Silent History 166





「神さまの香り」
女はラナーンをじっくりと眺め回して小さく笑った。

「おもしろいね。実に、興味深い」
「アレスになにかあるのか。でもおれにはアレスの匂いしかしない」
「他には」
木の幹に追い詰められるようにラナーンが木肌に背中をつけた。
目の前には匂うような艶やかな女が迫っている。
色香を使ってラナーンを絡め取るような素振りはなかったが、正面にすると黙っていても迫力がある。
ラナーンは言い淀む。

「抱え込んでばかりでは解決するものも解決しない。答えはどこに転がっているか分からない」
「夢を見るといったら?」
「どんな」
「サロア神、の」
「きみが?」
黙り込んだラナーンの顔色を探り、肯定か否定かを見極めようとしている。

「ふぅん。そのアレスが、ね」
言い返そうとラナーンが身を乗り出すがその肩を女が押し留める。
今さら否定もできない。
事実は事実だった。

「サロア神の目覚めが近い、ねぇ。事実なら世界がひっくり返る」
サロア神一色に染まる。
伝説の神さまが蘇り、世界を統べればディグダとの均衡が傾くことになる。

「きみはどう見ているの」
「分からない。アレスの出自について知らないから。でも本当なのかも。バシス・ヘランでの地脈も、アレスに引かれてきたって、聞いたし」
声はしぼんでいき指先が冷たくなっていく。
確信に至りたくない。

「彼が、怖い?」
女の額がラナーンの顔に近づいた。

「怖くなんてない。でも」
遠くに感じてしまうのは嫌だった。
生まれなんて関係ない。
共に歩んできた道こそが、自分なのだと感じさせてくれた。
それが今、未知の過去によって歪められる。
ラナーンの知っているアレスがアレスでなくなるなど、考えたくもない。

「アレスはアレスだ。他の、何者でもない」
「ぶれてる、ね」
虚を突かれて小さく喉を鳴らした。

「嘘の下手な子」
ラナーンのことを笑っているのに、嫌味がない。

「彼もおもしろいけど、私はきみの方が興味あるな」
ラナーンの肩に乗せた手が首筋を撫でる。
くすぐったさにラナーンが首を引いたその頬を女の手のひらが包んだ。

「きみも神徒のところに行ったのなら気付いたでしょう? その顔、神徒そのものだ」
ラナーンの唇が薄く開いた。
素直な反応が愉しいらしく、女の口角が魅惑的に持ち上がった。

「何百年かけて遠い遠い島国に流れ着いた神徒。それがまた、こんなところに戻ってくるなんて」
親指の腹でラナーンの頬骨をなぞる。
その感触にラナーンの肌は泡立って抵抗ができなかった。

「どうして」
「わかるかって? きみは純粋な神徒の風貌をしている。ほとんどの人は分からない。でも、わかるひとは、わかる」
「わかるひと」
「神の偶像を知るひと」
「つまり」
「神徒」
ラナーンが目を伏せた。
頭がくらくらする。
力が抜ける。
その体を女が支え、ラナーンの顎を自分の肩に乗せた。

「いい、においがする」
「でしょう?」
ラナーンは女の首筋に鼻を埋めた。

「これは特別な香り。儀式で使うの。神さまと神徒の」
長きに渡って連綿と続いてきた儀式の香は神徒の肌や血に溶け込んでいる。
彼女はそう言った。

「遥か遠くに細々と渡って行った。だからこそ純血は守られた、そうなのかな」
「何のこと」
「きみの、血族のこと」
「血族なんていない。おれの父はディラス王ひとりだけ」
「じゃあ、デュラーンの王族は」
「違う。違うよ、父とおれの血は違う。おれは、誰の子かなんて」
苦しげに耳元で呟くラナーンを可哀想に思えてきて、女はラナーンの背中に手を回して摩った。

「デュラーン王は神徒の子を匿ったのか。確かに純血族が明らかになれば刺青どころの話じゃない」
ラナーンは女から漂う匂いを追って目を閉じた。
頭は混乱し、名も知らない女に抱かれているのに、妙に心は落ち着いている。
女の声が遠くに聞こえた。

「泣かないで。いろいろと聞きすぎたかな」
宥める優しい声にラナーンは首を横に振る。
こんな脆弱な人間じゃないはずだ。
香りに、惑わされている。

「おれは、神徒なのかな」
「その血は確かにね」
「アレス。アレスは?」
「彼についても調べなきゃ。神さまの香りを持つ男、ね。いずれにしろ、きみは彼の側にいたほうがいい」
女はラナーンの背中を木の幹に押し付けて、指の腹でラナーンの目尻を拭った。

「私たちは誰かの側になくては生きていけない。マリューファという神徒にジースがいたように」
私たちが生きるには外の風はあまりに強すぎるから。
女はラナーンの黒髪を撫でた。

「もっと自分のことを知らなくては。知ることは、生きることだから」
「神に会えば分かる。きっと、神徒のこと、夜獣(ビースト)のこと、神門(ゲート)のこと他にも」
繋がるはずだ。

