Silent History 159





今朝からしたことを指折り数えてみる。
朝食を食べた。
芋と野菜。
ラナーンはまだ眠っていた。
起こそうとはしたが、あまりに心地よさそうに眠っているので、起こさないようそっと部屋を出た。
階段を下りかけて出会った家の主に食事ができていると勧められた。
立ち話をしているとタリスが、私は風呂に入ってから行くと扉から顔を出す。
耳の良さに半ばあきれ、主には腹が減ったらそのうち下りてくるからと気にしないよう伝えた。
味は美味かった。
芋も野菜もこの里で採れるものだ。

ゆっくりと咀嚼しながら思い出した。
ここにいる神のことだ。
焦るなとあいつは言っていた。
何を具体的に言っているのかそのときには理解できなかったが、今この瞬間何かが引っ掛かり、何かが解けた気がした。
入り浸ってみないと文化なんてものは分からないってことだ。
肌に刻まれ、骨に染み、臓腑に行き渡る。
悠久の時間が練り上げて行ったものだ。
歴史に然り。
素朴な味だが、旨味がある。
丁寧に作られた食事。
ただ、美味いと思った。

肌で感じろということなのかもしれない。
耳で聞き、目で見たところで、ここの人間の感覚を備えられるわけではない。

口の中で溶けかけた芋を嚥下した。
ここは他とは違う。
受動的、それとも違う。
他と擦れあうことをしない文化。
主張のない文化。
それらは神の言う、ここの人間の性格の延長でもある。
競合を求めなかった人間たち。
他者に己の文化や風習を押しつけない。
ただ粛々と、ただ淡々と営まれて連なってきた文化に踏み込んだところで、他人であり異質である自分の肌にここの文化が浸透するはずがない。

単純に理論分解すればそういうことになる。
幸いなことにここの人間は異物である三人を受け入れてくれた。
それは彼らの色に三人を染めようという積極性のあるものではなく、そこに在るということを許容してくれたに過ぎない。
だが、逆にこちらから 細胞の一つ一つをここの人間への同化を願っているわけではない。
ただ学びたい。
感覚を一部でも共有したい。

タリスがどう考え、ラナーンがどう思うかは分からない。
だが近いうちに二人の考えも聞いてみたいと思う。


「いかがです?」
「美味いな」
「口に合ってよかった」
花が咲いたような可愛らしい笑顔を見せたのは先ほど立ち話をした主の妻だ。
まだ若い。

「夜には米を炊きますからね。水田にはもう?」
「夜に横を通った」
「それでは単なる真っ黒な板のようでしたでしょう」
「昼間に道を覚えていて良かったと思う」
「酔った人がよく朝に田の中から引き揚げられるんですよ」
鈴を転がしたように笑った。
収穫の前になると稲穂が深く頭を下げて、田は金色になってそれは綺麗だと幼さを残して遠くを見つめる。
米はひかれて粉末状になり、練って焼くこともあるのだという。
散歩を勧められ食事を終えると外に出た。

午前中は歩いて過ごした。
神殿を巡り、廊下を歩き、時々老人と立ち話をして水田に寄った。
緑の稲が風の道を描いている。
穏やかで美しい。

子供たちが頭を寄せ合い畦から水の縁を覗き込んでいる。
手を水に浸けては引き揚げ、また突き入れる。
手元を良く見てみれば、何か虫を捕まえていた。
二本の指で摘み上げて得意げに友人の目の前に突き出した。
虫捕り。
ラナーンとした。
そこにはタリスもおり、彼女こそ果敢に水の中、高い木の上に臨んでいた。
仲良く並んだ三人の背中に影が被さった。
端から順に背中を叩いて三人を立ち上がらせると、微笑みながら追い立てて行く。
虫籠を抱えながら三人は楽しげに、一所に走っていった。
平屋の大きい建物が先にある。
他にも子供が流れて行くのを見たところ学校なのだろう。

