Silent History 168





神とは何だ。
人とは違う体系にあるもの。
彼らは記憶のアーカイブを有している。
神の記憶倉とでも呼称すべきか。
人が描画するとすればそれは、巨大で膨大で深遠な記憶の倉庫。
神が見て触れて感じた微細な記憶はアーカイブに流れて行く。
神のヒエラルキーにおける上級者ほど、そのアーカイブにアクセス、すなわち記憶の引き出しを開く鍵を多く持つ。
神が記憶にアクセスする感覚は彼らにしか分からない。
それはヒトが過去を記憶の中に手を突っ込み引っ張り上げようとする、
意識の集中に似ているのか。
あるいは傍らに置いてあった本を手に取り、何気なくページを捲るのに等しいのか。
それは見える、のか。
それは脳に入りこむ、のか。

ヒトは己が肉体に己が記憶を宿らせて、己れたり得る。
肉体の器に、魂を納める。
その肉と、その骨と、その皮で他者と分離し、乖離し、分別し、他者を判別し、自我が生まれる。

もし、記憶の境界が崩れたら。
己と他との過去が融けあったら。
己はどこへ行く。
どこに流れて行く。

神とは、何だ。




神徒は物語を紡ぐ糸先。
その変遷を知らない。

彼らが知らないのは、語り継ぐにはあまりに痛ましい過去だからだ。
あまりに惨い事実には、皆振り返るのを止め口を閉ざす。

知られない、それはつまり生き残った彼らが息を潜めたが為だ。
しかし今、点は繋がれねばならない。

彼らこそ、神を知る者たち。
神へと繋がる者たち。


目の前にいる彼らは、コミュニティからはぐれた神徒だ。
そして人の手に堕ちなかった者たち。

アレスは目を上げた。
机の向うには彼らが並ぶ。


「聞きたいことがある」
それで、彼らは察するはずだ。

「リル。ラナーンに本を見せてやりなさい。二つ目の上から」
「三段目。おいでラナーン」
立ち上がったリルに躊躇いの欠片ひとつなく、ラナーンは引っ張られる
ように席を離れた。
そのまま糸で絡め取られたようにリルの後を追う。




細い廊下だ。
まるで穴倉のようだ。
両手を広げれば手で壁が押せる。
狭く、深い。
リルの背中の向うに橙の灯りが闇の中に点る。
いきなりリルが立ち止まったので、暗いのもあり急に止まれず爪先がリルの踵を突き上げた。
二人諸共絡まりながら転がるところを、リルが広げた手で壁を支えたので転倒は免れた。

「おもしろいね、ラナーン」
肩越しに彼が振り向いた。

「話を聞きたいな」
ラナーンが被さった腹の下で、リルの背中が持ち上がった。

「話はさっき話したよ」
「ラナーンのことを聞きたい」
「朝、話したのに」
「世界の中心にいるのは、常にその人なんだ。人の見た世界、感じた世界が世界のすべて」
背中を伸ばしたリルが、奥の灯りを目指す。
離れた影に遅れまいとラナーンが後に続く。

「私は世界を知りたくて、他の人の世界に触れたくて外に出たんだ。知ることは痛みを伴うことがある。それでも」
「おれは分からないんだ。確かなものがなくて。何も、なくて」
「ラナーンは神徒だよ」
一歩先に灯りの中に踏み出したリルが体を反転させて、踊るようにラナーンへと手を伸ばした。
拡がる長い髪が灯りの中で艶やかに流れて美しかった。

「証がない」
誘われて、ラナーンも灯りの中に踏み入れた。
リルが伸ばした中指はラナーンの頬を撫でる。

「神徒だ。私が言うのだから、間違いない。さあ、本を開こう」
「何の本を?」
「竜の話が好きなんだろう?」
「あるんだ、本が」
「何事も事前調査が必要」
見回せば、圧巻だった。
丸い部屋と呼ぶより、円い塔の中にいるようだ。
曲がる壁を全面本が覆っている。
螺旋階段がその内側を縦に昇っていき、二階の床を突きぬけて三階の床をも貫いている。
吹き抜けの天井を仰げば、口を開いたまま固まってしまう。

「何が見たい。何が知りたい」
「すごいな」
「私たちはみんな旅をする。じいさんも、父さんも」
「それで、蒐集したのか?」
「それに、じいさんも父さんも紡いだ」
歴史書だ。

「紡ぐ」
「ヒトの歴史だ。生きている証。でも今ラナーンが知りたいのは」
リルが階段を上り、二階の床を軋ませる。
木から生まれた本に、木の階段は相性がいい。
リルに続いてラナーンは艶々に磨かれた木の床を踏み締めた。

「これだ」
本を二冊腕に乗せ、一階に置かれた机へと戻った。






「君は、どうする? 彼と一緒にリルのところに」
「私は、こちらに」
老人の言葉に間髪入れずタリスが答えた。

タリスの返答を承服できないのか、思い直す時間を与えているのか、老人は暫し沈黙した。

「質問を聞こう。だが得られる回答が望むものとは限らない」
「知らないでいて後悔するより、知ることで危険を回避したい」
老人は濃い溜息を吐き出した。
思い出したくない過去を消化するための、重い呼気だった。

「あなた方のことを知りたい」
「それは彼のためか?」
リルとラナーンが消えた廊下へ微かに首を傾けた。
残像を追うようにアレスが老人の後ろへと目を細める。

「私たちは旅をしてきた」
「居を、転々と?」
「旅の始まりはこの地、そして戻ってくる場所もこの地だ」
集落を形成する者たちがその地を竟の住処と定めたように、老人にとってこの地は行き着いた場所だった。