「力になってあげる。何も知らないままだときっと、きみの血は絶えてしまう」
ラナーンは彼女の目を見つめた。

「あなたは?」
「時間切れ。噂の騎士さまが到着みたい」
女は背中に冷たい点を感じた。

「物騒なこと。別に、今この子をどうしようってわけじゃないのに」
「アレス!」
女の背中に剣が突き立てられている。
少しでも剣先が触れれば薄い服も皮膚も裂いてしまう。
ラナーンは焦った。

「つくづく、お前は女に襲われるやつだ」
「違う、この人」
女がラナーンを両腕で抱え込み木の右側へと体を沈ませた。
ラナーンが芝の上で受身を取る。
その上に被さるように落ちてきた女の体を受け止めた。
しかし予想した体重が体の上に落ちてこない。
女は左手で体を支え、右脚を振り上げた。
女にこんな芸当ができるとは思ってもおらず、ラナーンは目を見開いた。
アレスの剣が小さく弾かれる。
しかし蹴りは軽く、剣が僅かに逸れただけだった。
ラナーンがアレスの手元を目で追う。
剣は抜き身ではなく、鞘に納まっており、そこまで理性を捨てていなかったかと胸を撫で下ろす。
それでも無防備な相手を後ろからなどとは見過ごせない。

アレスが剣先を下ろす。
ラナーンの前で身を起こした彼女がアレスを見据えた。

「こいつをどうするつもりだ」
「どうもしない。ただ話をしていただけ」
「そうかな」
ラナーンは二人のやり取りを目の前で見て頭が痛くなる。
どうしてこんな事態になったのか。

「アレス、このひとは」
「何かするにはこれからだったのに。残念」
女は後ろにあったラナーンの手を取り、自分の指を絡めて持ち上げた。
どうして、このひとは話を厄介な方へと混ぜ込んでいこうとするのか。
ラナーンは呆れて言葉が出ない。

「おい」
「まだまだ子ども、ねぇ」
絡めた手を唇に持っていき、上目遣いでアレスを見た。

「いい加減に」
女に掴みかかろうと手を伸ばしたとき、ラナーンが叫んだ。

「このひと、男のひとなんだよ!」
アレスの手が止まる。
女が唇を横に引いて笑う。
その口が開かれて赤い舌が覗いた。

「ファラン!」
叫ぶと同時に飛び出したのはアレスより高身長の男だった。
肩幅の広い体格のよさと太い腕。
しかし女の前に飛び出した俊敏さにはアレスも驚いた。

「喧嘩は好きじゃないんだけどな」
アレスと女、そして現れたファランという男が三者睨み合い動かない。
アレスが動いた。
剣を横に倒して顔の前で防御体勢を取る。
次の瞬間飛び込んできたのは小さな弾丸だった。
アレスの防御した腕の上に鋭い蹴りが入り、着地と同時にアレスの軸足へ脚払いをかけた。
しかし反射神経はアレスの方が上手で、体重移動で払いをかわし、逆に踏み込んで相手の軸足を払った。

「リンカ!」
転倒した小さな子どもに、女が身を乗り出して叫んだ。
アレスも本気で蹴り上げてはいない。
子どもも芝の上に頬を擦り付けただけだったので、悔しそうな顔をすぐにアレスへと向けた。

「何だ、いったい」
「私の連れ。リンカ、こっちにおいで」
十歳ほどの子どもだった。
それにしては大人の目を引く動きをする。

「痛い?」
母親のようにリンカの頬を染めた草の汁を手で拭う。
柔らかいふっくらとした薄紅の頬をした、愛らしい女の子だった。

「いろいろと、ややこしくなってきたから休戦にしましょう。食事を済ませてから家に来て」
自分の陰に座り込んだラナーンの手を引いて立ち上がらせる。
ファランという大男とリンカという子どもを伴い、女は木陰から立ち去った。

「何だったんだ」
「アレスが! 何だったんだ、だ」
「絡まれてるから駆けつけたつもりだったんだが」
さすがに頭に昇った血が冷えてきたのか、アレスが珍しくしおらしい。

「子連れかよ。旦那まで出てくるなんて」
「いや、そうじゃないって。あのひと、男だって」
「まさか」
「嘘ついてどうするんだよ」
「恐ろしいな」
「それに神徒だ」
「何か分かったのか」
宿までの道には人影は少ない。
もう少し、話していてもいいだろう。

「分かったり、分からなかったり」
アレスの横顔を見つめた。

「知りたいことが増えたり」
アレスは気にしていないのか、気にならないのか。

「神さまの香りを持つ男のこと」
「不幸を呼ぶ香りじゃなきゃ、いいけどな」
ラナーンの視線に気づいて先を見る目が険しくなる。
ソルジスのカリムナを死に至らしめた地脈を呼んだ。

「もし不思議な力があるなら、俺は自分の大切なものを守るために使いたい」
「勇者ガルファードやサロア神が守りたかったものって何なんだろうな」
「さあな」
「世界を救うとか、希望になるとかって、どういう瞬間に思えるんだろう」
「想像を絶する、偏った博愛主義者か。世界中の人を救いたい、ただし神徒は皆殺しに」
「繋がれた血を呪った生まれの者も、いただろうね」
哀しい生まれの者もいる。

「お前は、違う」
「そうなのかな」
「デュラーン王に救われた。それだけでいい」
後で聞かせてくれ、あいつから得た話を。
温かいアレスの声に、ラナーンは頷いた。











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