ここは神が作った箱庭だ。
疫病も内乱もない。
美しい人形たちの家。
水槽の中の魚たち。
そうならざるを得なかった者たちの悲劇。



水田から繋がる水路を辿って小川に辿り着いた。
水はここから引いている。
澄んだ水に靴を脱ぎ、足を浸した。
冷たい。
ほどなく、足は水の温度に慣れていった。
対岸では石が積まれ、網に入って何かが揺れていた。
果物だった。
この水温だ、良く冷えてうまいだろう。
朝食にも冷えた果物が切って添えられていた。
こうして早朝から水に浸していたのかもしれない。
朝早くに目が覚めるのは習慣だ。
二時間ほど剣を握り、体を温める。
休めば体が鈍り、筋肉、筋、間接が固まってしまう。
睡眠は十分とれているはずだ。
取り立てて眠いことはなかった。
それが頭の芯がぼやけている。
何とか体は起こしていられたが、視界が揺れる。
穏やかな小川の水面が泡立つ。

「またかよ」
手のひらで額を覆った。

「もう、いい加減にしてくれ」
消えろ! と頭の中で叫んだ。
泉といい、この小川といい、水に関わるとこいつが湧いて出る。
耳が詰まっているのか、妙に辺りが静かだ。
風と水の音が耳の側を駆ける。
鳥の声は遠退いた。
ひとの影はない。

「俺はお前に用はない」
水面が盛り上がり、山のように持ち上がる。
水は右に渦を巻きながら上へと延びていく。
巨大な水球が水面から生まれ出た。
水の繭だ。
綺麗な球形が外から解け、織機の杼のように細っていった。
立てた舟形に渦巻く水の中、足先が覗いた。
膝から下に流れる水。
踝から伝う水の筋。
開いた足の指先から滴る。

眠りが覚める。
彼女が目覚める。
氷の帳が開かれる。
彼女が現の世に降り立つ。
それは何かが始まる鐘の音か。
あるいは何かが終わる始まりの音か。
確かなのは、堅く結ばれていた彼女の意識が解けようとしている。

「だからって俺に何の関係がある。千五百年の眠りから覚めて、現世に来て何をするつもりだ」
答えろよ!
アレスが吠えた。

「お前が魔を鎮めてくれるのか」
かつて勇者と称えられ、神と祭り上げられたサロア。
今、再び姿を現し、その力で以て魔を祓うか。

「だが破壊だけでは世界は平安とはならない。お前が切り付けた傷口は膿んでいる」
また切りつけて千五百年持たすか。

「神門(ゲート)はもはやない。神々は死んだ。さあ、どうする」
水の杼が弾けた。
水の中で揺れていた彼女の影も散った。



アレスの足は宴の広間へと向かう。
いるとすればそこだろうと直感があった。

「まだ居たのか」
扉を開いて中を見回せば、広間の中ほどに神が鎮座していた。

「いきなりだな。居たらまずいか? ここは居心地がいいからね」
「ならばここに棲めばいい」
「それはそれで飽きるだろう」
何百年か何千年かはしらないが、気が遠くなる時を生きてきたその口から飽きるなどという言葉が出る方が驚きだ。

「その長い時を生きてきた神さまに聞きたいことあってね」
「ようやくか」
「待っていたとでも?」
そうだとも、否ともとれる微笑を浮かべた。

「女の夢を見る」
「健全な青少年だ。何が不満なんだ。人生相談か?」
恥ずかしいのなら人を散らそう、と神を囲んで雑談していた里の人々を下がらせた。

「思う存分、甘酸っぱい悩みを吐き出すといい」
「どういう勘違いをしているのか知らないが。まあ、ここの人間を遠ざけてくれたのは正解か」
「それで?」
「サロアだ」
「お前はあの人間が好みなのか」
「知っているのか」
「見えた」
神が目尻に指を当てた。
見える?
真っ直ぐに神を見据えたアレスの袖を引き、床に座らせた。

「我ら同じ音を聞き、同じものを見、同じ言葉を語る」
「神の、アーカイブ」
「どこかでサロアを見た神がいる。その姿は私にも見える」
「サロアは復活するつもりか。見えるんだろ」
「神の目が捉えれば」
「さすがシエラ・マ・ドレスタまでは潜り込めないか」
いずれにしろ本当にサロア神が目覚めるとなれば世界は突如として動きだす。
この世における最高神なのだから。
ルクシェリースとディグダ。
二大勢力が一気に片側に傾くことになる。
それからのことは、考えたくはない。