「更に長い時間で以て、我々は旅をした」
核心に触れないのは、怖れがあるからだ。
老人は、彼らが抱え込んできた物語を巧く紐解けないでいる。
それは秘されるべき過去、語ることのない歴史であるがゆえのこと。
重く垂れた目蓋を閉ざし、枯れた手を机の上で組み合わせた。
乾いた指はますます冷たい。
唱えるような、床を擦るような低く微かな声だった。

集落に収まった者たちは湖が清らかな川の流れを引き入れるように、彼らはゆるやかに命を繋いでいった。
一方、ただ一筋であり続けたはぐれた一族は神徒であることを隠し、ひとに紛れ、ときに人と交わり、彼らは流れた。
血は薄まれど、神徒は神徒であり続けた。

「安住の地を求め、得たとき、我々はふと立ち止まって考えた。忘れてはならぬものがあることを」
それは歴史であり、そこに神はいた。
彼らは踵を返した。
見ること、聞くこと、感じること、そこに人があり、神があったことを忘れてはならない。

「我々は旅をする一族となった。私も旅をした、私の息子も旅に出た、リルは旅から戻った」
老人は立ち上がり、水場に向かう。
水を三つ、盆に乗せて戻ってくるのをタリスが迎えた。
老人は乾いた舌に水を乗せる。
聞いていた二人も唇を湿らせた。

「得たのは痛ましい過去、そして現実だった」
老人が旅から帰ったのはずいぶんと昔の話だった。
しかし痛みは風化しない。
また、リルが持ち帰った現実も、老人が見聞きした過去に重なった。

「神徒は人にあらず。神々の寵児らは神聖に墨を塗られた。生きて手に落ちたものは隷従の道を行った。隷属の印は体に押される」
最初は焼き鏝を当てられた。
今は刺青を彫られる。
所有された証しとなった。

「彼らは我々にとっては同族、あるいは我々が辿った道であったかもしれない」
世代を重ね、血を交えても消えない神徒の血。
それはその顔容へ、その容姿へ、その性質へと深く刻まれていた。

「時に彼らは廓の奥深くにいた。飼われていた。買われていた」
彼らにとっての不幸は、反抗の心を知らないことだった。
物と扱われ、弄られた彼らは日の光の当たらない、虫の這う厚い壁の中、ただ泣いていた。
ただ神を想っていた。
死はつかの間の安らぎを得られたかもしれない。
しかし彼らに死の選択は許されなかった。
それが神徒の思想だったからだ。

「ひとの肉体は魂を宿す器だ」
水に流した糸。
そこに枝を垂らせば糸は枝に絡む。

「糸がひとの魂、枝がひとの肉体か」
アレスが神徒の思想に切り込んだ。

「枝が朽ちれば、糸はまた水を漂う」
地脈も世界を流れる力の奔流だ。
糸の巨大な一房だった。
枝は自ずから折れることは許されない。
水に差しいれられるも流れ、朽ちるも流れだからだ。

神王はその流れを滞らぬよう見守る存在だった。

「辿りつく地を失った彼らは、死ですら安らぎを与えられない」
人を神を呪うこともなく、虚空を見上げて、彼らは肉体が壊れ朽ちていくのを待っている。
売られ、流され、飼われ、棄てられる。

稀に現れる、彼らに情を掛けるもの。
コミュニティの狭間に立ち、外界と繋ぎの役目を担う、交易者たち。
その者たちのように、神徒を人として扱う者も中にはいた。

「リルは旅の中で出会った。刺青を刻まれ、廓の中に救いの手を差し伸べた男だ」
「その人は」
「神徒を匿い、共に生きている。どこかで。リルに尋ねるといい」
救いはある。
だがほとんどは惨い扱いの中死んでいく。

「この地にも奇特な男はいるものだ。君たちも出会っただろう」
「ああ、あの男」
少し間を置いてアレスが名を思い出した。
あのときリルはファランと叫んでいた。

「リンカはあと十年もすればリルの子を生す」
「あれは子どもだったぞ」
アレスが不審混じりの声で食いついた。

「年を経れば大人になる。リルも理解している」
「望んでのことなのか? お互いに」
タリスも唸るように話を捏ねる。

「血は絶やさない。血は紡がれるものだ」
彼らのように、他にも神徒は隠れ住んでいるはずだ。
彼らのことを知りたかった。

「我々は過去を文字に紡いだ。後でこの奥に進むといい。だが、文字だけでは得られぬものもある。本当に知りたければ己で触れることだ」
老人が指を一つ目の前に立てた。
閉ざしていた目を静かに開く。

静かに。
そういう意味かと思ったが、老人が徐に口を開いた。

「一つだけ、私から。彼、ラナーンを」
目の前の二人は無意識に顎を引いて構える。

「彼を守れるか。あれは手に堕ちれば」
その先は聞きたくない。
先に遮ったのはアレスだった。

「無論だ。手を、放すことはない」
「離れず側にいる。私たちがずっと」
老人は枯れ枝の指を折り曲げて机の上へと仕舞う。

「君たちは今まで良い道を歩いてきた。サロア神の息の薄い道だった。だが見る者が見れば知れる」
時間はまだある。
リルからよく話を聞くことだ、と老人は背後の薄暗い廊下に目をやる。
アレスとタリスは立ち上がり、老人の示すまま廊下の闇へと同化した。











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