Silent History 165





目が覚めたのは珍しく、外の色が水でぼかしたように薄くなり始めたころだった。
デュラーンにいたころはそうひどくはなかったが、旅をするようになってから早起きは得意なほうではなくなった。
目が覚めてしばらく寝台の上に座り込んでぼうっとすることが多い。
目まぐるしく状況転化が繰り返される毎日で、体がついていかないのだろうとアレスは言っていた。
朝の目覚めが鈍くなっているだけで、体力は昨晩からリセットされているので心配するほどではないとタリスは笑った。

デュラーンの朝に重なる。
頭が回り始めた頃合で、静かに三つノックが聞こえてくる。
ラナーンの目覚めをどこかで見ていたのかと思うほど、いいタイミングでアレスが現れる。
アレスのノックとおはようから始まる朝が日常で、アレスが出張などで城を離れているときなどは、朝から夕方まで何か忘れているようなおかしな気分で過ごすことになった。
ラナーンを起こすお役目はアレス以外に許していないため、代わりに誰かがノックをしてくれても調子は上がってこなかった。

目が覚めて部屋の中を見回せば、隣の寝台は空になり寝具がきちんと畳まれている。
ラナーンはこういう寒々しい朝が嫌いだ。
毛布を抱え込んで、朝冷えに肩をさらした。
怒っているのか哀しいのか寂しいのか切ないのか。
溜息をつきたい気分を毛布と一緒に胸の中で押し潰しながら、冷えていく
背中に耐えていた。

いつもそうだ。
アレスの寝顔を見ることはほとんどない。
目が覚めれば姿はなく、部屋の中に彼がいた温度もない。
壁でもすり抜けていったのだろうかと思うほど、扉の軋む音すら立てず姿を消していた。
空になった寝台の傍に横たえていた長い荷物も消えていた。
どこか雑木林でも見つけて、人目を忍んで素振りでもしているのだろう。
たまには誘ってくれれば良いのに。
ちゃんと起きられるのだから。

そういうラナーンの心情は露知らず、アレスは隣で幸せそうに眠っている
ラナーンの顔を見ると目覚めさせてはならないという強い庇護欲に駆られる。
タリスはそれを親ばかだのとからかったり、男の母性って何ていうんだなどと真面目な顔で呟いたりとしていた。
冷気を吸い込んだ背中をもう一度布団の中で温め直してもいいが、それは悔しかったし、何よりも二度寝するほどの眠気も溜まっていなかった。
毛布を丁寧に畳み、枕をその上に載せてから、服を脱ぎ始めた。
空気の冷たさに左腕をなで上げて、手早く着替えを終える。
まだアレスが戻る気配はない。

このまま部屋でじっとしていてもつまらない。
タリスの部屋に行こうかとも考え、腰を浮かしたが思いとどまる。
旅をともにし、彼女を女性として区分けしたことがなかった。
デュラーンでも、からかいあったり同じように遊びまわった彼女を男に対する女として見たことはなかった。
性別の境界が曖昧なまま過ごしていたころ、ファラトネス滞在中に寝つきの悪い夜があった。
静まり返った場内には夜のほの明かりが柱に灯る。
アレスはファラトネス国内の地方に出張中で、眠れないのを訴える相手がいなかった。
思いついたのが昼間に転げまわって遊んだタリスだった。
タリスの部屋の前に敷かれた絨毯が、内から漏れる光で白く線が浮かび上がっていた。
遠慮がちなノックをし、名乗ると扉の向こうで動く音がした。
そっと開かれた扉の隙間から寝巻きに着替えたタリスが顔を出した。
こんな夜中にどうしたんだ?
ラナーンに顔を寄せて声を殺した。
タリスこそまだ起きてたの?
本がなかなか終わらなくて。
そうしてタリスはラナーンを中に招いた。
明度を落とした部屋の中で、寝台の上足だけ布団の中に突っ込んで並んでいた。
眠くなるまでただ他愛もない話をし、ラナーンが小さなあくびをしはじめたので彼を部屋から送り出した。
それが誰から伝わってどう回ったのか、エレーネの口からラナーンの耳まで巡ってきた。
あまり夜や早朝にタリスの部屋に訪れるのは遠慮なさいね、と柔らかにたしなめられた。
そのときはエレーネがなぜそんなことをいうのか分からず、もやもやを持ち帰り、デュラーンで帰ってしばらくしてからアレスにぶつけてみた。
アレスは、そうやってどうしてなのか分からないでいるうちはまだ安心だ、と微笑んだ。


ラナーンは自分の細長い荷物を携えて部屋を出た。
外は明るくなり始めていたが、人が動き出すにはまだ早い。
新聞配達の早起きたちが静まり返った通りを行き来する。
野菜や果物を抱えた人が早々に店の準備をはじめ、配達人と短い挨拶を交わす。

