Silent History 160





ゆっくりと顔を眺めるのは久しぶりだ。
遊び疲れて三人で昼寝をしたとき以来か。
あまりに目覚めが悪いので、目が覚めるまで傍らで待っていたときからかもしれない。
当り前のように側にいた。
浅い息、実に穏やかそうな顔つきで深く眠っている無防備な顔を眺める。
毎日突き合わせている顔だ。
今更どうという形容も生まれてこない。
この里の人間に似ていると言っていた。
言われてみれば、共通点はあるような気もする。
目から鼻への形、唇。
とはいえ、デュラーンで彼の顔が浮いていたわけではない。
現にディラス王の息子として誰の疑いの目もなく過ごしてこられた。
頬に手のひらを押し当てるが呼吸のリズムは変わらない。
デュラーンを出たときは顔立ちが幼かった。
それが今は締まり、骨格は男性のものになりつつある。
目覚めないのをいいことに親指で顎を持ち上げ顎骨をなぞった。

中性的な顔立ちをしている。
醜美を考えて向き合ったことはないが、美の部類に入るのだろう。
タリスや他の人間たちの話を漏れ聞いていればそうなる。

しかし未だ成長途中だ。
顎から滑り落ちた親指は小さな喉仏を上り、下っていった。
寝汗で少し湿っている。
緩んだ胸元の鎖骨へと手のひらを滑らせた。
肩の肉はついてきた。
アレスが剣を見てきたので元より緩んだ体ではなかったが、旅に出てからは接する距離が短い分だけ指導もしてやれる。
何より、己の強さは身を守る。
必要な技だからこそ磨くにも力が入った。
骨に薄く纏う美しい筋肉を手のひらで確かめた。



「何を、している」
掠れた声にアレスの手は動きを止めた。
脇の下が熱い。

「何がしたいんだ」
ラナーンの手は開いたアレスの胸元から滑り入り、脇腹の皮を捻る。
小さな痛みに、アレスの眉が反応した。
何、と言われても説明がし難い。
ラナーンの手が肋骨から脇腹へと落ちる。
指先に膨らんだ傷痕が触れた。

「傷は、痛むのか」
「いや。ここにきてから調子がいい。温泉の効能をそこまで信頼していなかったが」
事実、ソルジスで負った引っ掻いたような傷は皮を張り、この里に来てほとんど癒えている。

「お前の方こそどうなんだ」
ラナーンはアレスの問いかけに黙り込んだ。
負ったのは心の傷だ。
沈黙を隠すように治りかけたアレスの傷痕を指で押さえる。

「真実は、自分の目で見ようと思う」
「自分の目で見たものを信じるか」
アレスの手の中でラナーンが頷いた。

「おれが見てきた父上は、父親だった。母上も、兄上も。偽りなどそこにはなかった」
確かなものだ。

「父上がエレーネとおれと兄上にした理不尽に憤り、デュラーンを逃げた。でも父上が理不尽な行いをする人間でないのをおれは知っている」
知っているからこそ、悲しかった。
父だけはエレーネを思い、兄を思い、ラナーンを思っているものと信じていたからだ。

「父上が抱えている、理不尽の裏側にある理由はまだ分からない」
痛そうな顔をしても、ラナーンは涙を溜めなかった。

「ラザフのいっていることが偽りだともいわない。でもおれの目は、その真実を見ていない」
「真実はディラス王が抱えている。戻るのか」
「今は戻らないと言った。その言葉は今も変わらない」
「お前が見たい真実は何だ」
「タリスみたいに夜獣(ビースト)を追って飛び出したわけじゃない。アレスみたいに誰かを追ってデュラーンを出てはいない。最初は、目的なんてなかった」
強さなんてなかった。
そこに居たくないから逃げ出して、死ぬほどに絶望もできないから生き延びて、行く当てもないから彷徨った。

「おれの目は世界を見た。ひとが生き、それぞれに物語を抱えていた。ひとが死んで、物語も幕を下ろした」
人と交わり、人の生きる道に干渉し、人の物語の一部になる。

「見えないものが見えて、知らなかったことを知った。世界に神がいること。人でないものたちがいる。彼らはおれたちに触れた。そうだろう」
「ああ。神は俺たちに触れた。匂い、らしい。カリムナを通じて接触してきた」
「おれは流民の血に関係しているのか、いないのか。見えない今は何も信じない。でもおれはひかれているんだ。神という存在が知りたい。歴史から消されてしまった彼らを知りたい」
「高位の神に触れれば、より多くのことに触れられる」
「不思議だったんだ。アレスがいるところにいつも神が現れる。凍牙の洞窟、ソルジスでの地脈、神の匂い」
ラナーンがアレスの襟を引き寄せた。
鼻先を首元に寄せるが、いつもと匂いは変わらない。
ヒトには感じられない香り。



