の胸元を整え終えた頃に、ちょうど待ち人が姿を現した。

「なかなか似合うじゃないか」
「好きじゃない。代わろうか? 以外に似合うかもしれない」
「交代してもいいが、お前が俺だったら完全に食われてたぞ」
黒の衣装で、頭から被ったヴェールが顔の半分に陰を落としている。
人相はほとんど隠せていた。
同行者の中年の男が希望した、目の前で眠っている娼婦と背格好が似ている。
服の色味も、この女は黒を好む。
仰向けの彼女を置いて、立ち上がった。

「堂々と歩け、歩き方も予習通りに」
「裾が脚に絡まって歩きにくい」
警備の人間は怪しい人間には反応するが、出入りするのが客と娼婦なら問題はない。
同伴で外に出ることは良くあることだ。
部屋の中で転がった娼婦は、同行していた中年の男が処置してくれる。
彼女として外にでた黒衣の娼婦は、一時間後には再びこの屋敷に戻ることになっている。
記録の上では。
仮装した娼婦に並んで、正面玄関の階段を下りた。
目の前には手筈通り、車が一台回されて来た。











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