Silent History 172





朽ちた石の館だ。
苔生した骨格は残っていても、ガラスも無ければ風に揺れるカーテンも消えている。
歴史的建造物、遺跡としての価値は高くとも、人が住めるような立地や環境ではない。
そこに幻影のように嫋やかな美女がバルコニーに現れる様は、まるで劇場の様相だった。

平然と手を振り返して応えるリルと黙して控えるファランの後ろで、三人は茫然と絵の中のような光景に見惚れていた。
バルコニーに手を掛けていた彼女の姿が屋内に消えると、魔法から覚めたようにタリスが口を開いた。

「驚いた。何か、いろいろ。あれは?」
何からリルに聞けばいいのか、まだタリスの中でも整理しきれていない。

「中に入ろう。あちらの方が灯りがあるから」
その時ようやく、建物の中から煌々とした光が漏れ出ているのに気が付いた。
それまで目に入っていなかったというよりも、今しがた灯を入れたようだ。
人工的な青白く固い光ではなく、生きている暖色の柔らかい灯りだった。

「彼女とは知り合いか?」
「あれは私の母だ」
先導しながらリルが何気なく口にした。
そのさりげなさに言葉を呑みこんでから、三人は反芻する。
この僻地に人が住んでいるのも奇妙なことだし、彼の母親が離れてこの地にいるというのにも首をかしげた。
それにこの建物は。

石段を上りながら細部まで見回した。
枯れ葉が隅の方で吹き溜まっているが、きれいなものだ。
ゆっくりと風化しつつある石造りの巨大建造物に、リルの母親。

「すごく、きれいな人だったね」
「母親って年じゃないだろう」
リルとそう変わらないような年恰好、少女のような頬笑みだ。

「でも確かに私は彼女の胎から生まれたらしい」
声が踏み入れたホールに反響する。
日が傾き薄暗い屋内、僅かに残る外の光が内に抜け、窓枠を濃く描く。

「らしい、ではなく。ちゃんと私が産んだのよ」
正面の大階段を上り切った右手に灯が燃える。
ランタンを提げて、張りのある声は真っ直ぐに飛び、その登場はまさに劇場の歌姫だ。
長い裾を掬い、背筋を伸ばして階段を下りてきた。

「今日は大人数なのねリル。紹介はないのかしら」
大階段の中ほどで足を止め、彼女は裾から手を離した右手を翼のように広げた。
この舞台と彼女の衣装、細部を消す薄闇に彼女を照らすランタン、それらすべての演出は、大振りな仕草も彼女を彩る。

「ファラン、相変わらずいい男だこと。ちゃんとリルの手綱は握っている?」
「逆に引きまわされている」
「だめよ。ちゃんと引っ張らないと。ファランのいうことだけは、あの子素直に聞くんだから」
「善処する」
それで、と彼女が顔なじみのない三人へと目を向けた。

「こっちはデュラーンとファラトネスからの客人」
「デュラーン?」
「知らないの?」
階段の下まで歩いて行き、リルが美しい母を見上げた。

「知らないのも無理はない。両国とも小さい島国だ」
アレスが口を添える。

「気を悪くしないで。何も知らないのは母の方だから」
「それは私に失礼な話ね、リル。あなたや父様方ほど放浪癖がないというだけ」
神徒であるリルの母親だから、彼女も神徒のはずだ。
その神徒を差し引いたとしても、子を成しても未だ瑞々しい彼女を外に出してしまっては気が気ではない。

三人の名とここまで来た道のりを簡単に説明したのち、リルはラナーンを振り返った。

「彼は神徒。純度が高い。近くで見れば分かるよ」
「リルを訪ねてきたの? 追われて?」
「訪ねてきたのは爺さんの方。それにそっち絡みじゃない」
「父様が昔拾いでもしたのかしら」
「竜を見たいんだって」
あっさりと知人に引き合わせるように言ったので、三人の方が動揺した。

「今夜はだめよ。」
「そうなの?」
「お休み中。明日の朝なら会えるかもしれないけど」
「分かった。とりあえず部屋、いくつか借りるね。あ、掃除はファランと私とでしておくから」
ファランと三人を振り返ってから大階段を上りはじめた。
階段の中ほどでラナーンはリルの母親に対面した。

「本当に純血種なのね」
彼女は躊躇いなく右手を持ち上げ、ラナーンの頬に触れた。
白い肌は冷たいものとばかり思っていたが、きめ細やかな手のひらは温かかった。

「どうして分かるんだろう」
「リルの母親なのよ、私は」
ラナーンの柔らかい頬を軽く弄んで引っ張った。

「右側の部屋に行きなさい。お茶を用意するわ」
彼の鼻の頭に人差し指を乗せて、微笑む。
その仕草ひとつひとつが可愛らしく、少女のようだった。
背筋を伸ばした、絵画の中のような貴婦人。
近くに寄って動き始めれば、子どものような愛らしさ。
その二面性はリルにも垣間見える。
親子ゆえか。
神徒ゆえか。

アレスはリルの母から身を離したラナーンを目で追った。
彼も紛れもなく神徒だ。
彼が神徒と知る前より、アレスは彼に身を捧ぐことを誓っている。
彼がデュラーンの王子であると知る以前から決めていた。
彼が神徒だというのならば。
リルにはファランとランカのような仲介者が付き従っているというのなら、アレスもそうあろうとした。
そうあれるのは、自分だけだと認識していた。