「神は痛みを感じるのか。殺される瞬間の痛み、恐怖は、感覚を共有するのなら」
「アーカイブから読み取る記憶は断片的だ。きっと人間の思い出に似ている。私以外にも死の瞬間を知りたい神はいるだろう」
だが探しても最期の記憶はどこにもない。

「死のその瞬間がいつ、どのように訪れるのか。分からないのは神もヒトも同じだ」
魂は散っていく。
大気に溶ける。
理は知っている、だが感覚はその瞬間まで知ることはない。

「世界の終わりは歪みから始まった」
どこかの神が呟いた言葉だ。
世界の均衡が崩された。
人が神を怖れ、魔を怖れ、木々を薙ぎ倒し、神門(ゲート)を破壊し、世界の歯車は軋みを上げた。

「神から石を受け取った」
アレスはデュラーンの話をした。
凍牙の洞窟で凍結した剣を抜くと剣は石と姿を変えた。
女神が石とアレスに向かって言った。
剣は石の中にある。
それを守れと。
蒼の透き通った石はラナーンの左耳に預けている。

「女神と石?」
「何か分からないか」
瞬きを数回したのち、首を振った。
あれは単なる幻想ではない。
現に譲り受けた石は手許にある。

「知り得ないのは私より高位の神だからだ」
しかし、と神はアレスに目を合わせた。
目の奥の何かを読み取ろうとでもするようだ。

「神がヒトに何かを託すなど。加えて三女神の香りを纏うなんていうのは」
不可解だと首を捻る。

「ここの里の者たちと同じ血の流れか」
「自分の血については良く知らない」
デュラーンではないのか、と神が呟くのでアレスは自分の親について話した。
話す、と言うほど長い物語はない。
物心がついたころにはすでに隣には父親しかいなかった。
父親は剣術に長けていたので、剣術を教え、時に護衛として雇われもした。
陽気でいて真面目な男だった。
アレスは知らぬ地で容易に友人を作らなかった。
父親はそれを心配したり咎めたりすることもなく、母親に似ているとアレスに微笑んでいた。
彼の妻も陰湿な風ではなかったが口数の少ない美しい女性だったらしい。
どの国を渡り、どの街で過ごしたのかはアレスは覚えていない。
デュラーンに流れ着き、長くを各都市、そしてデュラーン城下町で過ごした。
この国の風土か気質か食か、何かが父親の波長にあったのだと思う。
剣術指南で得た資金で城下に家を借りた。
根を下ろしたのだ。
しばらくして、デュラーン城から声が掛かることとなる。
どこからか父親の腕を耳にしたのだろう。
デュラーンのディラス王との拝謁を果たし、王は父親の人柄を気に入ったようで日を跨ぐことなくすぐに召し抱えた。
半年も過ぎぬうちに、質素な借家住まいだと知ったディラス王が息子ごと城へと迎えた。
病床の王妃の死に遭遇し、のちにラナーンと出会うことになる。

「父親がどこの生まれか。母親はどこにいたのか知らない。父親が死んだ。俺にとってはもう、あいつらが家族みたいなものだ」
どこの誰など関係はない。
デュラーンで以後育った。
体の細胞一つ一つまでデュラーンに染まった。

「血の筋が分からないのは俺もラナーンも同じだ。だから何だ。何も変わらない」
話は終わり、アレスは立ち上がる。
温まった座を離れるアレスの背中に神が声をかけた。

「ラナウ」
久々に耳にした、彼らしか知らない名にアレスの背中が硬直した。

「彼女は森の奥で健やかに暮しているよ。村は彼女を受け入れている」
「そう、か」
一人生き延びたラナウ。

「生きて」
アレスは深く震える目蓋を閉じた。
喜びで泡立った肌を心で鎮める。
生きていたのか。
もう会うことはない。
だがもう一度、彼女の穏やかな顔を見てみたいと思った。











go to next scene >>>

<<< re-turn to one world another story
        or
<<<<< re-turn to top page
















S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S-S
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送