人目に触れない広場は昨日見つけてある。
雰囲気のよさそうな林に囲まれた広場でゆっくりと座って過ごせたらと、気になっていた場所だった。
道はなんとなく覚えているので、おぼろげな記憶を辿りつつ散歩がてら行けばいい。
アレスが毎朝律儀に肩を動かすのも分かる。
一日二日、剣を握っていないだけで休み明けには肩が固まってしまい動くようになるのも二倍三倍の練習量と時間が掛かる。
部屋で鞘に収めた剣で肩を慣らしてはいるが、実際に剣を抜いて大きく体を動かす運動量にははるか及ばない。
できれば広い場所を探してアレスに剣を見てもらいたいが、アレスの怪我も慮りなかなか機会がないままここまでやってきた。
ずいぶんと痛みは少なくなってきたと聞いているが、アレスのことだからどこまで本当かは分からない。
癒えたとしても満身創痍だった体に、しばらく痕は残るだろう。

ソルジス、バシス・ヘランでの一件はラナーンに深く影を落とし続けた。
死でしか救いを得られなかったカリムナ・ラナエ。
地脈は人間にとって毒となる。
その強大な力は神の力、人が触れてはならない禁忌だった。
カリムナは半身を失い、それでもヒトとしての愛を求め、ヒトとしての死を望んだ。
死によってしか苦痛から逃れ得ない。
ヒトの体を蝕む地脈。
それらを操る神を思った。
ラナーンらがこれまで会ってきた神とは違う。
もっと高位でもっと高貴な。
表現が行き詰った。
想像が及ばない。

朝の清浄な風に手のひらを透かした。
冷えた風のにおいがする。
心がふっと持ち上げられたようにざわついた。
混沌として入れ変わっていく頭の中の無数の記憶を掻き分けた。
懐かしさに甘さが混じる微細な感覚、いつか、どこかで。
糸を指先の触感だけで手繰っていくのに似ていた。
夢を、思い出す。

あなたとつながること。
こうしてふたたびであうこと。

彼女は言っていた。

あなたはわたしのさがしていた、こたえなのかもしれない。

彼女の探したかったものが何なのか、まだ分からない。
夢にしてはあまりに鮮明すぎる。
彼女の腕に抱かれた感触は今でも残る。

からだはとけて、わたしはかぜになるの。

彼女の温かさを感じる。
だとしたらこの風は、彼女の風なのかもしれない。

わたしの大切な人とあなたが出会えますように。
彼女の言葉は胸に染み付いている。
いつか、ディグダに。
彼女の大切な人、それを見つけなければならない。
たった一言に、使命が刻まれた。
胸が締め付けられる想いの理由が分からない。
目の奥が燃える理由が分からない。
夢なのに、ただの夢と切り捨てるにはあまりに生き生きとしていた。

セラ・エルファトーン。

きみは、風になれたのか?
側にいるのか?
おれの、そしてきみの大切なひとの。

細い小道を進み、木々の群れを見つけた。
林の中ほどまで進むと静かに鞘を落とした。
美しい刀身。
デュラーンの刀匠が打ち上げた逸品。
手になじんだ柄をゆっくりと握りこむ。
再び緩め、肩を上下させて力の抜きを調整した。
剣を上段に構える。
休んでいた分だけ剣が重い。
袈裟に裂いた。
空気が切れる音がする。
腰の前で止めた剣先がぶれる。
これは、調整に時間が掛かりそうだ。


一際大きな風が髪を掻き上げた。
ラナーンは剣を下ろし、思わず目を閉ざす。
風の音にささやきが流れ込んだ。
無数の風の糸に絡むように、細い一筋。
大風の中でそっと目を開けてみる。
歌うような風の音。
反響するようなこの音は木の間を抜ける唸りか。
長い髪、女?

風はつないでいくわ。

セラの声が聞こえ、あの奏でるような美しい音に融けた。
風が止み、林の端にラナーンの目は吸い寄せられる。
木の幹に手を沿わせて、木陰にひとつの人影を認めた。

「どうして?」
ラナーンの上げた呟きに、人影はこちらを向いた。

「おはよう」
艶やかな声が風が収まった静かな木々の中を抜けてくる。
張り上げてはいない穏やかな声がラナーンの耳まで心地よく通った。

「おはよう、ございます」
「よく眠れた?」
「はい」
「ひとり?」
「はい」
「散歩?」
「はい」
「私も、そう」
終始、無表情なやりとりだったが、不思議と圧迫感はない。

「後で、伺おうとしていたんです」
「ああ。じいさんもそのつもりだ」
どうしようか。
少し緊張している。
ここにはアレスもタリスもいない。

「きみの剣は美しいね」
「アレスから、昨日のおれの友人から教わったんです」
「確かに、きみの師匠は強そう」
「強いです。とても」
「何も恐がることはないのに。私はきみを知りたいだけ」
「知る?」
「そう。何者か分からない人に情報は教えたくない」
おれ次第、ということか。
ラナーンは顎を引いた。
どこまで話していいか分からない。
匙加減はいつもアレスに任せていた。

だから。
ラナーンは深く息を吸った。

自分の目で、相手を見るんだ。
目の前の女を見据えた。












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