Silent History 175





木の幹が、木の根が、石の神殿を呑みこもうとしている。
上から包み込むように、あるいは融合を図るように、石は石に還そうとするように。

何十年という年月か、何百という時間か。
羽虫と鳥の世界だ。
虫は根と土との間を身を波打たせて這う。
人のいない世界だ。

人が造り上げた世界も、時間の流れによって自然に押し流され、緑の大波に融かされていく。

ファサードを潜り、階段に踏み出し滑らかな石の段に足をかけた。
苔生してはいるが枯れ葉や砂は掃き清められている。
生い茂る草花はそのままに、天頂に差し掛かる前の穏やかな陽の光を受けて揺れている。
腹もほどよく膨れ、心地良い風に頬を優しく撫でられ、愛らしく揺れる小さな花を眺めていると実に平穏な心持になる。
遺跡だ。
そこに人はいない。
圧倒的な自然にすべてが融かされてしまったように思えた。

大窓から降り注ぐ光を床の狭間から顔を出した花が吸い取っている。
水の音がした。
顔を音へと向けると、水路がひかれている。
人が石を敷き詰め水を吸わぬように堅牢に築いた細い水路は、今も澄んだ冷たい山の水を水場へと運んでいる。
人は消えたのに、融けずに残ったものが静かに息づいている。
微かに残る痕跡に胸が熱くなる。

鉄は朽ちても、石は残る。
ラナーンは浅い窪みに指を沈めた。
冷たい水が指の間を抜ける。
顔を上げればタリスが石段を登り始めていた。
目の高さを変えて、部屋を見回した彼女は背にしていた壁へふと振り返る。
壁に手を沿わせ、動きを止めた。
薄く口を開き、そのまま後退りをする。

「危ない!」
ラナーンが叫ぶと同時に、手摺も何もない階段数段上から後ろ向きに落下した。
タリスが顎を持ち上げたときからもしや、と階段下に走っていたアレスの予想通りの地点にタリスが背中から落ちてくる。
多少上半身を反らせたものの、アレスは綺麗にタリスを受け止めた。

「珍しいな」
いつもならば後ろ向きに転落するような失態はしない。
足を滑らせたとしても猫のように体を捻り華麗に着地を決める。
そのタリスが階段沿いの壁を見上げて、アレスに降ろされるまま大人しく床に足をつけた。

「だいじょうぶか」
ラナーンはタリスの体の無事と、呆けた彼女の状態を案じた。

「あれは神か」
砂を被り輪郭が鈍っているが、壁に彫られた絵が浮いている。

「それとも人か」
水瓶を持ち、皿を持ち、何かを捧げている者もいる。

「人だろうな」
人の営みが描かれていた。
座して向き合う者、首を折り俯いて何かを作っている者。

「千年くらいじゃ人は変わらないってことか」
食べて騒いで作って築いて祈って。

「同じじゃないか。俺たちと」
今まで会った神徒たちは、ちゃんと、人だった。
アレスと何ら変わらない。

「何をしたっていうんだ」
アレスは隣にいたラナーンの手首を掴んで引き寄せる。

「同じ肉と骨と皮だ」
目は二つだ。
鼻もある。
口も動く。

「同じものを食べて、同じものを飲む。どこが違う。どうして、殺されなきゃならなかった」
「おい、アレス。どうしたんだ、いきなり」
「さあ。どうしてだろうな。痛むんだ。お前は感じないか。この空気の重み。誰もいないのに、そこに人の温もりだけが残っているような」
彼らの思いだけがここに残り、アレスの血を騒がせる。

「お前も、俺と変わらない」
握りこんだラナーンの腕を放した。
あまりに強く握られたのでラナーンはひりひりする指を、握っては開いた。
アレスには稀な動揺ぶりだ。
自分の手首よりもアレスの顔の方がラナーンには気になった。

「タリスは? 何か感じたりするのか」
「ああ、いや。よく分からない、けど。外とは違うな」
うまく表現できずに言い淀む。
霊感があるわけではない。
他の人間に見えないものが見えたりする特殊能力があるわけでもない。

「残骸、な」
ラナーンには良く分からないが、ただ壁に彫られた絵は気にかかった。
ラナーンの祖先、あるいはその一族かもしれない人間たちが描かれている。

「いきなり私が神だと、現れた」
神など概念でしかない。
人の祈念の塊が神という存在になる。
信心の心がさほど深くなかったアレスにとって、神は否定すべき存在でも肯定すべき存在でもなかった。
人の祈りは様々、信仰も種々ある。
それらが神という存在を生み出すことは自然だ。
祈りこそ、そこに神が宿る場所だ。
そう思っていた。

「神は具現化した。封魔の歴史に現れる黒の王すら、思想や概念の破壊に過ぎないと思っていた。神など、可視化できるものなどないと」
最初にその常識が打ち破られたのはいつだ。
アレスは壁に描かれた人々の躍動的な彫刻を見上げた。
凍牙の祠だった。
霊的なものへの感性は薄いはずのアレスが初めて出会った不確定な存在。
女のような形状、女のような声、そして夢ではないと決定付けた青い石。
今はラナーンの左の耳に、耳飾りとして下がっている。