神徒はあるべき土を捜すと言う。
ラナーンの探している土はどこにあるのだろう。

タリスがリルの母親に挨拶を済ませ、階段を上っていった。
それに続いてアレスが彼女へ拝した。

「あなた」
アレスをしげしげと見回して、少し考え込む。

「何か」
アレスが声を出したのに、彼女の方が驚いて沈んだ顎を持ち上げた。

「いえ。少し、引っかかるものがあって」
「昔会ったことがある、とか?」
「いいえ。見た、ではないわ」
冗談で口にしたアレスの一言があながち外れてはいないようだった。
それには話を振ったアレスの方が切り返せなかった。

「聞く? 香る? 何て言うか」
脳の中に流れる思い出の断片をすくい取るように、彼女は目を閉ざして黙り込んだ。

「感覚。空気。その時、語感が捉えた刺激が遺していった思い出のようなもの」
言葉にしようとしても、形の無い物は表現するに言葉が足りない。
彼女はアレスを階段の上へと促した。

ファランが階段を上り、彼女に頭を下げた。

「いつもリルの我儘に付き合わせてごめんなさいね」
「いや付き合いは長いから」
「私は我儘なんて言ってない。母さん、お茶の用意したいんだけど」
リルが踊り場から階段へと叫んだ。

「あなたはファランと客室の準備をしてくれないかしら。お茶は私がするわ」
「はーい」
リルが踊り場を右から左へと駆け抜ける。
ファランがそれを追った。
二人の姿を見て、安堵したリルの母は裾を持ち上げ、ゆっくりと階段を上って談話室に向かった。



ラナーンたち三人の話で食事の時間は埋まった。
リルにも一通り彼らの歩いてきた道筋を語って聞かせたが、リルに語らなかった話も混ぜ込みながら語ったので、彼も飽きずに耳を傾けていた。
ファランとリルが手がけた料理は実に美味だった。
じいさん仕込、リルが得意気に言っていただけあり、出汁から下拵えから丁寧に作られていた。

「この子はいろんな土地を歩いて来たから、味も連れて帰って来たのね」
毎回ここに訪ねて来ては母に料理を振舞う、母はそれを楽しみにしている。
ファランも体が大柄な割に手先が器用だ。
リルが指示を出す前に動いている。
リルとファランがいない間、昨日までの彼女はどのような生活を送っていたのだろうと、ラナーンたちは気になった。
だが、彼女の身の上を聞くより早く、彼女が興味津々で三人の生活に聞き入っているので、彼女の話を聞くには至らなかった。

夜も更け、事前にリルらが準備していた客間に通される。
回廊、天井と冷たい石の床とを繋ぐ、幾本もの柱。
静まり返った廊下を手にしたランタンの灯が周囲だけを照らす。
光は淡く、影は濃い。
壁を流れる影は己のものとは知りながらも、別の生き物のように思え、不気味さを感じた。

こんな広いところで、彼女は寂しくないのだろうか。
ラナーンは足音を反響させる高い天井を見上げた。
ランタンの灯も届かない。
部屋踏み入れ、リルの母が提げたランタンから灯を取って、机の上にひとつ置かれたランタンに灯を移した。

「灯りは、その四隅。それから入口に二つと、机の上、サイドテーブルの上のランタン。灯を移して使ってね」
丁寧に説明して回って、それぞれを部屋に収めた。

「リルも、おやすみなさい。ファラン、この子が夜更かししないように見張っておいてね」
「するわけない。子どもじゃないんだから」
「私にとってはいつまでも可愛い息子よ。おやすみなさい」
ランタンを手に、足取りは滑らかに館の主の小さな足音はだんだん小さくなっていった。



アレスは真夜中に目が覚めた。
予感や気配を察して飛び起きるのは職業柄よくあることだが、朝自然に目が開くように、闇の中で目を開いた。
眠気は微かに目の奥に残っているが、目を閉じても朝まで眠れない時間を過ごしそうな気がした。
寝返りを打つ。
隣の寝台ではラナーンが穏やかな寝息で心地よさそうに眠っている。
昨夜の野営はそれなりに眠れたが、やはりきちんと囲まれて安心できる場所で、温かい布団に包まれてようやく落ち着ける。
一方が起きていて、もう一方は寝入っている。
アレスはどこか置いて行かれたような、少しの寂しさを覚えてラナーンに背を向けて寝返りを打った。
壁は白く物悲しい。
外の月明かりが流れ込み、微かな光に照らされて冷たさも増している。
仕方がないので、ラナーンを起こさぬよう寝台から抜け出すと廊下に出た。
外を歩き回らずとも、この広い屋敷ならテラスなり屋上庭園なりがありそうだ。
着いてゆっくり歩きまわる時間もなかったから、この際真夜中の散歩も悪くない。
横にラナーンを連れ添っていたならば寂しさも埋められただろうが、望めない話だ。
用意された薄い布の靴はファランのものを引っ掛けている。
この屋敷にはいつ息子らが来てもいいようにと、服や小物が常備されている。
お陰でアレスも服の替えに困らなかった。
廊下の手摺に腰を乗せて、柱に頭を預けた。
照らし出される青い森、そこを彼らは抜けてきた。
密になっている木々の頭を雲間から白い光が落ちては陰る。

衣擦れの音がして、アレスは廊下の奥に目を凝らした。
白い塊が暗闇の奥で揺れながらこちらに向かっている。
あれは、何だ。
アレスは片足を廊下へ落とし、身構えた。
不思議と、恐ろしさは感じない。

子ども、か。
小柄な塊は、ようやく月の当たる廊下まで出てきた。

鬼の子ではない。
ちゃんと、それは人の形をしていた。











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