Silent History 176





風が耳の横を抜け、空を揺さ振るように天空で渦巻いている。
視界の端を雲が駆けていく。

緑の海に浮かぶ孤島のようだった。
不思議な光景だ。

遺跡の最上階からは世界が見える。
おそらく、かつてここで文明を営んできた神徒たちの世界が、目の前に広がっていた。

誰の地を侵すこともせず、この地を穢されることもなく、深遠の森の奥で静かに生きてきた。
遺跡がそのまま、彫刻が削り落され破壊されることもなく残っているのは、その証だ。

しかし、ここにいま彼らはいない。
彼らはなぜ消失した。
彼らはこの地を棄てたのか。
あるいはこの地で果てたのか。
だとしたら骸はどこにある。
墓標は道々に立ってはいない。

リーファーレイは知っているのか。
もしくは、その目で見てきたのか。

彼女は磨崖の前で佇み沈黙していた。
大石を運び、ヒトの形を彫った。
それを祈るように見上げていた。

「みんな、祈ったの。彼らの希望であり、救いである神さまに」
幼く上ずった声だったが、妙な落ち着きがあった。
彼女もまたここで何度も祈ったのだ。

「来るたびに思う。重なる。神さまはそこにいるものじゃない、宿るものなんだって」
「依代か」
アレスがリーファーレイの背後に踏み出した。

「神が守ってきた門、神門(ゲート)は神が宿る社か」
これはリーファーレイに対する質問ではなくアレスの独白だ。
雲のような概念を形にしたい。

「地脈そのものがカタチの無い神だとするならば」
「それが樹霊姫(ジュレイキ)だというのならば」
ラナーンがアレスの言葉に乗った。

「その一端に触れたカリムナは依代」
「さしずめ、油に浸した紙縒りのようなものだな。炎を灯せば燃え続ける」
タリスの持ち出した例えは図形化するのに大きく外れてはいない。

「これに神がいたとしても不思議ではないってことか」
悪くない話だ。
願いは通じる。
祈れば神は宿る。
タリスは半円ドームに守られている石像を眺めた。

「樹霊姫はきっと、地脈の結晶みたいなものなんだ」
ぽつりとラナーンが口にした。

「カタチの無い、大きな力の奔流の、結晶みたいなものなんだと思う」
壁の中に描かれた三女神はまるで炎や水や木々のなかから生まれた姿をしていた。

「彫刻師たちは私たちが住んでいる館にいてね。この塔は神さまを祀る建物だった。宴も儀式の一つ」
「君は、神徒や神のことをどれほど理解しているんだ。ここには書物はない」
「あったよ。聖典や戒律といった厳しい縛りじゃなく。人の願いや優しい物語があったの」
子どもに聞かせるような、寝物語。
神さまがいて、ヒトがいて、崇拝と共存、祈願と感謝。

「全部、焼かれていたけど。かき集めて、いろいろ思ったよ」
ここにはどんな世界が広がっていたのか。
ここにいた人々の思考を、思想を。

「焚書か」
タリスが眉間に皺を寄せて鼻息を荒くした。
思想の弾圧、神徒への迫害は目に触れたことはなくともこれまでの旅で耳にしてきた。

「だが襲撃された形跡はない。むしろ掃除して出て行ったかのように綺麗だ」
神徒が消えて何百年経ったか知れない。
だが生活臭をすべて溶かし流してしまうほどの力が年月にあるとも思えない。

「焼かれたんじゃなくて、焼いたとか。見られたくなくて」
ラナーンが顎に指を押し当てて考え込む。

「誰に」
「外の、ひとに?」
ラナーンから視線を反らして、タリスが屋上の端へと寄った。

「あんまり端に行くと危ない」
アレスの忠告に、屋上の縁に左脚を乗せて体を支え、これでいいだろとばかりに一瞥した。
天然の要塞だ。
森、森、森。
誰も踏み込めそうにない深い森林だ。

「とはいえ、私たちも普通に歩いて来られたんだから、難攻不落どころの話じゃないな」

タリスが心地良い風に目を細めながら、背後にいる三人を振り返った。
リーファーレイが膝を落として見上げている石の中には、一際温もりを帯びた像が彫られていた。
僅かに体を反らして何かを抱えている。
絹の折れ目も分かるほど丁寧に彫り込まれ、ドームに守られていたため劣化が少ない。
薄目を開けたその視線の先には大切そうに胸に抱えた布に包まれたものがあった。
胸の下から切り替えられたエンパイアラインの柔らかなシルエット、肩から零れ落ちる薄絹。
首の曲線と優しい目尻から、その腕に抱えているのは彼女の子どもだと分かった。

「これは、誰だ? 人間、か」
人の形をしている。
人の姿と空気を纏っている。

神には人と隔絶した侵しがたい雰囲気があった。
技巧を凝らし、練り上げられた荘厳であり、艶美であり、威厳であり、神秘である。
三女神の嫋やかな手や指先。
どこに向けるともない瞳は、包括されたこの世を映し出している。
彼らに目はあっても、それは人の目とは異なる。
彼らは彼らの意識でもって複眼的に世界を見ていた。
三女神は世界に散らばり、世界を巡る。
雄神の雄々しさと豪胆さ、均整のとれた肉付きに無駄はなかった。
女神の優美さたるはこの世のものとは思えない。
天上に浄土、楽園、そこに佇むのが相応しい。
そこに戦いはなく、諍いもない。
どこに在るともしれない、神々の御座す神々の地だ。

