Silent History 185





温かい。
包まれる温もりと懐かしい匂い。
体の一部に同化した匂いだ。

目を開ければ暗く、しかし安心できる場所にいた。
先ほどまで粒子の塊であった不確かさが消えている。
固定化された個が、確かなものが、明確な感覚が安心させてくれた。
他に取り込まれることなく、他と融け合うことなく、皮膚という隔壁が自他を分かつ。
他を感じることができる。
肌を触れ合わせ、匂いを胸に吸い込んで、耳に沁みていく声を聞いて。
きっと、ここは生命が生まれた場所に近いところ。


そこは腕の中だった。
重い眠りの淵から顔をもたげる。
絡みつく睡魔の縛を剥ぎ取りながら瞼を持ち上げた。
頭には幾重にも蜘蛛の巣のように靄がへばりつく。

頭上から押し殺した嗚咽が聞こえた。
なぜ、泣いている。
泣く必要がある。
だれがお前に涙を流させる。

ラナーン。
名を呼ぼうと喉を広げるが、微かに喉仏が動いただけで声にはならない。
その髪を撫でてやりたいのに腕は痺れたように力が入らない。

泣くな、と声を絞った。
細い息が漏れるばかりでラナーンには届かない。
濡れた体がアレスに覆いかぶさり、強く肩を抱え込んで離さない。
鉄球を結わえたように自由にならない腕を、ようやっとラナーンの背に押し付けた。

「どうした」
「よかった、ちゃんと戻って来てくれて。アレスを返してくれた」
「何か、見えたのか」
返事の代わりにラナーンが呻いた。

「光の粒子たちの世界。アレスを返してくれたのは、セラだ」
「誰だ」
「ディグダの子。セラ・エルファトーン」
ラナーンは同じ光景を目にしていたのか。
最後に少女の声を聞いた。

「俺をここへ押し返してくれた」
ラナーンの濡れそぼった頬に指をかける。

「その子を思っての涙か」
「セラはそこに残ったんだね」
「あるべき場所に、それぞれが戻った。そのセラは、神か何かか」
「ひとだったよ。出会ったときはね。でも今は、分からないんだ」
ラナーンは抱えていたアレスの背中を撫でた。
自分を慰めるように、温もりを取り込もうとするかのように何度も撫でた。

「頭に一度にいろんなものが入ってきたから。混乱してる」
アレスも頭が痛かった。
今日は脳を酷使しすぎた。
意識を飛ばすにしても、穏やかに眠りたい。

「俺と同じものを見たのなら読み解いてくれ。あれが何なのか」
謎解きはアレスの方が得意だろう? とラナーンは呟いた。
外れていてもいい、少しでも考え方の道が欲しいとアレスは説いた。
誰かと情報を共有して、話し合うことで絡み合った糸を解したい。

「あれは水の記憶。サロア神は、きっと目覚めるよ」
「なぜ目覚める。神門(ゲート)が緩んでいることと関係があるのか。神は言った。あれは神などではないと」
「目覚めたところで何もできないって?」
「再び神門(ゲート)を破壊しても意味がない」
そもそも自らの手で葬った神も神門(ゲート)ももはやそこにはない。
あるのは破壊されつくした残骸の石屑と口を開いた時空の裂け目だけだ。
神でないサロアに裂け目を接ぐことなどできはしない。

「卵の殻は水の神さま。そうだよね」
「あんなに強い力は、おそらく」
その最奥にいた弱々しい光の正体にアレスはまだ狼狽していた。
ラナーンは体をアレスから離し、日の熱で温まった小石の上に腰を下ろした。

「樹霊姫はアレスを追ってきた。水神、藍妃もきっとアレスと繋がった」
「藍妃はなぜサロア神を凍結させていたんだろう」
「それってサロア神が眠りについた意味ってこと? そんなの」
サロアが眠ってからこれまでシエラ・マ・ドレスタの学者たちが優秀な頭脳を集結させて研究し続けても解けていないことだ。
彼らが暫定的に下した結論、あるいは信仰は、崩壊のそのときに救世主は目覚める。
だが真実はそれとは限らない。
ラナーンやアレスが今この場で、その真実に辿り付けるはずもない。