神徒、それと共存する神。
神はそこにいる、神徒もそこにいる、俺もそこにいた。
アレスは苦悩した。
理解できない、同調できないのだ。
無抵抗の彼らを殺める理由が。

世界が一方向へ、破壊へと向かった理由が。
神と神徒と、ヒトに何があったのか。

「あの女なら知っているのか」
「アレス? 誰のことだ」
「サロアだ」
食事をし、飲み、笑い、歌う。
目の前に情景が浮かぶようだ。
饗宴のように絢爛な装いではなく、慎ましくも和やかな世界だった。
人々は神に祈り、広間で食物を分け合って生きていた。
アレスが振り返り、階段上から見下ろしている石畳の上で。
日常の世界から、彫刻に階段が描かれる。
神殿を描かれた別の空間に移行する。
人々は並んで手を上に上げていた。
皿を持つ者、壺を手にした者、籠を提げる者。

「供物か」
タリスがアレスの隣から顔を覗かせた。
壁に何度も息を吹きかけて砂を飛ばした。
薄い輪郭が少し濃さを増す。

円く丁寧に彫られたのは果実だ。
皿の上に載っていた。

「これは花か」
ラナーンも壁に顔を寄せた。
話は階段とともに進む。

「これは、火」
荒々しい揺らぎの中に人の形が融けている。

「これは、木」
渦巻きうねる線の狭間に人の姿が流れている。

「これは、水」
曲線の連続の中程に人の影が揺らめいている。

「焔女(ほむらめ)、樹霊姫(じゅれいき)、それに藍妃(らんひ)」
アレスが記憶の底から掘り起こしたその名を口にする。

「三女神か」
壇上にいる女神たちに捧げる神徒。
タリスもその光景に見入った。

反らせた顎や剥き出しの肩から焔が揺れている。
無数の蔓と枝に絡まりながら髪が靡いている。
伸ばした腕の先まで波が溶かし、水滴、水泡が散っている。

「これがそのままいるのか。あるいは偶像か」
手を腰に当ててタリスが仁王立ちする。

「カリムナでも見えなかったんだ」
アレスは濁流の中のカリムナを思い出した。
最愛の人に寄り添い、地脈の奔流に呑まれたラナエ。
その地脈こそ、樹霊姫の一糸だった。
地脈を探り、糸を掬い上げヘランに恵みを供給し続けた、強大な力を有するカリムナ。
命を削り、体を地に縫い付けても地脈の全貌を見ることが叶わなかった。
三女神とはそれら流れの象徴なのだろうとアレスは考えている。

「デュラーンの地下に祀られている像も藍妃の一端だろう」
「そういえば、ファラトネスの大森林を覆う霧も水神(みかみ)、とアリューシアが言っていた」
ラナーンが顔を上げて呟いた。

「久々にその名を聞いたな。アリューシア・ルーファ」
「本当だ、懐かしい。と、思えるほどに遠いわけか。あの夜獣(ビースト)アレルギーは元気にしてるんだろうか」
「タリスの友達だろう」
「ああ。連絡、取ってみるか」
神徒が崇める神々も、こうして世界にひっそりと息づいているものもある。
現に、デュラーンはサロア神徒に滅ぼされてはいない。

「奥に、まだあるみたいだ」
ラナーンが二人を追い越し先に進んだ。
神徒らが両手を上げて跪いている。
見知らぬ神々が連なる。
人々は膝を折り天を仰いで祈る。
神殿の柱が精巧に彫られていた。
目の前に白亜の神殿が浮かぶ。
見上げれば首が痛むほどに高く、滑らかな階段は空を貫くほど高く高く昇っていく。
大階段の向うにはまだ見ぬ、ヒトの目には触れぬ大神殿が構えている。

「これは?」
神殿の奥で朧な人のカタチが壇上に立っている、その前でラナーンが足を止めた。

「これも、神か。それにしてはこれだけ妙に風化してるな」
「それとも、こういう神なのか? 何て言うか」
人の形をしていても、神は神として描かれている。
荘厳で超人的で畏怖が描かれている。

「各地に散らばっていた神徒たち。彼らの聖都だったのかな、この壁の中の大神殿は」
タリスはラナーンを追い越して階段を駆け上った。
無数の彫刻が施してある。
芸術の海だ。
階上の踊り場で、日の光の中タリスは受け止めるように窓からの光に腕を広げた。

「綺麗だ。ほら、あの透かしを」
天窓として彫られた透かし彫りは今も欠けずに、そのまま美しく残っている。

「ここは破壊されなかった。ここは清らかなまま残された。人影はなくても聞こえてきそうだ。囁きが」
幸せそうな声が。
タリスは目を瞑り、微笑んでいる。

「羽だ」
「どうした?」
「翼が見える」
大きく広げた翼の風切が天窓から覗く。

「そうか、リーファーレイは竜だから」
ラナーンが駆けだした。

屋上に上り詰め、探すまでもなくリーファーレイはそこにいた。
黒の巨竜の姿で。

「君は神じゃないのか」
翼を大きくはためかせた。
風が巻き起こる。
渦巻く音と風に巻かれながら巨竜の影が溶けた。
萎む姿に、タリスがラナーンの手から布を奪い、巨竜が居た場所に駆け寄った。
白い露わとなった肩に布をかける。
リーファーレイはすっかり小さくなった肩を震わせた。

「どこか痛むのか?」
「少し」
布越しに腕に爪を立てる。

「神じゃない。たぶん人でもない。それに魔でもない。何でもないからどこにも居られないから、ここに居る」
布に腕を通し、紐で結わえた。

「ここは温かくて、優しいから」
長い髪も器用に紐で結った。

「神さまは、優しいから」
半円のドームに進み出る。
横から見たら、大きく欠けた月が船の帆を張るように空を半分覆っている。
リーファーレイが目の前の壁を見上げた。

「それも?」
「一番好きな神さま」
「彼女は、私に似ている。少し、だけ」











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