「ヒトはひとりで生きてはいない」
ラナーンを押し潰さないよう腕で体を支えながら不意にアレスが口にした。

「自分が何者かを知るのが怖いのか? 何者でもなかったと知るのが怖いか?」
ここの人間に、流民に似た顔立ち、神王派から流れ出た一筋かもしれない。
デュラーンと交わらない血なのかもしれない。
流民が受けた非道の一粒なのかもしれない。

「俺もお前と同じだ。何者であるのかなど父親と共に消えてしまった」
この世でアレスの父だけがアレスの血を知っている。

「聞いたことは?」
「母親が誰で、どこの人間だったのか、聞いたことはあった。だが」
聞こえていないわけではないだろうが、明るく陽気だった父がその時は沈黙し、道の向うを歩く親子を眺めるだけだった。
父が、母親の人格について口にすることはしばしばあったが、生まれや素性について触れたことはなかった。
それ以降、アレスは血の繋がりについて口にしたことはない。
父親は亡くなった母を深く愛し、二人の確かな子であるアレスを慈しんだ。
血を遡ることに無関心ではなかったが、各地を流れるアレスにとって
遡った故郷は遠い見知らぬ土地に過ぎないと気付いた。

「ヒトはひとりではないと言ったよな」
アレスの肩の下でラナーンが小さく頷いた。

「向き合って、誰かが『自分』を認識してくれて初めて、自分が何ものであるのかを知る」
それは鏡で己の姿を映すがごとく。

「デュラーンに来るまでは、その対象は父親しかいなかった」
誰かと親密に話をするのが億劫だった。
自分のことを表現するのが苦手だった。
すでに組み上がってしまっているコミュニティに踏み込む努力をしなかった。
根付く前に別れが来る。
絡みつく人と人との繋がりを煩わしいとさえ思った。
そのはずなのに。


「デュラーンでお前に出会った」
泣き顔を見られまいと水に逃げるラナーンの手を掴み引き寄せた。
肌に張り付いた熱。
冷えた肌の下に眠る小さな子供の高い体温。
水から引き上げ、草むらで抱え込んだ。
人間の温もり。
その熱を、生まれて初めて離したくないと思った。

「その目は俺を映す」
体を浮かせてアレスはラナーンに目を合わせた。

「お前を守ると決めた。そうすることで、俺は俺を保っていられる。俺の心は守られる」
互いの目に互いの姿が映る。
他人は自分を映し、それにより自分は己の姿を知る。
自分の輪郭を見て、自分の存在を知る。

「俺が何者なのか、知る人間はお前だけでいい」
真実の姿はそこにある。

「お前が見ている俺が、俺という人間だ」
「だったらおれも。アレスが見てきたおれが、おれという存在?」
「そこに血はあるか?」
ラナーンが首を振る。

「そこに家系という枠型はあるか?」
再び首を振った。
見ているのは形のあるものではない。

「アレスは」
「俺はずっと繋がりを欲していた。確かなものが欲しかった。何かを築くことをしてこなかった」
絆の希薄さに慣れ、また同時に温もりを求めていた。
あるいはそれは、家族と称する形なのかもしれない。
ラナーンに出会い、デュラーンで得た。

「そう言っても、誰かとコミュニケーションをとるのはおれより断然うまいじゃないか」
「処世術だと知ったから。帰る場所があればひとは笑える。強くなれる」
鎖骨に額を擦りつけ、滑らかな胸へ耳を押し当てた。
規則正しい脈拍が熱く刻まれている。




薄く開いた扉の向こうで軽快な足音が響く。
扉が開かれ覗いたのはタリスの顔半分だった。

「今頃起きたのか。最近寝坊が多いぞ」
「分かってる。寝起きが良くないんだ」
ラナーンがベッドの上で大きく伸びをした。
その端にアレスが腰を下ろしている。

「それに始末も悪い」
扉の枠に背中を預けたタリスが、扉を開けては閉めて弄ぶ。
開けたままでいたらしい。

「すまない」
アレスがしおらしく謝った。

「おもしろい情報があるんだけど、聞きたいか?」











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