「分かったことはある。サロア神は自らの力で氷の中に閉じこもったのではないだろうこと」
「自ら、崩壊の日の救世主たらんとして、ではなくて?」
再び世界に再来するためではなく。

「サロア神を抱え込んでいるのは藍妃。神の配下だ。つまり神が眠りを望んだってことになる」
「神の意図ってことか」
何のために、とラナーンは口にしようとして止めた。
結局のところ三女神が何を考えているのかなどさっぱり分からない。
アレスに接触を図ろうとしたり、眠らせたサロア神を目覚めさせようとしたり。

「サロア神の力も良く分からない。彼らのいうところの黒の王、竜王、そして神王。それを封じた力だけど」
肝心の神王は彼ら自身に封じられ、もうこの世界にはいない。

「押さえ込むべきは夜獣(ビースト)。魔だ。だが破壊しか成し得ない人間に何ができる」
必要なのは神門(ゲート)の再生だ。
その上で森で緩衝地帯を構築する。
数箇所だけではない。
何百、あるいはもっと多数。

神々が望むのは世界の再生だ。
世界の安寧の名の下に破壊を尽くしたサロア神が目覚めたところで何の役にも立たない。
むしろ神門(ゲート)の再生を阻むだろう。

「神に聞くしかないんだな、最後は」
気づけばタリスが岸壁伝いにはるか離れたところで手を振っている。
彼女の前を流れる川の中ほどに大岩が居座っており、その上にリルの母親が脚を揃えて座っていた。
美しい女性だ。
水を滴らせ、どこともなく目をやっている姿は人魚のようでもある。
神徒という種族は不思議なものだ。
ラナーンにしても、リルにしても、これまでの信徒たちはみな揃いも揃って風貌が整っている。
愛でるによし、ゆえに悲劇も生むのだろう。

「帰るぞ! 日が暮れる」
谷間の日暮れは早い。
人家もないこのあたりは闇に被ったら何も見えなくなる。
日がかげれば気温も下がるだろう。
濡れた体では一気に冷える。

人魚が水の中に滑り込んだ。
その影にいたもう一人も彼女を追った。
本当に水が好きなのだろう。
流れの緩いところをするすると上っていき、ラナーンたちの目の前で顔を上げた。

剣を何本も抱えたままタリスが危なげなく岩を飛び越えて、河岸を走ってくる。
あちらが人魚ならば、こちらは戦の女神といったところだ。
戦場の中ほどに立ち、剣を腰に結えて光差す空を仰ぐ。
油彩の中で雄々しくも気高く美しい女神像が目の前に浮かぶ。
相当な剣の重量の上、足場も悪いというのに優美な体は軽やかにラナーンたちの前に着地した。

「私も帰って少し眠りたい。それからリルに」
剣をアレスに返した後に女神は小さく欠伸をした。

「地図を借りて、眺めてみることにする」
「ファランが先に帰って部屋を暖めてくれているわ。お湯も用意してくれるって」
「本当に気の回る男だ」
リルが半ば誇らしげに、半ば感心して館の方を仰いだ。

「リルにはもったいないってずっと言ってるの。私やリーファーレイと一緒にいてくれたらとってもいいのに」
「それって便利っていいたいだけ」
「リルより丁寧に扱うわ」
「あげないよ。もう、毎回本気でほしがるのやめてほしい」
リルがリーファーレイの手を引いて駆け出した。

「じゃあさリーファーレイをくれる?」
振り返ってリルが母親に向かって叫んだ。

「だめよ! 絶対いや!」
息子を追って母が走った。
子どもの取り合いのような無邪気な会話だ。
しかしどちらも本気だった。

「可愛らしいひとたちだ。純粋で。美しいんだよ」
タリスが目を細めて彼らの後姿を追った。
神徒の悲劇や陰りなどどこにもなく、ただ美しい。
彼らにこそ生きていてほしいと思う。

「別れ惜しいな。いっそ、全部まとめてファラトネスに連れて帰ってしまいたいくらいだ」
「タリスなら本当にしそうでこわい」
ラナーンが女神の傍らで呟いた。











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