その中、目の前の美しい女神像が現れた。

「これは、神じゃない。神は子を作れないんだろう」
そうだろう、とアレスがリーファーレイに質す。

「そうだ。マリューファが言ってた。神王妃は人の子だって」
人の身であり、最高神に娶られた神王妃。
彼女の生きざまの一端を神徒の里で目にした。
歴史には織り込まれたなかった女神。

神王と神王妃、彼らを取り巻く神々。
その舞台はひとつの大神殿。
今は水に分かたれた何処かの孤島だった。
水に深く沈んだとも言われ、存在すら未知の土地。

神々はそこで業火に焼かれ、神王妃は剣に倒れた。
神王は、歴史書が事実ならば神門(ゲート)の奥深くに封印されている。
樹霊姫は神王妃の屍を抱き、折り重なり大樹となり、森となり、神殿は神王妃や神々を呑みこんだまま消失した。

マリューファは言っていた。
神に子を生せないと。
神王も神王妃もそこで潰えたのだと。

「じゃあこれは神王妃じゃないのか」
神々の頂上に座して、石に深く刻まれた。

「神王妃だよ」
今さら何を言ってるのという顔でリーファーレイがアレスを振り返った。

「じゃあこれは何なんだよ」
アレスが示したのは神王妃が抱えている子どものことだ。

「あれは神王妃の子ってことじゃないのか? つまり神王の子。いや、神王の子じゃないのか」
だったら誰の子だ。
アレスは混乱した。

「神王と神王妃の子。神王妃とともに殺されちゃったけど」
「いたのか、子どもが」
存在が衝撃だった。
もっともそれは人の生み出した物語の一編かもしれない。
だが、事実だとしたら。

「神と人の子。そんなことが」
文字通りに、アレスは膝から力が抜けその場に屈みこんだ。

「アレス。大丈夫か?」
気が昂っているアレスは珍しく、それを見ているラナーンが焦って彼に駆け寄った。
腕の下に手を差し入れて体勢を整えると、ドームの壁に寄り掛からせて座らせた。

「お前こそ驚けよ。お前の同族の誰かと神さまが結婚してたかもしれないんだぞ」
「うん。なんか変な感じ。それに、どんな人だったのかは気になるけど」
それが真実だとしても遠い昔の話だ。

「どうしてアレスが動揺する必要があるんだ」
狼狽している。
ここまで気持ちが揺さ振られるのに自分でも驚きだった。

「本当に。誰かさん絡みのこと以外、憎たらしいくらい平然としてるっていうのに、一体どうしたことだ? ん?」
タリスが訝しげに座りこんだアレスを覗き込む。

「さあね。だが、この姿。どこかで」
アレスが像を見て目を細める。
記憶の底に沈めた、どこかで見た何かと必死で重ねようとしていた。

「神王妃の像は道々で見てきただろう」
「ああ。だがもっと鮮明な。明るい」
どこだ、思い出せ。
イメージの糸先は掴んでいるんだ、とアレスは念じた。

「アレス。そのうちに思い出す」
ラナーンがアレスの肩に触れた。
その感触、その熱がアレスの記憶を繋いだ。

「凍牙だ」
「トウガ? ああ、凍牙。デュラーンの山?」
「ああ、その洞窟だ」
「何か聞いたな。ええっと、ファラトネスにいたときか。そうそうアレスとラナーンが、山に登ったとか言ってたな」
光に包まれた人のカタチ。
それと直接話ができたのはアレスだ。
その、光の輪郭に重なる。

お前は何だと尋ねた。
それに光は、人間の肉体を持ち、それに背くは罪だと返した。

「ヒトの肉体に背いた、やはりあれは神王妃か」
ただその一言で断定はできない。
しかしアレスの直感はぶれなかった。

「お前は神か、人か。神はサロア神は違うと言った。だとしたらお前は何だ。人であり、神であり」
アレスが立ち上がり、石に手を伸ばす。

「アレスは神王妃に会ったの?」
リーファーレイがアレスの服を掴んだ。
アレスはその手を退けようとはしない。

「あれが、神だというのなら」
ラナーンの名を呼んだ。
アレスの隣に並ぶと、アレスはラナーンの髪を掻き上げる。

「少し、伸びたな」
耳に触れる指先がこそばゆくてラナーンが顔を引いた。
その顎を強引にアレスが引き寄せる。
首筋が露わになり、左の耳飾りが覗いた。

「デュラーンの秘剣。デュラーンの宝玉。剣はかの中に。そして守れと言った」
だが、未だそれが何であるのか分からない。
あの光が残した言葉の意味も。

アレスの片手が石像に触れた。
目の前が白濁する。
アレスは何度も瞬きした。
だが霞みは抜けない。
目を擦ろうにも腕が動かない。
白い靄の中に一点だけ、蒼く輝く星を見た。

宝玉か。
あるいは。

白い氷壁の中に浮かんだ、蒼く澄んだ光。
凍てついた洞窟の最奥で見た、懐かしい光に似ていた。











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